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外側にいるからこそ

 私の目標のひとつに「小さな声に気づく」ことがある。私の声にならない悲鳴を気づいてくれた友だちがいて、その人のおかげで今、私は生きてる。いや、もちろん死んでたかはわからないけれど、心が救われたのは間違いない。
 だから、私も誰かの小さな声に気づいて、「大丈夫」という思いを込めてその背中をなぜたい(さすりたい)。

 昨日、とある人からDMが届いた。
「お見送りのとき『写真撮ってきなよ』と言ってくれてありがとう」。
 日曜日、シェアハウスの住民が退去した。その人は我がシェアハウスにおける柱ともいうべき存在。だから数日前から何度も送別会的なことが行われ、旅立ちのときにはそれなりに人が集まった。
 その中に、私にDMを送ってきた人もいた。記念撮影会をするにぎわいから少し離れて立つ、その人ともうひとり。その後姿には「私も写真撮りたい」と書かれていた。
 出発予定時間を1時間近くすぎ、撮影会が終わろうとしている。なのに、ふたりは言い出せない。
「待って、まだ写真撮りたい人いるから!」
 そうしてふたりを送り出す。(でもその横でスマホを握りしめている本Dのことは放置してしまった!)
 
 また別な話。
 今夜、元住民と話していたら「実は、去る人とふたりきりで話したかったけれど、いつも誰かと話していたから話せなくて、それがとても悲しい」と言った。「でも、そうならそうで『またそのうち話せばいいか』ってなっちゃう。なんかあっさりしすぎですよね」とも。
 人前で泣ける人もいれば、泣かない人もいる。別れを惜しむ仕草をする人もいれば、何事もないかのように送り出す人もいる。そして、後者だからといって感情がないわけではない。悲しみの量を相対評価して少なかったとしても、その人の中では大きなものなのかもしれない。

 声が小さい人、感情を表にあまり出さない人。影に隠れてしまいがちな人たちが損しないように、思いが叶うように、気持ちをくみ取れるようにしたい。
 いつだって集団を外から眺めている私だからこそできることだと思うから。

  

  

  

ネコ4匹のQOL向上に使用しますので、よろしくお願いしまーす