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台湾ひとり研究室:映像編「中国歴史ドラマは語学学習に向かないのでは?に答えてみる。」

歴史ドラマを見ているというと、歴史ドラマは語学学習には向かないんじゃないか、現代ドラマのほうがいいんじゃないか、という指摘をいただいたことがある。ちょっとオモシロいテーマだなあと思ったので、かなり長くなりそうだけれど、考えをまとめておく。

まず、現代の一般的な口頭表現だけを学習目的にするのであれば、確かに現代ドラマが適している。ただ、だからといって歴史ドラマが言語の学習素材に値しない、という意味ではない、というのがわたしの立場だ。

確かに中国歴史ドラマのセリフは、現代では使用頻度は低く、難易度が高い。語彙が豊富なのに加えて背景知識も必要になる。ただ、語彙の中には現代の文章表現で用いられるものもあるし、成語(四字熟語)が頻繁に使われたり、詩を諳んじる姿からは、中国語が持つ奥深さが伝わってくる。そうした中国語の言語としての深みは、現代ドラマにやや少ない点だ。いや、ないわけではないけれど、歴史モノに比べて、という意味で。

また歴史ドラマが適さない理由として「日本語学習者が日本の歴史ドラマの影響で『〜でござる』とか言うとどうなの?」という指摘を受けたこともある。だが、それは本人が「ドラマで何を学ぶか」というチョイスの問題であって、ドラマの切り口の問題ではないのではないか。仮にその表現を当人が気に入ったとして、なんでもかんでも付けて話すかどうかは、当人が判断する話ではないだろうか。

単なる例だけど『スラムダンク』で語尾のすべてに「ピョン」を付けて話す深津というキャラがいた。もしかしたら(へんなのー)とは思われるかもしれないけれど、より重要なことは彼はあの文末表現を好んで使っていた、ということだ。あるいは、ダニエル・カールさんは山形弁のあの響きが好きで、好きだという気持ちと一緒に、彼の個性としてキラキラ光っている。

よしんば、学習者が日本の大河ドラマが好きで「〜ござる」をオモシロいと思ったとする。でも、使ってはいけない理由はいったいなんだろう。学習者は、いつも正しい語彙と文法で話すように心がけなくてはならない、ということだろうか。楽しんでターゲット言語を使うのはダメなのか。外国人は標準的な話し方しかしてはいけない、なんてことにつながらないだろうか。

中国歴史ドラマが台湾で大流行りしたあと、 LINE スタンプには「遵命」「本宮知道了」といった歴史ドラマに出てくる表現が用いられているものがある。歴史ドラマで使われる表現が、現代の生活にだって登場する。「好的」「我知道了」ではなく、こうした表現を使うオモシロさだってあるんじゃないか。

つまり、歴史ドラマという素材を、現代の一般的な口頭表現だけにつなげて考えるのではなく、大量の語彙インプットとして、あるいは文章につながるステップとして、楽しみとして、言語につながる歴史的背景の理解として、など、もっと広くとらえれば、十分に学習ツールだ、と思うのである。

ところで、この話題はドラマのジャンルの問題に限らない。たまたまわたしが紹介したのはドラマだけれど、人によっては、ラジオだって漫画だってニュースだって小説だって音楽だっていい。当人が興味を持ち、続けられると思う素材であれば、それを使って学べばいい。

まあ、教科書で学び、参考書を使って練習すれば、効率的かもしれない。だけど、言語のおもしろさは、教科書や試験、つまり効率の中だけにあるのではない。逆にいうと、限られた素材からしか学べないなんて、ちょっとつまらなくないだろうか。

長い間、語学教育、日本語教育にかかわってきた。教師だったわけではなく、関係する出版社の編集者として。教科書シリーズを担当して、先生方と喧々諤々しながら制作した。そこで痛烈に感じたのは紙媒体の限界だった。教科書という規格の中に収められることなんて、日本語という素敵な言葉のうちの、ほんのちょっとでしかない。そのことを思い知らされた。

よく、一緒に仕事する日本語教師の方々が言っていたのは「アニメやドラマを観て、日本に来る人が多いんですよ。たいていが『え、こんな表現知ってるの?』と思うし、話すのもすごく流暢なんです」と口を揃えた。聞きながら内心、オイオイと思っていた。だって、教科書に入ってない言葉のほうが圧倒的に多いじゃない? 辞書に入らない言葉だってあるくらいなのだから。

自分が学習する立場として中国語を学び始めたとき、続けていて楽しく、苦にならなかったのはドラマを観ることだった。台湾に留学する前は台湾ドラマばかり観ていた。理由としてはごく単純で、オモシロかったのだ。何本も何話もひたすらに字幕を追いながら、漢字の持つ魅力を、ドラマが語る人生観を、違う世界を知ったのだった。

いつだったか、初級とされる日本語学習者が会社に出したレポートを見た。文法は初級後半くらいだったけれど、使用語彙はその学習者が仕事で使う用語がふんだんに盛り込まれていて、読み応えのあるものだった。言語教育が定めたレベルと、学習者の周辺にある語彙は必ずしも一致しない典型的な例だろう。

どこでどんな語彙や表現を学ぶかは、学習者自身が取り組んでいくことだ。ドラマで学ぶ方法は、非効率的で、一見、遠い道のりかもしれない。でも、教科書や学習書とはまったく違う「オモシロい」と思う強い動機がある。その動機こそが、次の言葉へ向かわせるのではないだろうか。

中国語に興味を持った人が中国語のドラマに興味を持つのも、ドラマから中国語に興味を持つのも、ごく自然な流れだと思う。入り口はどこからでもいい。いろんな人がいろんなふうに楽しめるといいなあ、と思うんである。

はー、やっぱり長くなってしまった。いろんな考え方はあるだろうけれど、誰かが何かを考えるきっかけになればうれしい。

勝手口から見た台湾の姿を、さまざまにお届けすべく活動しています。2023〜24年にかけては日本で刊行予定の翻訳作業が中心ですが、24年には同書の関連イベントを開催したいと考えています。応援団、サポーターとしてご協力いただけたらうれしいです。2023.8.15