16.水滴の渚


ひかるが音の幽霊である父と出会うことはあまりなかったが〜夜中のトイレ時にわざとらしく廊下の奥で父は「鳴った」〜ひかるの母である光瑠は、それこそ毎日夫が「鳴っている」のを聴いていた。
光瑠は、どんな時に夫の幽霊の音が鳴るのかをこの頃細かく観察していた。
「あの人は」と光瑠は思った。「わたしが仕事で疲れている時なんかに励ましてくれのかしら」
だから光瑠は、病院の夜勤明けの最も疲れている時に夫の音が鳴るのかな、と期待した。
けれども、夫の幽霊の音は早朝にはなかなか鳴らなかった。
彼が家の物を揺さぶったり振るわせたりするのは、光瑠が主として夕食を作っている時だった。
たとえばカレーを作る時、牛肉の灰汁を取るのを光留がサボっている時は、盛んに家の中の物たちが震えた。まずは時計が鳴った。その次に窓枠が不自然に震えた。それを受けて、テレビの横のサボテンがパチパチ点滅したりした。
「サボテンを点滅させないでよ」と、光瑠は部屋の空気に向かって言った。「サボテンはあなたみたいに闘争的じゃないんだよ」
すると幽霊の夫は反省したのか、部屋の光景を月に変えて見せたりした。
その荒凉たる大地に白い暴力的な太陽の光が当たる景色を、最初光瑠は驚きをもって見ていた。けれどもその光景が夫の贖罪だと理解した時、初めの喜びは薄くなっていった。
「あなた、そろそろ消える時なのでは?」
光瑠は、音の幽霊である夫にまだまだここにいてほしかった。けれども、その実存感はあまりにリアルで、肉体のない音だけの夫がいちいち主張してくるごとに恐ろしいほどの寂しさを覚えた。
そして、音として食器をならしたりするその夫に、実をいうと、強く抱きしめてほしかった。夫が生きていた頃のように、光瑠が出口のない言葉のなさと寂しさに襲われた時、冗談を一言ふたこと言ったあと、黙って抱きしめてほしかった。
けれどもそれは叶わない。せいぜい夫は、精一杯の力を出したとしてもドアをバタンバタンとうるさくするだけだった。
「だから、やめてよ、あなた」光瑠は時々誰に訴えることのできない苦しさとともに、そのドアの音に対して叫んだ。
「どうしてあなたは、わたしを抱きしめることができないのかしら?」光瑠はドアのノブを睨んで言った。「そしてわたしは、どうしていつまでもあなたにギュッとしてほしいんだろう?」
そして光瑠は、夫が癌で死ぬ直前、「今にも死にそうになってようやく死の先輩たちの声が僕に届くようになった」と小さく漏らしたことを思い出した。
「幽霊の先輩たちは」と夫は死の床から語りかけた。「音として」夫は笑っていた。「幽霊の音として家族たちに語りかけるんだけど」夫はそこで休んだ。「すぐに家族たちは物足りなくなるそうだ」
今のわたしだ、といま光瑠は思った。わたしはだから今、あの時の彼の声を思い出している。
「音だけで物足りなくなった時にね」夫の声は一層細くなってあの時言った。「幽霊の先輩たちはこうしろって僕に言うんだよ」
「たぶん、音とか気配だけでは、わたしは一層切なくなるよ」その時光瑠はそう言ったが、まさに今の自分の気持ちだった。「幽霊のあなたがユリゲラーみたいにスプーンを曲げたって、わたしは泣いてばかりなんだから」
そのまま2人の会話は終わってしまった。
なぜなら死の床にあった夫がその時妻に伝えようとしたことは、幽霊の自分が無数のスプーン曲げをすることで妻を爆笑させるという陳腐な提案だったからだ。

 **

けれども、気弱な幽霊だった父だが、ドリーファンクJr.よりテリーファンクのほうがとても好きだった父はそれでも楽天家だった。
だから光瑠が、身体と身体の接触が無理であるにも関わらず、立体的で身体的な接触を求めていることに関して、絶望を感じながらも非常に気楽な思いを抱いていた。
本当はテリーよりもドリーファンクJr.のほうに親和性を抱く父は、身体と身体がこの世で接することが終わった、死という出来事を歓迎していた。
「もう血みどろのグーパンチは僕は十分おみまいしてきた」と幽霊の父は、妻の光瑠に言った。「君が僕の肌の温かさを求めていたとしても」
「それが無理だから、あなたの声や音では無理だから、幽霊というあなたを否定せざるを得ないから、わたしはこうして泣いているの」と言いながら光瑠は泣いていた。
泣きながら光瑠は若狭湾を見ていた。いつも若狭湾は憂いを帯びていたけれども、その日の湾は光瑠に優しい光を投げかかけていた。もう泣くなよ光瑠、と、ひかるの母である光瑠に、湾全体で若狭湾は語りかけていた。
その朝の光瑠は、いつも通り夜勤明けで、疲れきった腰や肩を抱えて車に座り、目の前の若狭湾を見ていた。夫の幽霊は、そんな光瑠にこんなふうに語りかけた。
「ごめん、光瑠」と言いながらも、無意味なポルターガイストを夫は避けた。代わりにこんなことを空気を振動させて言った。
「僕らのひかるはやがて結婚するだろう。その相手は君にやっぱり似ているよ。その君に似ているひかるの結婚相手とともに、どこかの夏のスキー場を彼らは走るだろうね」
「夏のスキー場?」それはたぶん、ひかるの彼女のヒカリの実家があるマキノのスキー場だろう。そこで彼らは、不思議な光を見ることになるんだろうか。
「見るんじゃなくて」と、幽霊の夫は言った。
「感じる?」光瑠はすぐに応えた。
「それとも少し違って」よく考えると、幽霊がそれだけ明瞭にしゃべるのは変だったが、ポルターガイストではない、あの夫の声が自分を包み込むのが本当に快感だったので、光瑠は深く考えなかった。
「夏のスキー場には当然雪はないけれども」と幽霊の夫は語った。「何かの方法でひかるたちに語りかけてくる」
「ああ、朝の草の水滴とか、雨かしら」光瑠は深く考えずに言った。「夏のスキー場を全面的に覆う水滴が、それを見るものを幸福にするの」
「当たり」と幽霊の夫は音を鳴らした。「僕はそんな水滴になって君を包み込みたいんだよ」
「それでもわたしは不満じゃないかな」光瑠は、自分の周囲を包む物理的圧に対して言ってみた。「やっぱりわたし、泣いてばかりじゃ?」
「まあ、クルマの外に出てみなよ」幽霊の夫はそんなふうに音全体で伝えた。「騙されたと思って」
光瑠はそんな幽霊の夫に騙されてみようと思い、クルマから出た。目の前には不思議な静寂さを抱える若狭湾が展開していた。
太陽は湾の向こうで滲んでいたけれども、同時に細くて見えない雨に光瑠は包まれた。
その少しあと、光瑠の目に涙が浮かび、「あなた、ありがとう」と呟いていた。
光瑠は夫に今も抱きしめてほしい。強く。
けれどもそれは叶わない欲望だ。そんな欲望を抱えながら光瑠は、自分を包み込む雨粒や、その雨の打撃音や、その打撃音がいちいち思い出させる夫とのコミュニケーションの回想に包まれた。
それは夫のリアルな腕とは別の、蒸し返すような生命の響きだった。
「あなた」と光瑠は自分を包み込む水滴たちに語りかけた。「あなたってこんな豊かな人だったっけ?」
それを聞いた無数の水滴に宿った幽霊の夫は、若狭湾全体を包み込むような大声で笑った。その声を聞けたのは光瑠だけだったけれども。


17.激しい雨


カホも帰っていき、再び静かになった自分のペンションのキッチンで、カナタは目玉焼きを作りたくなった。そう夫に言ってみると、彼は冷蔵庫から2個卵を出した。
「思い切って5個使おうか?」カナタは夫に笑いながら言った。
「5 個も焼けるフライパン、あったっけ?」と言いながら、夫はキッチンの中を探した。
棚のドアを開け閉めしてしばらく探したあと夫は、「あった!」と珍しく大きな声で言った。「ペンションのオープン前に使うかなと思って買っておいたけど、結局一度も使ってないな」
フライパンに5個の卵を割り、すぐにカナタは蓋をした。透明な蓋の下でプクプク震える5個の卵を見下ろしながらカナタは、「なんとなく目玉焼きの気分じゃないよねえ」と呟いた。
「いまさら」と夫は言ったがすぐに、「じゃあスクランブルエッグに変身させる?」と言った。
「うーん、それもワンパターンだなあ」とカナタは言い、「ヒカリに聞いてみようかな」と続けた。
「なんだ、ヒカリと話したいんじゃあ?」と夫は言った。
「そうかも」とカナタ。「カホと話してたら、なんだかヒカリとひかるに話したくなったよ」
「僕もだよ」そう夫は言い、珍しくカナタの肩を抱き寄せた。

 **

そうして夫に肩を触れられながら、カナタは母のアキラとの記憶に囚われ始めた。
そして、カナタと夫が今いるマキノのペンション周辺に、雨が降り始めた。
もうずいぶん昔、カナタは、先輩に会いにパリに行き、そこで先輩の妻のヴァンダと語り合ったあと、すべては終わったと受け入れたはずだった。
最後の夜にヴァンダと神経衰弱をしたパリ旅行の帰り、カナタのこころはそううまく収まらず、飛行機の中でずっと泣いていた。関空に着いた後も涙は収まらず、仕方なくカナタは母のアキラを訪ねた。
アキラは黙ってカナタを迎えいれ、
「また私の絵を描く?」
と誘ってくれた。
カナタは、少女の頃と大学生の頃に母の絵を描いたことがあった。いずれも上手に母を描くことができたのだが、アキラとカナタにとって不思議だったのは、いずれの場面でも、ふたりだけの時間ではなかった気がしたことだった。
特に大学生の頃に母を描いた日、突然外に激しい雨が降ってきた時、ふたりはそう感じたとあとで語り合った。
「あの時の土砂降りの雨、わたし、なんだかほっとしたの」とカナタ。
「あら、わたしも描かれながら不思議に落ち着いた」とアキラ。
その雨は、2人を包んだ。大学生のカナタは、その激しい雨音を聞きながら母のアキラの絵を描いた。
その激しい雨に支えられるようにして、大学生のカナタは、激しい雨がもつリズムに応援されるように、アニメ絵でありながらアニメではない母をそのノートに描くことができた。
ふたりはその時、雨に包まれていた。その雨はなんだったんだろう、年をとったアキラも、成長した娘のヒカリを見つめるカナタも、ふだんの生活をしている時に突然考えることがあった。
3回目のペンをもつパリ帰りのカナタに向かってアキラは、「あんな不思議な雨は今日はたぶん降らないだろうね」と、いつもの椅子に座りながら言った。
「わたしは降るような気がするよ」ノートを広げペンのキャップをとってカナタは言った。「たぶん、これば最後だろうけど」
そう言いながら、カナタは母の絵をノートに描いていった。
「あら、まずい」
描きながらカナタは思わず声を出した。溢れ出てきた涙が、ノートに描かれる絵にぽつん、ぽつんと落ちたからだ。
「いいよ、それが本当の水彩画だよ」アキラは娘に笑って話しかけた。
その時、カナタの予想通り、雨が急に降ってきた。少し前まで明るい太陽のひかりが周辺を覆っていたが、雨はまるでカナタが泣く時をずっと待っているように突然降ってきた。
「カナタの涙を、雨は待っていたのかな」母のアキラは立ち、窓際に歩いていった。「絶対降ってやる、みたいな感じだったな」
「立ったらダメだよ」ひっくひっく顎を上げながら、カナタは母に言った。顔は涙でびしょ濡れだった。
「え、まだ描く?」窓際に立ち、アキラは娘に聞いた。「今日はもうやめていいんじゃないの?」
「ママ、それじゃあ、雨に応えたことにはならない」

 **

「それで君は絵を完成させたの? 」娘のヒカリにネット電話をするためパソコンの前に座りながら、カナタの夫は聞いた。
カナタは窓の外に広がる夏のスキー場を見つめていた。そして、自分がその時、3回目の絵を完成させたかどうか忘れていることに気づいた。
「たしか絵は完成させたはずなんだけど」カナタは夫を見て言った。「ママがずいぶん喜んでいた記憶があるよ」
「じゃあ、ヒカリへの電話よりも先に、おかあさんに聞いてみる?」夫はそう言いながら、パソコンで義理の母であるアキラに連絡していた。
そのようすをカナタは黙ってみながら、3回目の絵はどんなものだったのか、ずっと思い出そうとしていた。
電話にすぐに出たアキラに、夫は今の状況を話し、3回目の絵が完成したのかどうかを、単刀直入に聞いた。
「もちろん」相変わらずアキラの声は力強かった。「わたしのこの部屋にあるから、いま送ろうか?」
「ぜひ、お願いします」カナタが考える前に夫は母に頼んでいた。カナタは、その一連の流れが楽しくなっていた。
「届いた!」夫のパソコンに映し出された画像に、カナタがパリから帰って描いたアキラの像が映し出されていた。
だがそこに描かれていた絵には、アキラの姿は不在で、代わりに、夜の琵琶湖の湖面と、空中に浮かぶ夜の月があった。
「なんでこれがわたし? って、その時聞いたのよ」アキラは、カナタの夫に語りかけていた。
「おかあさんっぽいですよ」カナタの夫は笑って答えた。つづけて、「この湖面は本当に琵琶湖なのかな」と言った。
カナタは立って、パソコンに映し出された自分の絵をじっと見た。そして、「わたし、どうしてこんな月のママを描いたんだろ」とつぶやいた。
すると、外で急に雨が降ってきた。
雨音を聞いてカナタは、「いま、また降るの? 」と、外の雨粒たちに語りかけた。
その声に答えるように雨の勢いは激しくなった。
「雨と会話できる?」と夫はつぶやいた。「こんな人なんですか、カナタは、おかあさん?」
「あら、わたしのほうが会話できるのよ」とアキラはパソコンの画面の向こうで言って、笑った。「京都でも降ってきたよ」
カナタは、その母の声を聞き、パリから帰ってきた時、なぜ自分が母の実像の代わりに湖面と月を描いたのか、少しだけわかってきた。
「わたしはね、あなた」と、カナタはパソコンの前に座る夫の背中に向かって言った。「ママの絵を描くことで癒やされながらね」
「うん」と夫は言った。その時夫は、カナタと言ったハワイの新婚旅行のことを思い出していた。それまでの人生すべてをカナタに語った夫は、その高層ホテルの一室で、カナタに向かってすすり泣いた。
そんな体験をこれまでしたことがなかった夫は、鮮明にハワイの夜を覚えていた。その体験を思い出しながら夫は妻の美しい声を聞いていた。
「あれは琵琶湖の湖面でもなく、もちろんセーヌ川でもなく」とカナタは言った。「やがてあなたと旅するハワイの海なんだよ」
そこまで聞いた京都のアキラは、ネット通信を静かに閉じた。そのことを、カナタも夫も気づいていた。そして、ありがとう、とふたりは思った。
「ワイキキの月か、あれは」と夫は漏らした。「でもなんだか、ジャパニーズっぽいぞ」
「海はワイキキなんだけど」とカナタは言った。そして、夫の肩に手を乗せた。「あの月はあなたなんだよ」と言い、つづけて、
「つきと」と言った。
夫は、久しぶりに自分の名前を読んでもらえて嬉しかったが、月人という名をもつ自分と出会ったのは、カナタが母を3回目に描いた少しあとのはずだが、とつぶやいた。
「そんなものなのかもよ、あなた」カナタは月人の首に腕を回して笑った。「ヒカリへの電話は、明日ね」
その時は雨は降っては来なかった。終着点を悟った人々に雨は関心を失うのかなと、カナタは思った。月人は、雨が慰めてくれない地点にまで、なんとか我々はたどり着くことができたのかなと妻に言ってみた。
「雨は去っていったのね」カナタは寂しそうに言ったものの、目の前にいる平凡な男の髪を撫でることでその寂しさは消えていったことが不思議だった。
雨の助けがなくとも、私たちは互いの髪を撫で、その互いの髪がどこまでも絡み合っていたとしても許すことができる、そのような地点にどうやらわたしたちはたどり着いたようだ。カナタは再び静かに泣いた。



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