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自転車操業は回ってないのと同じ

 先日、いつものバーで「アキさんならどうします?」と問われた。金銭的に困窮したとき、収入を増やすのか、支出を減らすのか、それとも…。
 私の答えは「支出を減らす」。
 累積した赤字を早く減らすには、収入を増やしてかつ支出を抑える必要がある。でも支出を減らす意識がないと、増えた分も結局使ってしまう。まずは少ない額で暮らすことに慣れ、それから収入を増やす。最悪、収入はそのままでも支出が減れば赤字を補填できる。

 私はお金の管理が苦手。かつて数千万円持っていたけれど、およそ10年ですっからかんになった。その後、やってくる支払いに負われ、お金を回して回して生活していた。ように見せていたけれど、実際は破綻寸前。よく切り抜けられたと思う。
 そんな私の経験を振り返ってみた。


24歳、預金残高4,000万

 23歳の10月、母が死んだ。
 高校教師だった母の月給は、手取りで約30万だったように思う。ボーナスは1回約3か月の年2回なので、30万 × 18か月で年収は540万くらい。父も同じく高校教師だから、我が家全体の収入は1,000万ほど。(母が死ぬ4~5年前に父は家を出ていったけど)
 母はとても真面目で堅実な人だった。
 我が家は2回、家を建てた。私が生まれる前に建てた家の周囲が開発され、バブルの影響もあって土地が高騰。その機を逃さず家を売り、その益を頭金に6,000万(土地4,000万、建物2,000万)の家を建てた。
 それから6年で、自分が借りた2,000万を完済。もちろん返済しただけでなく、余裕のある生活をし、私を養い、貯金までしていた。お金の管理ができない私には、どうやってやりくりしていたのかさっぱりわからない。

 母が死んだ当時、高校教師の退職金は約3,000万。それ以外にも貯金や株式、投資信託など、2,000万近くあった。
 母は入院中、一時帰宅したときに自筆の遺言書を作成。そこには一部は姉の子ども(甥)と姉へ、それ以外はすべて私にと書かれていた。高校卒業後、3年ぶらぶらしてた”あかんたれ”で、東京の私立大学に入学したばかりでお金が必要だからと。
 遺産相続の手続きがすべて終わったとき、私は24歳にして預金や株式、投資信託など合わせて4,000万ほどを手にした。今ならわかる。それがどれほどの金額なのか。でも、24歳の私にはちっともわかっていなかった。

預金の底が見えてきた

 母が死んだ後、東京の大学に戻ることにしたのだが、母の形見であるネコを引き取るため、ネコが飼える家を探さなくてはならなかった。今はペット可やネコ可物件も多いが、25年前は東京といえどそうそうない。
 見つけたのは、荻窪駅から徒歩10分、4Kの古い古い一戸建て。離婚した姉とその子どもとともに住むことになった。家賃は20万で、ネコを飼うためにそこを選んだ私が12万を負担。敷金礼金も私、更新料も私が支払った。
 光熱費やケーブルテレビ代、冬の灯油代など、どうしてたかは忘れたけれど、なにかあったときには多く遺産を受け取った私が支払うのが常だった。
 4年間、一緒に暮らした甥の服やおもちゃもよく買った。ちょっといいブランドのもの、お高い知育玩具、室内ブランコ。姉が「ピアノを再開したい」「フルート習いたい」と言うので、50万くらいする電子ピアノや5万くらいのフルートを購入。誕生日にはバカラのアクセサリーやコーチの革のバッグもプレゼントした。

 モノと同じくお金に糸目を付けなかったのが、食。
 ラ・ベットラ・ダ・オチアイや聘珍樓をはじめ、近所だった秋吉やもうひとつの小洒落た焼鳥のお店、池袋の沖縄料理、とんかつのまい泉、和幸、シズラー、吉祥寺や阿佐ヶ谷のタイ料理店など、外食三昧。ひとり2~3,000円ではあるけれど、それが週1~2回なのでけっこうな出費だ。
 挙句の果てに、姉と私の友人と3人で中華を食べに行き、9万円支払った。今考えるとどうかしている。
 料理は趣味なので家で作ることもあったけれど、とにかく材料や道具にお金をかけた。黒豚、ブランド鶏、明治屋や紀ノ国屋で調達する調味料。道具もフィスラーやビタクラフト、ル・クルーゼ、柳宗理、オクソー、野田琺瑯など。
 さらに6万のステッパー、10万以上するエアロバイクも買った。本もCDも、シルクロードのレーザーディスクも買った。ロベール・クレジュリーの4万の靴に7万のブーツも買った。ただし、ロベール・クレジュリーの2足は、今もはいている。年に一度くらいしか出番はないけれど。
 そうそう、競走馬の一口馬主もしていた。ナリタトップロードの半妹で、GIにも出走したフローラルグリーン。他にも5頭くらい持っていたように思う。プラス回収はフローラルグリーンだけだったけど。

 そんなことをしていたら、10年も経たないうちにお金の桁数がひとつ減った。

600万が紙切れに

 大学は休学、そして中退したので学費はかからなくなり、かなりバイトもしていたので月13万くらい収入はあった。そして母の残した投資信託や株を慎重に運用していたため、ときどき分配金が入る。
 ある日、株を買いたくなった。堅調な株もしくはリスクの少ない投資信託しかしていなかったが、自分が「いい」と思ったものに投資したくなったのだ。
 遺産を相続してすぐくらいに、Macintosh のPerforma 5440を購入。その頃は Windows 全盛期で、Apple は風前の灯だった。でも自分で使ってよかったことと、次に発売された iMac を見て、Apple の復活を確信。
 証券会社の担当者に連絡し、反対されながら40株とか50株とか買い付けた。見事 iMac は成功し、株価は上昇。証券会社に言われるまま、利益確定で売ってしまったが、あのまま持ち続けていれば…。
 同様に、初めて買ったゲームである「ファイナルファンタジー」の6と7に感激し、スクウェア株を購入。エニックスと合併する以前に売り払ってしまったけれど、持ち続けていたら…。
 銘柄選びの感覚はあるけれど、売りどきのセンスはないようだ。
 そんな感じで少なからず収入もあり、おそろしいほどの浪費生活ではあったけれど、10年くらいはお金の心配をせずに生きていた。そのまま株を勉強して投資し続けていれば、あんな大失敗はしなかっただろう。

 それまで慎重な投資しかしなかった私が株式投資もするんだと知った証券会社は、次々に株の購入を勧めるようになった。ときはITバブル時代、聞いたこともない半導体?メモリ?の会社を次々買っては売りを繰り返した。
 すでに株に興味を失っていた私が、証券会社に出した唯一の条件は「危険になる前に連絡すること」。それさえ守られれば、手数料を稼ぎたい証券会社の言いなりで見知らぬ銘柄の売買にOKを出した。
 私の経験上、証券会社の担当者の質は預けた金額に比例する。7桁あったときには東京本社へ栄転する人ばかりが担当だったが、6桁になり、さらに目減りするようになると担当が若い新人になった。

 ある日、運転中に電話が入った。
 ドラッグストアの駐車場に車をとめ、電話に出ると「エルピーダメモリが危ない」と言う。
「今ならいくらなの?」と聞くと、たしか1円と答えた。「じゃあ、そのまま持ってたら上がるの?」と聞くと、1円でも売れなくなるとのこと。目の前が真っ暗になった。そのときの私のほぼ全財産はエルピーダメモリの株で、それが一瞬で消えてなくなったのだ。
「言ったよね、買うのはいいけど、危なくなる前に連絡するようにって!」
 その後、10分以上怒鳴りつけたように思う。でも怒鳴っても、時は戻らない。それから1時間くらい、震える手でハンドルを握り、駐車場で呆然としていた。
 こうして母の遺産の最後の600万はなくなってしまった。

無い袖をどうやって振るか

 もう遊んで暮らすことはできない。本格的に稼がなくては。
 知人の紹介でテレビショッピングやケーブルテレビの番組台本を執筆したり、東京で学んだHTMLを生かしてHPを作成したり、スーパーのレジ係をしたり。どうにかこうにか最低限の生活費をまかなう。
 でも営業力はなく、かつフリーランスとしての自覚に欠けていた。かといって、就職経験なしの真っ白な履歴書を持つ30代後半が就職できるほど売り手市場ではない。
 ただひたすらに営業力のある知人が取ってきた仕事のおこぼれにあずかる。それがないときは、レジ係や単発の葬儀場のバイトをする。あとは、叔母が亡くなるまでは運転手をしておこづかいをもらったりしてしのいだ。

 もちろん、それでは足りない。ときに税金が支払えず、光熱費が引き落とせず、督促状が届く。
 でも手元にお金はない。どうするか。方法はひとつ。
 クレジットカードのキャッシング。
 キャッシングを支払いにあて、リボ払い。リボ払いは利息が高いことをわかっていたけれど、次月一括返済にすると生活費が足りなくなる。それゆえリボ払いしか選択の余地はない。
 当然ながら、キャッシングの限度額に到達した。行き止まり。もうそれ以上、袖を振り続けることはできない。
 姉に頭を下げ、お金を借りた。「一括で借金を返すなら貸す」と条件をつけられたけれど、「わかった」と言いながら一括返済はしなかった。なぜなら一括返済しても、稼ぐ額で生活は成り立たないとわかっていたから。

収入を増やすか、支出を減らすか

 キャッシングの返済にあてた残りで、JW-CAD のスクールに通った。資格を手に入れれば、就職できると思ったから。パートでも正社員でもいい、定期収入が欲しかった。
 結果、資格といえど初級ではどこも不採用。でもたまたま新聞社の求人とめぐりあい、パート社員として採用され、リボ払いを含めた生活費を稼げるようになった。
 この新聞社時代に生活費の基礎ができ、それをもう7年くらい続けている。おかげで支出を減らした暮らしが身についた。

 現在、私はシェアハウスに住んでいる。家賃(光熱費含む)、携帯代、税金、ガソリン代、自分の食費と日用品代、そしてネコ4匹の食費とトイレ代で、合計約7万円。今はアルバイト先の社会保険に入っていて、その額が月2万なので、月の支出はだいたい9万円。
 プラス本を買ったり、飲みに行ったりもしているが、ぎりぎりの生活ではない。毎月わずかだが貯金もできているっぽい。
 毎月の生活に必要な額と、その中でできることがわかっているから余った分は必然的に貯まっていく。

少しだけ蓄えを持つ

 今は編集プロダクションでのバイトと、週末カフェ店員のバイトが収入源。今月中旬から無報酬で本屋店番をするので、その時間をフリーランスの作業時間にあて、もうひと稼ぎしようと考えている。
 そのお金で秋冬に開催される「考えて動かす学校」を受講し、フリーランスとして独立を目論んでいる。ライターとして稼ぐのは、私にはちょっと無理だから。
 理想はフリーランスで10万、アルバイトで10万、月に計20万稼ぐこと。
 それだけあれば、シェアハウスを出られる。出たいわけではないけれど、いつかは出ていかなくてはならない。ここより安い住処はないから、家賃と光熱費で5万はかかるだろう。
 鳥取・大山町へも通うつもりだ。往復のガソリン代が10,000円、向こうでの2週間の生活費が2~3万とすると、2か月に一度3~4万ほど固定費が必要。
 これまで同様の出費が月に4万、今は給料から差っ引かれている社会保険料と税金が月に4万。合わせると、月の支出は15万ほどになる。

 だったら15万稼げばいい、という話だけれど、それだといずれ自転車操業になる。二年に一度の車検代、毎年の自動車税、10年弱で迎える車の買い替え(中古車)、ネコの葬儀(焼くだけ)、ネコが病気や怪我したときの治療費。そんな見えている、ちょっとだけ先で必要となるお金を貯めておく。
 お金が回っているつもりの自転車操業状態だと、いずれキャッシングのお世話になる。「ほんの少しだけ」「今回だけ」、そんな言い訳をして借り始め、最初は一括返済だったのがリボ払いになる。それからどうなるのかは、すでに経験済み。

 余裕を持つこと。ほんの少しだけ貯金があること。それだけで、ずっと生活は楽になる。精神的にも救われる。
 私は母のように先を見据えて貯金することはできないと思う。将来のために、老後のためにと蓄えることは無理。
 だけど、ちょっとだけ先のための備えをしておくことはしたい。
 もし備えておいて必要なければ、自分に投資すればいい。資格取るでも、間借りでスナックするでも、トレーニングするでも、「やってみたい」ことを実現する。現状維持は悪くないけど、手駒を増やしておくといいと思う。


 これが私のお金アップ&ダウン物語。
 アップとダウンを経験し、どん底を回避するため、支出を減らして生きることを学んだ。一般的には貧しい生活かもしれないけど、私は満足している。それほど我慢してるとも思っていない。
 支出を減らしたことで、自分の中の優先順位がはっきりし、お金をかけるべき部分とかけなくていい部分に気づけた。
 おいしいお酒を飲むこととサード・プレイスでの会話を重視しているから、そこにはお金を投下する。でもホテルではなく車中泊。本を読みたいから限界ぎりぎりまで本を買うが、食べるものは100g49円の鶏むね肉で十分。それも買えなければ、もらいものの野菜で食いつなぐ。洋服なんてあるものでいい、その分は鳥取行きのガソリン代にする。

 通帳残高は4,000万からマイナスを経て、今は17万。目標は常に残高が20万以上あること。それが私にとってちょうどいい生活だと考えている。
 さてさて、一体どうなることでしょう。くわばらくわばら。


ネコ4匹のQOL向上に使用しますので、よろしくお願いしまーす