見出し画像

隅で常々

 男女問わず成人した人々が低年齢層向けアニメやゲームに熱中する姿や、稚拙な脚本と演出や構成の未熟さを隠すことすら出来ていないドラマを見て感想を言い合う様を見ながら、私は教室の隅で常々思っていた、「何が楽しいのだろうか」と。
 高校生の頃はミニシアターへ通い詰めては劇場に居る誰よりも自分が若い事に悦に入り、マイナーな映画の感想をミクシィに書いていた。大学に入ってからはさらにエスカレートし、一人で外国に行きフィルムアーカイブと呼ばれる映像保管施設を巡っては、市場に出回っていない歴史的価値の有る映画を観たことも有る。
 そして休み明けに学校に行き、私はこの教室に居る誰も見た事が無いような映画を観たのだと、誰よりも優れた感受性と行動力をもってして優れた作品に出会ったのだと、下らない作品しか見ない人々が群れる教室の片隅に、心底うんざりした心持で寝たふりをしていた。誰に話しても分かるはずも無く、評論を書こうにもそこまでの知識と熱量は無い。自らの感性の糧となったと信じ込むことにより、映画を観た時間は有意義であったと正当化するほか無かったのである。
 社会に出て思う。全てが無駄になったどころか、自らの人生を退転させる一因となっていたのではないか。もっと社交的に、愛想良く、スポーツに明け暮れ、人を馬鹿にして自らの中途半端な知識に自惚れること無く、友人を作っていれば、明るく楽しい人生を歩むことが出来たのではないか。
 

 労働で疲弊した心と体は最早、何をしても楽しいと感じることは無く、生きている意味など無いと思わずにはいられない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?