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センカヌアン 二子丘のお城の四人の姫君

※戦で王と王妃が留守にしている国を守るのは4人のお姫様。のんきな留守番ぐらしのはずが、憧れの美形王子様と一緒に危険な事件が姫たちを襲います。

※このおはなしは、架空世界カナンを舞台にしたおはなしです。架空世界カナンについてはこちらのガイドページを見て下さいね。

※本文冒頭は無料で読めます。
※課金していただいた方には、毎週少しずつ、分載のかたちで本編を最後までお楽しみいただけます。
※げんざい、早期課金割引中です。

※2016年3月1日
 本編更新
 【2-4 悪の花、それも美しい花】
 【2-5 びっくりするおしらせ】
──を掲載。

■■■■

【0 たとえ死が行く手を塞いでも】
「追え! 逃がすな。必ず殺せ!」
 闇の中、たいまつの炎とがちらちらとまたたいて、恐ろしい追っ手の声が聞こえてきます。まだふたりには気づいていないようですが、木立の影に身を伏せているのがいつばれてしまわないとも限りません。
 と、たいまつの光の方から叫び声と、そして悲鳴が聞こえました。
「ああっ、また誰かやられた」
 ふたりのうちのひとり、若い男性の方が焦った声をあげましたが、それをもうひとりがたしなめます。
「しっ、お静かに。奴らに気取られてはなりません」
 その声は女のもので、そしてなにかをこらえているように苦しそうでした。女の声はちょっと息を整えてから続けます。
「あなただけでもお逃げください。ここは私が奴らの気を引いて……」
「馬鹿なことを言うな」
 男の声。女の身体に身を寄せ、早口で熱っぽく囁きます。
「お前が矢傷を受けていることに気づかない私ではない。お前ひとり残して私がのうのうと生き延びられるものか。大河の果てまでもいっしょに、という言葉を戯れに言ったつもりはないのだぞ」
「ですが……」
 女の声は傷によるものだけではない動揺に震えていました。
「私は所詮下賤の者、あなたとは……」
「言うな!」
 男は女の身体を抱き寄せたようでした。
「死ぬならば私もいっしょ。共に生きようとなぜ言ってくれぬ」
「ああ……」
 悲しみとそして幸せに思わず漏れた喘ぎの重さは、その当人にしか分からないものだったでしょう。
「ふたりでこの場を切り抜けよう」
 男が言います。返す女にはもう迷いはありませんでした。
「はい。どこまでもお供いたします、殿下!」


【1 母からの手紙】
 元気にしていますか。妾はすこぶる元気です。

 今日も賊どもの一軍を蹴散らしてやりました。妾は賊将の首をふたつも獲って、大王様にとっても褒められたのですよ。
 クンカァンの土地は起伏が大きいことは知っているでしょう、妾たちが丘の向こうで待ちかまえて、賊軍どもがうかつにも近寄ってきたところを一気に丘の上まで駆け上がり、下でびっくり目を丸くしているところに打ちかかっていく様子をあなたがたにも見せたかったわ。もちろん妾が先陣を切って敵の槍を切り払って血路を開いたのよ。賊どもは弓を構える暇もありませんでした。
 大王様はことのほか喜ばれて、「この丘をカヤミルの丘と名付けよう」なんておっしゃってくださいました。草がまばらに生えているだけの貧相な丘だからあんまりうれしくはありませんでしたけど。
 その夜の勝利を祝う宴では、何人もの王に言い寄られましたが、もちろん妾にはスオランがいますから、全部お断りしました。ちょっともったいなかったけれど、妾が愛しているのはスオランだけですからね。安心してください。
 カライ周辺の賊どもを一掃したら、大王様はさらに東へ軍を進めるとおっしゃっています。
 まだまだ戦いは続きそうで、私はとっても楽しみです。
 今日はスオランが疲れているようなので、手紙はこのへんにします。行ってなぐさめてあげなくては。
 私たちが帰るまでニイラのことは任せましたよ。
 もしもどうしても困ったことが起きたのなら、そのときは出かけるときに教えた呪句を唱えなさい。

  娘たちへ。愛を込めて。 あなたたちの母 カヤミル


【2-1 四人のお姫様】
 ンクララは高価な絹漉きの紙にしたためられた母親からの手紙を丁寧にたたみ直すと、封筒にしまって文箱に収めました。
「少しも帰ってくる気はないみたいね、お母様は」
 小さくため息。
 その様子を見て、ミグはあきれた、という仕草をしてみせます。
「お父様はしょうがないけど、お母様は小さいとはいえ王国の王妃様なのよ。もうちょっと落ち着いて欲しいわよね。軽々しくそこいらの傭兵のように出歩かないで欲しいわ。ま、あたしは気が楽だけど」
「ミグ姉様、また夜中に……」
 寝台の上からイリカが指摘しかけましたが、ミグはそれを遮ります。
「あんたうるさい。ほら、ユンが本読みたそうにしてるわよ」
「きゃあっ、ちょっと触らせないでっ! あの子すぐ私の本を破くんだからっ」
「ごー本ー。ごー本ー」
 ユンは壁一面の本棚から目当ての一冊を引っ張り出そうと背伸びしています。ミグはそちらまで歩いていって、背後から末の妹の身体を抱き上げました。
「……はいはい。こらユン、イリカの本に触るのはあたしがいいって言ったときだけにしなさいね」
「あーい」
 ユンは逆らうでもなく素直に返事をしますが、イリカは気に入らなかったようです。
「ちょっと! 勝手なこと言わないで」
「いいじゃない。読ませてあげなさいよ、あんたもこんな難しそうな本ばっかよんでるから知恵熱出すのよ。たまには『ゴレガミラの盗賊』みたいな素敵なおはなしでも読んだらいいのに」
「知恵熱じゃないっ! それに、あんな嘘っぽいおはなし、私興味ないわ」
 興味ない、と言っている割には本の内容についてちょっとは知っている風のイリカです。
「もう。少しはふたりともお父様とお母様のことを心配なさいな。私たち、娘なんですからね」
 ンクララがまたため息をつきました。けれど妹たちは遠い空の下の両親のことなど全然心配していない様子です。
「あのふたりなら心配ないでしょ?」
「そうね、お父様はともかく、お母様がいっしょなら平気よ」
「もう……あなたたちったら」
 その部屋には四人の少女がいました。
 手紙を読んでいた一番年上の少女がンクララで、とても長い髪とそれからとても豊かな胸が目を引く綺麗な顔立ちの少女です。顔立ちだけならたおやかな美少女といった風情なのですが、いかんせん、たいていの人の視線は(男性でも女性でも)上等な織りの衣装の胸元を盛り上げているたわわな膨らみの方に行ってしまうので、城下のひとたちの間での彼女の評価は「一番年上の胸の大きなお姫様――確か美人だったと思う」ということになってしまうのでした。
 一番小さな少女を抱き上げているのがミグです。四人の中では次女ということで二番目に年かさです。彼女もまた豊かな胸の持ち主でしたが、さすがに姉のンクララにはかないません。それよりも彼女の場合、なんだか餌を前にした猫のような、むずむず好奇心を抑えきれないような表情が印象に残ります。お城のお姫様にしては短くした髪も四人並ぶと目立ちます。そんなわけで城下では「ああ、あの元気なお姫様だね!」と言われています。
 そしてそのミグに抱かれているのがぐっと小さな四女、ユンです。
 ユンはもう六歳になるのですが、その割にはまだちょっと幼い感じのする外見で、仕草はやんちゃざかりの子犬のようです。今もじたばたと暴れてミグの腕をすり抜け、彼女の[スカート:パレ]の裾に身体を巻きつけるようにしてじゃれついています。大振りの三つ編みに結われた髪が、尻尾のように彼女を追いかけていくのがまた犬っぽさを増しているようです。なんとも落ち着かない末妹ですが、姉たちの方はこんな彼女の様子には慣れたもののようで、誰も気にしていません。
 そしてもうひとりの少女は三女のイリカ。城下のひとたちに「儚げなお姫様」と一番よく言われるのは彼女です。身体があまり強くなく、伏せりがちなことと、公の場でもあまりしゃべらずにおとなしくじっとしている様子からそんな風に言われるのでしょう。
 ひとり寝台の上で身体を起こしているイリカは、母親に対するミグの言葉に小さくうなずいて言います。
「少なくともカヤクウルの大王様からの要請には、王と王妃がうち揃って兵を率いよ、とはなかったと思うわ。女の[さむらい:カイラーナ]は別に珍しくないけれど、王が軍を進めるときに自分から槍をとっていっしょに出かけていく王妃はやっぱり珍しいでしょうね。変わっているのよ、うちのお母様は」
 「儚げなお姫様」イリカは、こうして姉妹だけでいるときは、なかなかに舌鋒鋭いところもあるのです。
「どちらかでも残って欲しかったわ。お母様、いつもいきなりなんですもの」
「妾もスオランといっしょに戦に行くわ! ……ってさっさと出かけていっちゃうんだから。これが王妃のすること?」
 はあ、とまたため息をつくンクララに、ミグが母親の声真似をしてみせました。
「早く帰ってきてくださらないかしら。いきなり領主の仕事を代わって、なんて言われても私には無理だわ……」
 はああ、とンクララはがっくり肩を落とします。そんな姉に三女イリカは申し訳なさそうな顔です。
「ごめんなさい姉様。体調がもうちょっとよければ今日の裁判もいっしょに出られたのに」
「そーよ。ンクララ姉様はあたしたちの中でいちばんのんびりさんなんですからね、あんたがしっかりしなきゃいけないのよ」
 寝台の上でしょげる妹に、ミグがからかうような調子で言いました。
「わかっているわよ……そんなことミグ姉様に言われなくたって……」
 うつむくイリカにミグはなおもなにか言い募ろうとしましたが、ンクララは姉らしく割っては入りました。
「こら、誰だって調子のよくないときはあるものよ。あなただって熱を出しているときにあれやこれや言われたくないはずよ。それとも、ミグ。あなた私の代わりに今日の裁判官をやってくれるかしら?」
「勘弁して! それは無理」
 ミグは盾を構えるように両手の平を胸の前に拡げて首を振りました。
「やめた方がいいわ、ンクララ姉様」
 イリカも反対します。
「ミグ姉様には裁判官なんてとっても無理だもの。このひとってば、難しいこと考えるのがすごく苦手なんだから」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。あたしだって、少しは考えることだってあるわ」
「どうすれば殿方の気を引けるか、とか? そういうのは領主の娘が考えることじゃないのよ。いい加減毎晩城下へ遊びに行くの、やめたらどうなの?」
「あ、あんたなんでそれを――っ」
 妹に毎夜、お城を抜け出していたのを指摘されてミグが慌てます。まだほんの少女のくせに、ミグは城下のひとたちと泡酒を酌み交わすのが大好きなのです。その楽しみの中には確かに、ちょっと年上の領地の若い男たちと言葉を交わしたり歌ったり踊ったりすることが入っていたのは間違いないことなのでした。
「ミグ」
 イリカに食ってかかりかけたミグは、自分の名を呼ぶ声に、周囲から暖かみの神様が不意にいなくなったような気がしました。ぎこちなく振り返ると、眉をひそめた姉姫が自分を見つめています。
「ミグ。あなた、この間夜遊びはもうしないって……」
「あっ、あのンクララ姉様……そ、それは、それはね? ほら、夜っていったって、まだ日が沈んだばっかりの時刻で……」
「行ったのね」
「ああ……っ」
 おっとりしたンクララですが、いい加減な言い訳は受けつけてくれない頑固なところもあるのです。妹としてつきあいの長いミグはそんなことはよく知っているはずなのですが、負けず嫌いの性格が災いして、素直に謝ることができずについしなくていい言い訳をしてしまうのでした。
「あ、あのねお姉様……」
 これから始まるであろう長い長い長いお説教をどうにか回避できないかと、ミグは最後の抵抗を試みますが、もちろん頑固な姉にそんな抵抗は無意味です。
「いいですか、ミグ。そんな風に領主の娘らしくない行いを繰り返しているのをお父様がお気づきになられたらどんなにお悲しみになるか――。今度おいでになるヴラスの王子様にも恥ずかしくってお引き合わせできないわ……」
「ちょ、ちょっとンクララ姉様、それだけは……っ、ヴラスの王子様、すごく素敵な方だって評判で……、姉様だって少しは聞いてるでしょ? すっごくかっこいい殿方……」
「そんな方にふしだらな妹を紹介するわけにはいきません」
「ふしだらって……ンクララ姉様、実の妹をつかまえてひどいっ」
「しょうがないでしょ、この間酔って暴れて、酒場の男の人たちにかつがれて帰ってきたのを忘れたとは言わせないわよ、ミグ姉様」
「忘れた」
 妹の追求にミグはそっぽを向きます。
「とにかく。もう絶対夜遊びはしないって約束してくれない限り、ヴラスの王子様にお引き合わせしませんからね。お父様なら絶対そうおっしゃるわ」
「……お母様なら逆のことをいうと思うんだけど……」
「なんですって? ミグ、どうしてあなたってひとはそうなの。変なところばっかりお母様に似て……」
「おなーかーへったーー」
 そこにユンの素っ頓狂な声が割って入ります。ミグはこの助け船に必死に取りすがりました。
「ほら、ほらっ。ユンがお腹減ったって。お昼にしましょう? ね? 姉様」
 しかしンクララはきっぱりと首を左右に振ります。
「そんなことを言って逃げようとしてもだめ。ユンの世話はシモリに頼むわ。シモリ、そこにいて?」
 ンクララが名を呼ぶと「ただいま」と言って侍女が入ってきました。
「姫様、裁判のお時間でございます。法廷までお運びいただけますか」
「もうそんな時間? 領主の仕事は忙しいわね」
 侍女の言葉にうなずいてンクララは腰を上げました。裁判は領主の大事な仕事ですから、お説教より後に回すわけにはいきません。
 危機をどうにか避けることのできたミグはほっと胸を撫で下ろして、きっとイリカに視線を送りました。イリカは涼しい顔でそっぽを向いています。ユンはまだ「おーしょーくーじー」とミグのパレ(スカート)を引っ張っています。
「はいはい、いま食堂に連れてってあげるわよ。あんたはここまで持ってこさせる?」
 末妹の頭をかいぐりながらミグがイリカにも声をかけます。なんのかの言って、寝込んでいる妹に対して気遣いを見せる優しいところのある少女なのです。イリカも姉の気持ちはわかっていますから、「お願いするわ」と素直にうなずきました。
 妹たちのむつまじい様子を確認して、ンクララは侍女と共に部屋を出ました。長く美しい髪が、彼女を飾る礼装のようにあとを追います。たおやかな姫君の立ち居振る舞いに、侍女のシモリはいつもながら感心せずにはおられません。「うちのンクララ姫様は、世界いちお美しいお姫様だわ」裁判官の役職を示す肩がけを持って姫の後を追いつつ、シモリの顔は誇らしげです。
「まーったく」
 手を振って姉を見送った後、ミグがイリカを振り返ります。
「どうして告げ口なんかするのよ」
「姉様が約束を守らないのがいけないんでしょ。私は本当のことを言っただけだもの」
 ちょっと仲のいいところをみせたと思ったらすぐこれです。イリカは正義は我にあり、とばかりに寝台の上で成長過程の胸を張ってみせました。けれど姉も負けてはいません。妹よりもぐっと豊かな胸を突き出して言い返します。
「あんたはなんにも分かってないわ。年頃の女の子にとって、なにが一番大事かをね!」
 胸の大きさの差に気圧されたというわけではないでしょうが、得意げに言い返す姉に、イリカはついつり込まれてしまいます。
「なに……って、なにが大事だっていうの?」
「そりゃあ決まってるわ。恋よ!」
「…………」
 イリカの口が半端な形に開いたままになりました。切り返す言葉をとっさに思いつかなかったのです。妹が言い返してこないのをいいことに、ミグはまるで見せ場を演じる紙芝居師のように調子よく話し続けます。
「女の子にとって約束よりもなによりも大事なのが恋よ。素敵な殿方との心ときめく恋! 『ゴレガミラの盗賊』みたいな、素敵な恋よ!」
「『ゴレガミラの』……って、あの恋愛物語、ほんとに好きなのね……」
「そうよ!」
「ばっかじゃないの。あんなのただのお話じゃないの、そんなの本気にしてるなんて、ミグ姉様おかしいわ」
「おかしいのはあんたのほうだわ。いっつも頭の痛くなる難しい本ばっかり読んで。少しは女の子らしくした方がいいんじゃない? おおルフィ、君の名を呼ぶとどうしてこんなに胸が痛むのか……」
 ミグは大仰に手振りまでして、『ゴレガミラの盗賊』の一節を口にしました。どうやら、台詞を暗唱できるくらい繰り返し読んでいるようです。イリカは冷たい声で言い返します。
「ミグ姉様こそ、少しは領主の娘らしくした方がいいと思うわ。夜遊びなんて、平民の娘のすることよ」
 姉妹はしばらくにらみ合っていましたが、ミグがさきにふいっと顔を背けました。
「あんたには分からないのよ。恋する娘の気持ちが」
「わからなくていいです。そんなの」

 と、ちょうどそこに侍女たちが姉妹のお昼を持ってやってきたので、ふたりの言い合いはそこでお開きになりました。

【2-2 留守番の事情】
 ンクララ、ミグ、イリカ、そしてユン。この四人の少女はニイラの国の王様の娘……お姫様なのでした。
 ニイラという国は、広い世界の中では南の方にあるヴラスウルという地方にある小さな王国です。この世界ではいくつも小さな王国が点在していて、それぞれがより大きな大王国に属しています。世界の中心である聖都ウラナングから西側を治めるハンムー大王国、東側を治めるカヤクウル大王国、おおざっぱに言って世界はこのふたつの大王国によって治められています。といっても、広い広い世界をたったふたつの王国、つまりふたりの王様で治めることはとても無理ですから、それぞれの大王国はたくさんの小王国を従えて、土地土地の支配はそれぞれの王国に任せていたのです。
 そのひとつがニイラの国で、カヤクウル大王国に属しています。
 詳しいことはまたおいおいに説明する機会があるでしょう。
 とりあえず大事なことは、いまこの小さな王国は、王様もお妃様も大王様が命じた戦に出かけていて、ンクララたち四姉妹が領地を守っていかなければいけないのだ、ということです。
 ンクララがしようとしている裁判も、領主の勤めというわけなのです。
 ニイラの国の城は領地のひとたちから「ふたつの丘の城」と言われます。それは文字通りニイラの城がふたつ並んだ丘の上に作られているからで、西側の丘には高い天守楼のそびえる本丸が、東側の丘には領主とその家族が住む館があります(ほかにも多くの施設がそれぞれの丘の上にはあるのですが、長くなるのでその説明はまたにします)。深い堀とニイラ湖で周囲を取り巻かれたふたつの丘は大きな渡橋ひとつでつながっています。
「今日の裁判は鯰通りのヨインさんの訴えだったかしら」
「はい。そううかがっています」
 住居となっている館を出たンクララは、館の出口の門を出て、大渡橋を渡ります。ふたつの丘の一番高いところで架けられている橋の上は、堀に張られた水面からは7カイあまりもあって、まるで空を飛んでいるかのような気分にさせてくれるのですが、橋自体は十人ものひとが横に並んで歩けるほど大きなものでしたから、真ん中辺りを歩いている限り、高いところが怖いひとでもあまり恐ろしい思いをしないで済むようになっています。東の丘の館から西の丘の本丸まではちょっとした距離があるので、領主の姫のような貴いひとであれば馬や輿をしつらえることもできました。というよりはそうする方がきっと他国では当たり前なのでしょうが、ンクララはこの橋を歩いて渡るのがとても好きだったので、今日も侍女のシモリひとりを連れているだけです。
 高い橋の中程で足を止めて北の方を見れば、城下の様子が一望できます。
 風になびいて頬をかすめる髪を指で払いながら、ンクララは何ともいえない表情で眼下の景色を見下ろしました。
 ふたつの丘を囲む堀のすぐ外側には米の穫れる耕地が、その向こうには領民たちが住む町並みが拡がっています。さらにその向こうには緑に覆われたニイラ丘陵が続くのです。
「姫様」
 城下の様子に見入っていたンクララにシモリが声をかけます。
「裁判だったわね。大丈夫よ、忘れてはいませんから」
「はい。それに晴れているように見えてもゴルの砂は飛んでいますから、覆いがけもなさらずに長く外にいらっしゃると砂まみれになってしまいますわ」
 言われてンクララは空を仰ぎました。
 今日は青空に薄く白い雲がいくつか浮いているばかりでしたが、時によってはそれが黄色く染まることもあるのです。ニイラよりも何百ダーリも南にあるゴルの砂漠の砂が風に乗り、王国の南の堺であるトトナク山をも越えてこんなところまで飛んでくるために、そんなことが起こるのでした。
 今日のように晴れた日でも、目に見えないほど小さな砂は空気の中に舞っていて、気がつくとシモリの言うとおりに身体中埃っぽくなってしまうのです。
「ヴラスの王子様もこの景色を気に入ってくださるかしらって考えていたの」
「それは気に入ってくださいましょう。大きさではヴラスウルに負けるでしょうが、ニイラの国はとってもいいところですもの」
 自信満々のシモリの返事にンクララはちょっと苦笑して再び橋を渡り始めました。
「いきましょう。遅れてしまうわ」

【2-3 裁判もだいじなおしごとです】
 法廷など、領地を治めるための政に関わる施設はたいてい西の丘にあります。
 侍女が着せかける肩がけを羽織りながら、ンクララは法廷へと入りました。白い房飾りのついたこの黒い肩がけを羽織れば、美しい姫も裁判官に早変わりするのです。白と黒の組み合わせは真実を見抜く神、シキモリの左右それぞれの目の色からとられています。
「姫様のおなりであるぞ、頭を下げよ」
 法廷に控えていた家臣の老人の声に、広間に立って待っていたふたりの領民は膝を折って、深々と頭を下げました。
 法廷――といっても普段は領民たちが領主に謁見するために使われている広間です。先代の領主の時代に作られたこの広間は、領主の前で緊張している領民の心を少しでも楽にしてやろうと、民話に材をとった楽しげな絵柄のタペストリが周囲の壁に掛けられていますから、どうにも堅苦しさが感じられません。なんだか、裁判をするというよりは親しくお茶を飲みつつ話をしましょう――そんな雰囲気がある部屋なのです。
 けれど、広間の真ん中当たりにいるふたりのひとは、心和むタペストリの絵柄もまったく目に入っていないようです。部屋の一段高い台に腰を下ろしたンクララから見て、右側に立っている女性――年の頃は四〇歳くらい、着ているものは裕福そうです――は、眉をきりきりとつり上げて、怒ったような顔でンクララをじっと見ています。
(なんだか、ちりちりした匂いがするわ)
 もう一方、ンクララから見て左側に立っているひとりは、年の頃は四〇をだいぶまわったくらい。壮年の男性です。こざっぱりした格好をしていますが、どうにも風采のあがらない顔立ちで、ンクララを見る視線もおどおどと伏せられています。何度も彼女の方を見ようとするのですが、すぐにまた顔を下に向けてしまうのです。その様子だけ見ていると、なにか心にやましいところでもあるかと思われます。けれどンクララはこの男性にはあまり反発を感じないのでした。
(固い、鉄のような匂い……すっかり緊張してしまっているのね。でも、かすかに甘酸っぱい匂いもするわ……)
 男性から漂ってくるその甘酸っぱい匂いは、決して嫌な感じのするものではなかったのです。ふたりからの匂いを嗅ぎ取りながら、ンクララは用意された椅子に腰掛けました。目の前には訴状の置かれた机が用意されています。すでに目を通したものではありますが、改めて手にとって読み上げます。
「訴人は鯰通りのヨインさん、間違いありませんね」
「はい、間違いございません」
 右側の女性――ヨインはンクララからまっすぐ目を逸らさずにはっきりした声で答えます。やっぱりかなり気の強い性格のようです。自分たちの支配者であり、この場では裁判官でもあるンクララに対してなにか対抗心でも抱いているかのようです。
(あら、匂いが強くなった……。なにか気に入らないことでもあるのかしら?)
 匂いの変化にンクララは内心首を傾げましたが、一応裁判官ですから思ったことを顔に出すのはあまりよくないと思って、だまってうなずき返します。視線を移しました。
「もちの木通りのノロロスさん」
「はい……」
 答えるノロロスの声は消え入りそうです。
「あなたはお隣のヨインさんによって訴えられています」
「はあ……」
 ンクララは続けます。
「仕立て職人のあなたは、ヨインさんから仕立ての注文を受けた際、彼女にひどい侮辱を与えた――とありますが、これは本当ですか?」
「そ、そんな……っ」
 ノロロスはこわばった顔をあげて息を詰まらせました。そしてなにごとか続けて言おうとしたのですが、その言葉はきんきん響くヨインの大声に遮られてしまいました。
「この仕立屋が、わたくしをひどく侮辱したのです! わたくしの長い人生でこんなにもひどい侮辱は初めてですわ! 私が……私が……」
 ヨインは悔しくてならない、というようにそこでいったん言葉を途切れさせて、身体をぶるぶるっと震わせました。
 その姿に、ンクララはふと(黒猪みたい)と思って噴き出しそうになりました。
 黒猪というのは東部の密林に棲む大きな猪で、何かあるごとにその巨体をぶるぶるっと震わすのです。ヨインの様子があんまりその猪に似て見えたのが滑稽だったのですが、ンクララは唇のすぐ裏側まで出てきていた笑いをすんでのところで押し殺しました。
(私は裁判官なんですもの。いつも冷静にしていなくちゃ。笑っちゃだめ。笑っちゃだめ……)
 幸いなことに、ヨインはそれ以上黒猪の真似をするのはやめて(もちろん本人に真似をしていた自覚はありません)、再び大声をあげはじめました。おかげでンクララは不謹慎にも法廷でくすくす笑いをしなくて済んだのでした。ヨインの大声は、これはこれでなかなかに聞くものを痛めつける効果がありました。
「この仕立屋は、あろうことかわたくしを黒猪呼ばわりしたのです! 仕立屋風情がこのわたくしにですよっ!」
「――――っ!」
 ンクララが、慌ててうつむいただけで噴き出してしまわなかったのは、ほとんど奇跡の領域です。
 そんな彼女の様子をどうとったのか、ヨインはさっきからつり上がりっぱなしの眉を、さらにきりきりとつり上げました。よくもまあ眉毛が顔から取れてしまわないものです。
「この不埒な男にどうか重い罰を与えてやってくださいまし! 姫様!」
(いまは裁判官なんですけど……)とンクララは内心思いましたが、やはり口には出しませんでした。ノロロスがなにか言おうとしていたからです。
「なにか? ノロロスさん」
 ンクララに促されて、ノロロスが口を開きます。
「私はヨインさんを黒猪呼ばわりしたわけではないんです」
 彼は言いました。
「もしもヨインさんの言うとおりに仕立てたら、黒猪の身体についた泥みたいにみっともないことになるから……」
「また言った! また言った!」
「ひい、助けて……っ」
 ヨインが甲高い声で叫んでノロロスにつかみかかります。背丈ならノロロスの方が頭ひとつ高いはずなのですが、迫力の差でしょうか、ノロロスは情けない声をあげながらヨインにいいように揺すぶられています。
「これっ、姫の御前であるぞ」
 家臣が言いましたが、やはりヨインのあまりの迫力に直接割って入ろうとはしません。年寄りの身で彼女の勢いで突き飛ばされたりしたら、そのまま[黄泉路:ラノートのもと]へ旅だつことになりかねませんから、無理もないことです。
 はあ。とンクララは思わずため息をついてしまいました。今日はため息ばかり漏れる日です。
「おやめなさい。ヨインさん。ここは法廷ですよ」
「だって、だって……この男が……!」
 ノロロスの襟首を捕まえたままのヨインに、ンクララはさらに言葉を続けます。
「彼が悪いことをしたなら、罰するのは私の役目で、あなたの役目ではありません。聞き分けていただけますか?」
 ヨインは不満そうに一声唸ると、ノロロスの襟首をようやく解放しました。そのうなり声がまた猪じみていたので、ンクララは笑い出すのをこらえるのにそっぽを向かなければなりませんでした。
「おほん。……ノロロスさんはヨインさんが注文した晴れ着は仕立てなかったのですか?」
「いえ……」
 ンクララの質問に、ノロロスは気が進まなさそうに答えます。
「どうしても作ってくれとおっしゃるので……一応……」
「作ったんですね?」
 ノロロスはうなずきます。
「じゃあ、いいじゃありませんか。ヨインさんは注文通りの品を受け取れたんでしょう?」
「けど、あんなものを着たら……」
 ノロロスはヨインを横目で見てふるふると首を振りました。どうやらよっぽどすごい服に仕上がったみたいです。
 ノロロスは不満そうでしたが、不満なのは彼だけではありませんでした。
「この男の言葉に深く傷ついた私の心は、晴れ着一枚では癒えませんわ!」
「…………困ったわねえ」
 とにかくヨインは、ノロロスがなにか罰を受けないと満足しそうにありません。といって、いま話を聞いた限り、ノロロスはヨインを誹謗したというわけではないようなのです……。
「この男に罰を!」
 ヨインが拳を振り上げます。
「重い罰を与えてください!」
 襟元をつかまれてぶんぶん振り回されたノロロスは、もうなにか言う気力も残っていないのか、力なくうつむいているばかりです。
「とにかく」
 ンクララは手を軽く打ち合わせました。
「この件はいったん、法廷で預からせていただきます。結論が出るまで、ヨインさんはこれ以上ノロロスさんになにもしないこと。それからノロロスさん」
「……はい」
「ヨインさんに作ったっていう晴れ着、それを持ってきていただけますか?」
「あれを、ですか?」
「ええ。どんなものだったのか、見てみないことには……」
「はあ……、ようございますが、でも……」
 ノロロスはまだ渋っているようでしたが、ンクララはとにかく持ってくるように言い渡すと法廷を解散することにしました。
「今日はこれで閉廷します。次回がいつになるかは、またお伝えしますから、それまでいま言ったことをちゃんと守ってくださいね、ヨインさん」
 まったくもって納得した風には見えないふたりが部屋を出て行くのを見送って、ンクララは今日何度目かわからないため息をつきました。
 ふたりが出て行って、部屋の中の空気の匂いもだいぶ変わりました。
「ちょっと息をするのが楽になったみたい。……もう。裁判なんて私には無理なんだわ」
「どうなさいます?」
 部屋の外で控えていたシモリがンクララのところにやってきて聞きました。「裁判なんて無理」というンクララのつぶやきには特に意見を差し挟む気はないようです。
「どうもこうも」
 ンクララの考えは最初から決まっています。
「イリカに相談するわ。こういうことはあの子に相談するのが一番よ」

 長姉としてはやや無責任なンクララ姫です。

【2-4 悪の華、それも美しい華】
「それで、どうなの? 首尾よくいったの?」
 女は鏡に映った自分を入念に点検しながら、背後に向かって聞きました。女の周囲には数人の肌も露わなお仕着せの召使いの女たちがいて、彼女の顔に化粧の真っ最中です。練り[白粉:おしろい]を塗りつけて、肌の色を白く整えたうえに、何色かの粉[白粉:おしろい]を刷毛ではたいて仕上げていきます。
 長い髪を複雑な形に高く結い上げた女は、その本来の年齢に比べれば、もとからだいぶ若く見えましたが、それでもンクララたちのように本当に若く美しい少女たちに比べるとやや見劣りせざるを得ません。けれど、召使いたちの施した化粧のおかげで、彼女はさらに何歳も若返って、見ようによってはンクララの姉――くらいの歳とも見えます。
 頬もうっすらと赤みが差して、健康そうに見えました。ただ目元に塗った緑の色と、赤すぎる口紅の取り合わせはちょっと派手すぎるかもしれません。……彼女の本性には似合っているかもしれませんが。
 その部屋はちょっと悪趣味な部屋でした。
 もともと大きな柱と梁ががっしりと組み合わされた、とくに飾り気のない作りだったところに、上から色を塗りたくって、派手派手しいタペストリを幾重にもかけてあります。タペストリも派手さだけを基準に選ばれたかのような図案、色合いのものばかりで、それが何枚も重なり合うと、もう派手なばかりでなにがなんだかわからない……そんな様子なのです。
 あきらかに以前の室内が気に入らなかった人物が最近作り替えた、そんな感じの部屋でした。
「はい。すでに始末してあります」
 背後に控えた男が答えました。女は答えに満足したようでうなずいて、召使いたちを遠ざけます。裸よりは多少まし――といった姿の召使いたちは、タペストリの影に滑り込むように消えていきます。
「顔だけかとおもっていたけど、なかなかできるようね。養子にしたかいがあったというものだわ」
「は、義母上様」
「その呼び方はおよしと言っているでしょ」
「申し訳ありません、女王様」
「そうよ」
 女は鏡に背を向け、男の方を振り返りました。
 女の姿は召使いたちよりもさらに肌の露出が激しい服を身につけていました。服……というより、服のように身につけた宝飾品と言った方が正しいかもしれません。布でできた部分はごくわずかで、ほとんどは金や銀、そして様々な宝石からできた細工が彼女の身につけている服だったのです。といっても、その「服」が覆っているのはたっぷりした乳房の三分の一くらい、それから腰回りのごく一部分、あとはももの半ばから足先にいたる何カ所かに、飾り輪としてつけられているくらいです。
 女は自分の姿を誇示するように、ぐっと胸を反らしました。乳房の先端についている宝石がきらりと光ります。
「私はこの国の女王。そして、いずれはニイラの女王にもなるのよ。いいこと、自分に与えられた仕事をしっかりやりなさい。私の養子に無能な男はいらないのよ。その代わり、やった分の報いはきっと与えてあげるわ」
 女は相手の視線が自分にねっとり絡みついているのを充分に意識しながら、男に近寄っていきます。
 そして彼のすぐ前に立つと、その手を取って、そして、吟味するように両手で撫で回しながら、自分の身体に触れさせました。
「うまいことニイラの小娘どもをたらし込んだ暁には、私の夫にもしてあげる……」
 男は自分の手のひらに感じる女の肌の感触にごくり、と生唾を飲み込みました。自分よりもずっと年上であると頭ではわかっているのに、女の放つ魅力は圧倒的でした。
「じょ……女王陛下」
 思わず抱きつこうとする男を女は冷たく押しのけます。
「仕事より先に褒美をあげるわけにはいかないわ。私が欲しければ、仕事を果たしなさい。いいわね、コヒラ王子殿下」
 男は女の身体に視線を貼りつけたまま、ぎこちなくうなずいたのでした。

【2-5 びっくりするしらせ】
「いい香りのお茶ね。ほっとするわ」
 ンクララは茶碗から立ち上る香気に目を細めます。
「殿下はいつ頃いらっしゃるのかしら」
「手紙の日付のすぐあとに国をお出になられたのなら、よほどのんびりいらしてもあと五日ってところかしら。途中で〈血の遠征〉に向かわれた初代巫女姫様のような苦難に遭われたのでない限り」
「おお怖い。悪い言葉には神が寄ってきますよ、イリカ」
 妹をたしなめつつ、ンクララは指折り数えました。
「じゃあそろそろコヒラ殿下をお迎えする準備をしなくちゃあね」
 ヴラスウルの第三王子コヒラのニイラ訪問が報されたのは二週間ほど前のことでした。
 ヴラスウルといえば、東カナンを支配するカヤクウル大王国のうち、東南部一帯の王たちの束ね役を務める上主の国です。ニイラも立派な王国ではありますが、カナンのたくさんの王国の中ではそんなに地位の高い方ではありません。逆にヴラスウルは上から数えて両手の指の中に入ってしまうほど位の高い国……王家なのでした。
 緑の縞柄の旗をたなびかせながらやってきた通信使がヴラス王家の印が透かしになった封筒を届けてきたのです。緑の縞は、カナンで共通している通信使の印です。
 封筒の中の手紙には、第三王子が訪問するのでしかるべく迎えてやって欲しい、とだけ書かれていました。訪問の目的は特に書かれていません。
 姉妹のうちンクララとミグは、位の高い王子の訪問にわっと色めき立ちましたが、ほかのふたりは反応薄でした。末っ子のユンはまだ王子様に甘やかな憧れを抱くような歳ではなかったので当然と言えば当然だったのですが、イリカは姉たちのにこにこ顔とは対照的に不審そうな顔をしていたのでした。
 東の丘の館の居間は、ちょうど午後のお茶の時間です。城下で穫れた葉で淹れたお茶のいい香りが部屋に漂っています。匂いには敏感なンクララもその香りには満足しているようで、小さな茶碗を両手で持って鼻先にかざして香気を楽しんでいます。
 一方、ミグは出されたお茶を一気に飲み干して妹に言いました。
「なによ、ヴラスの王子様がおいでになるっていうのにこの間からあんたのその顔は。第三王子っていえば、ニイラまで評判が届いてくるくらい素敵な殿方なのよ? 王子様なのよ? うれしくないの?」
「もしかして具合でも悪いの?」
 妹のしかめ面に姉ふたりが覗き込みますが、イリカはお茶にも手をつけず首を振ります。
「違うのンクララ姉様。このご訪問、なんだかおかしな気がして」
「おかしいって?」
「だって。ヴラスウルからの手紙には、殿下がなにをしに来る、ともなんにも書いていないし」
「遊びにくるのに、わざわざそのことを書いたりするのが面倒なだけだったんじゃないの?」
 ミグの脳天気な答えを半ば無視してイリカは続けます。
「ヴラスの王家だって、うちの国に王も王妃も不在だってことはとうにご存じでしょうに。そんな国へ王子を寄越してどうしようっていうのかしら? ちゃんとした国同士のことは、私たちに持ちかけられても困ってしまうだけだわ」
「そ、そうねえ……。ヴラスからのお客様がいらっしゃると思ってつい浮かれてしまったけれど、コヒラ王子様、いったいなにをしにいらっしゃるのかしら? ニイラがうらやましくなってぜひ見に来たくなった……とか?」
「うちの国を? ヴラスの王子様が? あるわけないわよ」
 ミグがあっさりと言います。
「だって、ヴラスウルはニイラなんかよりずっとお金持ちなのよ? ヴラスウルじゃ王族じゃなくても、ハンムーの最新の刺繍の入った着物が着られるっていうわ。なんでそんな国の王子様がうちの国をうらやましがるっていうのよ」
「ひどいわ、ミグ。ニイラにだっていいところはあるのよ」
「あたしだったら、絶対都会の方がいいわ。ニイラなんて全然いなかだもの。コヒラ王子様がわざわざ来るなんてありえない」
 ミグは姉の言葉をまったく聞いていません。
「だったら、王子様はニイラになにをしにいらっしゃると思う?」
「う」
 イリカに聞き返されて一瞬答えに詰まったミグでしたが、すぐにその顔がぱっと明るく輝きました。
「そんなの決まってるじゃない!」
「ミグ姉様、わかるの?」
 心底驚いた、という顔でイリカが姉を見つめます。
「年頃の姫がいるお城に、王子様がおひとりでいらっしゃる。そんなの目的はひとつよ!」
 ミグはぐっとこぶしを突き出します。
「な、なんなのかしら?」
「はやく言ってよ」
 ンクララとイリカはミグの言わんとするところが想像つかないらしく、目を白黒させています。ミグはふふんと自慢そうに姉妹に答えました。
「お嫁さんよ!」
「お嫁さん?」
「お嫁さんっていうと、あの女のひとが結婚するとなれる、あれのこと?」
「決まってるでしょ。ほかにどんなお嫁さんがあるっていうのよ」
「でも、コヒラ王子様は殿方よ。お嫁さんには女のひとしかなれないのよ?」
「ンクララお姉様……違うわ。お嫁さんになるのは、私たちの方よ」
「え?」
 きょとん、とンクララはイリカを見つめます。
「どうして? どうして私たちがお嫁さんに? まだ私、どこからも結婚のお話なんかいただいていないわよ?」
「それがこれから来るのよ」
 と、ミグが言いますが、ンクララはまだ要領を得ない顔をしています。
 イリカが姉のあまりの鈍さにちょっとあきれながら解説を始めました。
「つまりね、ンクララ姉様。コヒラ王子は、私たちの中の誰かをお嫁さんにするために、わざわざおひとりでニイラにいらっしゃるんじゃないか。……ミグ姉様はそう言っているの」
「えええっ?」
 ンクララは一声あげると、茶碗を持ったままその場で凝固してしまいました。
 ようやく話を理解して、そしていっそう驚いてしまっている長姉をとりあえず放っておいてイリカはミグに向き直ります。
「ミグ姉様らしい考えだけど、今回に限り、あり得ない話じゃないかもね。ヴラスとうちはいま特に仲違いしてることも、貿易でも揉めていることもないし。第一王子のツラー様ならとってもあり得ないけど、コヒラ様っていうのがかえって真実味を感じるわ。ニイラとの結びつきをいっそう強めるために、婚姻関係を結ぼうってそんなところじゃないかしら。第一王子を結婚させるなら、うちなんかよりもっと家柄のいい王家を選ぶでしょうし、第三王子くらいなら確かにあり得る話だと思う」
「うちの扱いってそんなもの? ……なんだか世知辛い話ねえ」
 言い出したときはにこにこしていたミグも、イリカの冷静な分析になんだかちょっと熱が冷めてしまった様子です。
 イリカはさらに続けます。
「それで、ミグ姉様の予想が当たっていたとして、私たちの中で結婚しなきゃいけなくなるのは誰かしらね?」
 姉妹は(ユンを除いて)顔を見合わせました。
「やっぱり、あたし! じゃない?」
「どうしてよ」
 自分を指さすミグにイリカが聞きます。
「だって、ンクララ姉様は長女でしょ? うちには男の子はいないんだから、ンクララ姉様がお父様の後を継がなきゃいけないもの」
「でも、コヒラ王子がンクララ姉様と結婚して、うちの王様になることだってあるかもしれないわ」
「う。それは……」
 イリカの冷静な指摘にミグは言葉に詰まります。ふたりのやりとりを見ていたンクララは茶碗を置いて言いました。
「でも、そう簡単にはいかないんじゃないかしら」
「どうして、ンクララ姉様」
 と、イリカ。ンクララは珍しく大まじめな顔をして答えます。
「私ひとりのことならまだしも、国の王様を決めるのはそう簡単なことではないわ。コヒラ王子がどんな素敵な方かはわからないけど、お父様もお母様もいないところで私たちだけで決められることでないのは確かよ」
「それは……そうね」
 イリカがうなずきます。
「ンクララ姉様、まるでイリカみたいなこと言ってる」
 ミグが呆れ半分、感心半分という顔で感想を言いました。
「本当のことだもの」
 ミグは姉の言葉に不満そうです。
「でもそれじゃつまらないわ。女の私がいて、素敵な殿方がいて、恋に落ちて……」
「領主の娘には許されないことだわ」
 ンクララが冷たく言いました。いつもミグの話に冷水をかけるイリカでさえ少しぎょっとしたほどの口調です。ミグもちょっと気圧されたように続きの言葉を飲み込みました。
「ヴラスウルの王家は、私たちニイラよりも格式の高い家だから、礼儀正しくお迎えはするけれど、だからといって王子様を次のニイラの王様に、というわけにはいきません。それは恋とかふたりの気持ちとか、そういうこととは関係のないことよ」
「じゃ、じゃあ、あたしがコヒラ王子と結婚する分にはいいわよね?」
「え? ……それは、まあ……」
「あたしは別に、お父様の後を継いで女王様になったり、外から王様を迎えたりしなくていいわけだから、ね」
「そうだけど……」
「ということは、あたしが一番の候補っていうことね」
 ンクララは妹の話の急展開にいまひとつついていけない様子でしたが、ミグは腕を胸で組んでうんうんとうなずいています。
「…………まあ、歳から言えば確かにそうだけど……」
 イリカも不承不承うなずきました。確かにンクララがコヒラ王子の結婚相手にならないとすれば、次はミグの番で、イリカに可能性があるとしてもその次です。
「なんだかそんなのずるいわ……」
「ンクララ姉様、いま結婚できないって言ってたくせに。本当はコヒラ王子様のお嫁さんになりたかったの?」
「そ、そういうわけじゃないけど……」
「いいからいいから。あたしがコヒラ王子と[結婚:ミアン]して、ジュッタロッタで暮らすわ。ああ、憧れの大都会」
 いまにも踊り出しそうなミグにイリカは冷たい視線を送ります。
「そんなこと言って。前はどうせ都会で暮らすのなら、ヴラスウルの街なんかじゃなく、本物の大都会の聖都に行きたいって言ってたじゃない」
「そんなのは子供の頃の夢よ。少女時代なら誰だって夢見るちょっとした気の迷い。大人の女はもっと現実的にならなくちゃあね」
 本当は「聖都に行きたい」とミグが言っていたのは、つい一週間ばかり前のことなのですが、イリカにはもうそれを指摘する気力はありませんでした。代わりに誰にともなくつぶやきます。
「とにかく、王子様がいらっしゃるのに失礼があってはいけないわ。歓迎の準備を始めなくちゃ」
「おなかがすいた」

 ユンが言いました。


──次回へ続く!

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