カミュのペストとコロナ禍

最近「カフカの変身」を読んだが、カフカが個の不条理を取り上げているのに対して、「ペスト」は集団の不条理を受け入れる過程を描いていて、2大不条理文学とも呼ばれているようだ。共通するのは、不条理に立ち向かう強い意志に基づく事象の解明と解決への動的なふるまいではなく、根本的な解決をあきらめたうえで「不条理」を受け入れてゆく過程を淡々と記述している点である。もっとも変身が個人の内面を掘り下げ、自由にならない自己の変化を通じ人間であることの儚さを描いているのに対して、ペストは主人公リウーの観察者の視点で、街全体が疫病という不条理を受け入れざるを得ない様々な群像を描いている。病魔に襲われてゆく人と家族。ロックダウンされた街の変化。医療崩壊と死者の処理。。。医者はもちろん行政の対応、メディアの役割、犯罪者のふるまいなど今のコロナにも通じるエピソードで語られている。いや、むしろそのままではないか。

まさに、我々はコロナ禍の中に今いる。単なる感染症にとどまらず、人、社会の在り方まで突き刺さる不条理は、まさに「禍」という言葉が相応しい。その言葉には、制度や科学技術で対応できない人知を超えた呪術的な響きがある。医療の発達はもちろんのこと、我々はゲノムも解析しAIを活用するようになった。おそらくワクチンや新薬による科学的な解決はあるだろうが、「禍」という不条理の前に立ち止まってしまう。観光に来ないでください。店に入るのは〇人までです。会社来ないでください。でも仕事はしましょう。理由なく外をあるいてる人はいけません。学校は始まりません。夜は家に帰りましょう。。。

つい数か月間に、儲けよう、頑張ろう、忙しいぞ、受験だ。。。と言っていたのだ。普段の価値観が一斉に真逆の方向に向かった時の戸惑いの中に我々はいる。そして以前の生活を基準にすれば不条理は永遠に続くだろう。あるいは、この不条理は潜在化していただけで、コロナをきっかけに明らかになっただけかもしれない。働き方、家族の在り方、一極集中、金融資本主義。。。

すでにウイズコロナ、ポストコロナという議論も始まってきたが、この不条理を肯定的に裏返して産業や社会の再定義と行動変容ができるかが問われている。変身では、虫になった主人公のしがらみから解放され、家族がなにごともなかったように行動変容することで終わる。ペストではペストから解放され喜ぶ市民が日常を取り戻すシーンで終わるが、まだどこかの街で同じことが起きると主人公が語る。コロナの後はどうなるのか?どうするべきか?

不条理  ①筋が通らないこと。道理が立たないこと。また、そのさま。 「 -な判定」 「 -な事件」② 〘哲〙 〔フランス absurdité〕 実存主義の用語。人生の非合理で無意味な状況を示す語としてカミュによって用いられた。 大辞林


文京区と日高市に2拠点居住中。