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パズル仕立ての記憶

 私はいつだってピースを集めている。
 物陰にあるもの、隅っこにあるもの、仕舞われているもの、擬態しているもの、透明なもの。すぐに見つかるものもあれば、見つけにくいものもある。偶然、そこにあったことに気づいたり、信頼が生まれて手渡されたり、ピースがピースを呼んだり。
 集まったピースをひとつずつ収めていきながら、ああ、この人はだからあのときこう言ったのか、こうしたのかと腑に落ちていく。そうしてだんだんと私の中でその人ができあがる。
 ピースがすべて集まったとしても、それはルービックキューブのように一面が完成したにすぎない。人は多層構造の多面体だから、またピースを集め、次の面に収めていく。

 少し前に、1年半くらい前に知り合った人と2時間くらい語り合った。途中、昨年から存在は知ってはいたけれど話したことはなかった人も加わり話が弾む。弾む、は正確ではないかな。緩やかで静かに話が流れていく感じ。
 知っているようで知らなかった人たちの言葉に、意外なことに共感ばかり覚えた。話した内容や語られたことに言及するつもりはない。それらは共有した私だけの特典。
 共感もあれば、新しい考え方を発見もあったり、このタイミングしかなかったのだろうけれど、もっともっと前に話したかった。遅くなったけれど、それでも話せてよかったとも思う。
 ふたりのピースが集まったというより、漂っていた霧が晴れ、ピースが目に見えるようになった感じ。でも一方で、ふたりのピースは集めなくてもいい気もする。勝手にやって来るのを待てばいいような。ほんのりと、少しずつ、ふたりが自分の中に染み込んでくるのを待ちたい。

 そんなふうに待ちたいと思ったのは、このふたりが初めて。
 いつだって「知りたい」という思いに急き立てられ、がつがつ前のめりにピースを集めてきた。大好きな人、理解が及ばない人、得体が知れない人。知りたくて知りたくて、話を聞いて聞いて、一挙手一投足を見つめて、その人のことばかり考えて。でもそのときは何も起こらない。
 ある日、なんてことないとき、その人のことを考えてないときに、ふとピースが音を立ててはまる。
 目の前の出来事なんかが、それまでに知り得たものを弾いて角度を変え、違う側面が見えたり、まったく別なものの近くに弾き飛ばして関係性に気づいたり。
 その、はっとする瞬間が好きだ。像を結ぶような感覚。それはほんの少しの間で、またぼんやりとしてしまう。だからまたその瞬間を味わうために、ピースを集めて回る。

 私は物事を長いスパンで考えられない。いつだって人との関係に先は見えず、別れのときに思いを馳せる。
 だから知りたい思いに急き立てられている。さよならを言う前に、別れが訪れる前に、この人のことを知っておきたい。記憶があれば、会えなくなったとしてもその人とともにいられる。ひとりでもさびしくない。
 ピースを集めなくてもいいと感じたふたりとも、近いうちに別れのときが来る。もしかしたら二度と会えないかもしれない。会えないままにときは経ち、ふたりと話した時間は曖昧なものになっていくだろう。
 それでもなんだかいいような気がする。ふたりは私。私の中の一部が形を変えたもの。私の中から聞こえてくる声が姿となったもの。
 なぜだかわからないけれど、そんなふうに思うから、ふたりの記憶が消えていくのはつまり、ふたりが私の中に戻っていく、私に吸収されていくのだと感じる。消えてしまうことが怖くない。

 一方で、別れの予感しかない人もいる。こちらがさよならを言うより前に、ぴしゃりと締め出されて二度と会えなくなるような、気づいたら背を向けて姿を消していたというような。そういうときを想像する人だと、どうしても急き立てられるようにピースを集めたくなる。いつ、どんな形で思いがけない別れが訪れるかわからないから。
 大抵の場合、記憶が消えても怖くないなんてことはない。ふと思い出すときの幸福感に支えられて生きている。記憶がなくなれば、幸せも消えてしまう。
 だから必死で記憶が消えないようにピースを集める。その人を私の中で構築し、忘れたくない言葉を語らせる。けれどいつしか姿は曖昧になり、声は聞こえなくなり、書き残したノートもどこかへいき、すべて消えてなくなってしまう。

 今も何人か、ぼんやりとしか残っていない人たちがいる。ピースを集めて形作ったはずなのに、思い出せない人たちがいる。
 最終、そうなるとわかっているけれど、それでもなお私はピースを集め続ける。誰かを知りたいと、忘れたくないとピースを探す。
 記憶があれば生きていける。記憶がなければ生きていけない。




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