ニミウラ姫の純潔

作:池かなた/田中桂

※このおはなしは、架空世界カナンを舞台にしたファンタジーです。カナンについてはこちらのガイドページを見てください。
https://note.mu/tanaka_kei/n/n6547e2396851

※本編を最後まで読むには課金が必要です。

【姫様とさむらい】
 ニミウラ姫が故国を逐われてはや一年になる。ついてきたのは老さむらいのイグエひとりのさみしい道行き。
 けれどさみしいわけは人数のせいばかりではない。

「まったく、あの程度の腕前で姫様の婿になろうとは笑止!」
 槍の血脂を拭い終えたイグエはからからと笑った。
「笑止! ……じゃないわよ、この馬鹿っ」
「こ、これは姫様、お怒りのご様子……」
 さっきまで獅子神のようにいかめしい顔をしていたイグエは姫の怒声におおいにうろたえた。
 そのイグエの平たくつぶれた鼻先に、ニミウラ姫はびしりっと指を突きつける。愛らしい姿の姫君なのだが、それだけにというべきか、こうして怒っているときには妙な迫力がある。
「そうよ、いかってるわよ! せっかくのわたしの婿候補だったのに、なんてことしてくれるの!」
「いや……そうは申されましても、姫様の婿にめったな男は……」
 姫は弁解するイグエの横をつんとすり抜けると、いまや遺骸となって動かなくなった男の身体を足先で小突いた。
「あ~あ。きれいな顔してたのに。殺しちゃうんだもの。台無しだわ」
 婿候補、という割りにはぞんざいな扱いぶりだ。
「顔! 顔など、ドゴンドッチの色子であればともかく、王家の男子にとって飾りのようなものでございますぞ」
「なあに言ってるのよ。男は顔よ、顔。料理ひとつだって、顔のいい男の作った料理の方がその逆よりずっとおいしく感じるもの。私の初めてだって、どうせなら顔のいい方がずっと気持ちいいに違いないんだわ」
「ひ、姫様! 王家の役割をなんと心得ますかっ。そもそもかような事態になったのも姫様のそのお考えが……は?」
 くどくど言葉を続けようとするイグエを、あらためて姫が指先で遮った。
「お説教はあとあと。さっさと逃げないと」
「逃げるですと?」
「イグエ。お前いま誰を殺しちゃったか分かってる?」
「もちろん。商人エニゴノスのどら息子、長子テマブロスでございます」
 えへんとばかり、イグエは胸を張った。姫は小さくため息をついた。
「大、が抜けているわよ。エニゴノスといえば、向こう百ダーリ四方でいちばんの大商人なのよ」
「そのようでございますな」
「なに落ち着き払ってるの。そのエニゴノスが自分のひとり息子を惨殺されて黙ってるわけないでしょっ! ばれたらすぐに手勢を連れて追いかけてくるわ」
「むむむ……」
「さあ馬を用意して!」
 こうしてふたりはまた流浪の旅を続けることになったのだった。

【姫、国を逐われる】
 話は三年前に遡る。
 ニミウラ姫はナプオノン王家の二の姫だった。もちろんいまだってそうなのだが、もしかすると王家ではそうは思っていないかも知れない。
 しかし三年前までの姫は、まだ隣国に嫁いだ一の姫に代わって、立派な婿を取って王家をもり立てていってくれると、国中の期待を一身に集めていたのだった。
 見た目も愛らしい二の姫は、しかし内心ではそんな期待に応える気は少しもなかった。いや、まったくなかったわけではないのだが……。
「わたし、醜い男は絶対に嫌! どんな立派な殿方だって、顔が悪かったらお断りですからね!」
 この調子だったのだ。
 しかし、王家の婚姻といえば、当人の好き嫌いだけで相手を選べるものではない。
 何度も縁談をけっ飛ばしていた姫にもついに断れない縁談がやってきた。相手は大国ハンムーの第三王子で、家柄は申し分ない。そして話によれば文武にも秀でた立派な人物だという。きっと国を治めるにもその才を発揮してくれるだろう。ナプオノン国としても少し離れたこの大国と縁続きになって、なにかとぎくしゃくすることの多い近隣の国へのにらみを利かせたいところだった。まさにこれ以上はない結婚相手というわけだ。
 ただ一点を除いては。
 この時代、会ったこともない要人同士は、肖像画を通じて相手の姿かたちを知ることが多い。
 ニミウラ姫などは、たくさんの肖像画が作られ、国同士の間はおろか、国内のあちこちに飾られるほどの人気だった。
 しかしこの王子は……。
「なんっていう醜さなのかしら! こんなひとがわたしと結婚! わたしの夫に! ありえない! ありえないわ!」
 ひどい言いぐさだったが、確かにハンムーの王子は眉目秀麗とは言い難かった。
 がっしりしているといえば聞こえはいいが、肩との区別がつかないほど首は太く、その首に乗っかっている頭も、上下に押しつぶしたようなかたちをしている。
 その顔も粘土板に子供が刻んだ模様のような目鼻を、さらに左右に引っ張って伸ばしたかのような造作なのだった。
 ニミウラ姫でなくとも、紙芝居のような恋物語を夢見る年頃の少女には二の足を踏む相手だったと言っていい。
 ましてこの姫だ。
 肖像画を見た瞬間(それでも実物よりはずっとましに描いてあったのだが)絵を投げ捨て悲鳴をあげた。
「絶対にいや! いや、いや、いやっ! こんな化け物と誰が結婚するものですか!」
 なだめすかそうとする家臣たちを相手に、姫は暴れに暴れた。
 寝具を引き裂き、家具を粉砕し、いったい深窓の姫君であるニミウラ姫にどうしてこんな真似ができたものか、というほどの暴れっぷりだった。
 だがしかし。
 姫ひとりが暴れたところで、どうにかなるほど国同士のことというのは簡単にいくものではない。そんな簡単なら、戦などこの世からなくなっているだろう。
「これ以上のわがままは許さぬ」
 青筋を立てた父王のひと言でことは決した。
 これまでの女官たちから屈強ななさむらいたちに姫の供づきは入れ替えられ、万が一にも姫が城から逃げ出さないようにされた。実はこれまでにも何度か城を抜け出したことがこの姫にはあったのだ。姫君にあるまじき(まあカナンの姫君はかならずしもしとやかで城や屋敷に収まっている姫ばかりではなかったけれども)行動力を、さすがにいまばかりは発揮してもらうわけにはいかない。
 すでに婚姻は数日後に控えていたのだ。
 国中は祝賀気分。家といわず通りといわず、紫と白の布が飾られ、もちろんニミウラ姫の肖像画も飾られた。普通なら婿入りしてくるハンムーの王子の肖像画もいっしょに飾られるところなのだけれど、これはしかし見あたらなかった。肖像画家が苦心惨憺しても、どうにも見栄えがよくならない王子の姿を飾ることを人々が遠慮したせいだ。
 人々は婚礼を祝い喜びつつ、
「姫もおかわいそうに」
 と聞こえないようにささやきあった。
 しかしいくらい聞こえないようにしていても、そういう声というのはどうしてか聞かれたくない相手に届いてしまうものだ。
 ニミウラ姫の耳にもちゃあんと届いていた。
 姫の癇癪がいっそうひどくなったことは言うまでもない。
 それどころか、癇癪はやがて恐怖に変わっていった。
「わたし、あんな醜い男に処女を捧げて、そしてその子供を産むのね。化け物の子を……!」
 ひどい言われようだったが、姫の恐怖は本物だった。
 その夜、姫は寝室の出入り口を守るさむらいに声をかけた。
「ねえ、わたしをここから連れ出してちょうだい」
「そ、それはできませぬ」
 姫の花婿ほどでもなかったにせよ、醜い顔をゆがめたのはイグエだった。城詰めのさむらいのひとりとして、このとき姫の寝室の番をしていたのだった。
「おねがいよ! 一生のお願い!」
 鎧にすがりつく姫の必死な目に、イグエは端で見ていてもわかるほど大きく動揺した。姫の三倍以上の歳のこの男は、ほとんど崇拝といっていいほどの熱心さで姫に憧れていたのである。
 まして女の「一生のお願い」というのが、男のそれとくらべてどれほどいい加減なものであるか、このときのイグエはまったく知らなかった。あとになれば嫌というほど思い知ることになるのだが。ともかくこのときのイグエは姫のいい加減さ、あるいはその場を乗り切るためだけに発揮される無類の行動力についてなにも知らなかったのである。
「しかし……それでは王様の命令に逆らうことになります」
「ちょっとだけ、ちょっとだけよ。逃げたりなんかしないわ。ミリに祈願してきたいだけ」
「き、祈願でございますか?」
 さっきから鼻腔をくすぐる果物のような花のような香りに、イグエはもうすっかりまいっていて、まともにものを考えられているかどうかもあやしい。
 ミリといえばカナンでもっとも有名な女神ではあるが、その性奔放で、女のよろしくないところを代表している……別の人々に言わせればそうした特性こそミリ神の素晴らしさであるということになるらしいのだが……そんな女神なのだ。
 普通これから婚礼を控えた娘が祈願をするような神ではない。普通ならミトゥン女神などに夫婦生活の円満を祈願するものだ。
「お願いよ。なんならお前が見張りについてきてくれればいいわ。それならわたしも逃げられないでしょう?」
「………………!」
 これがイグエにとってはとどめだった。
 憧れの姫君とのふたりきりの道行き。
 たとえそれが、女神の社に祈願をしに行くだけのたった一度のことでも、これまでその相貌のおかげで異性との浮いた話ひとつなかった年老いた男にとっては、断ることのできない提案だったのだ。
「決して逃げたりしないと、お約束いただけますか?」
「もちろんよ! わたしが約束を破ったことがあった?」
 そんなこと、初めて言葉を交わしたイグエにわかろうはずもない。
 ニミウラ姫はイグエの案内で城の外へ出た。


【ミリ女神の社】
 夜の城下。外套を頭からかぶった姫と、鎧姿のイグエはミリ神の社へとやってきた。イグエの掲げた松明の炎にふたりの姿は水面に移った影のようにゆらゆらと揺らめいている。
 女の裸身を浮き彫りにした艶めかしい二本の柱の間をくぐって拝殿へと進む。イグエにとっては初めてのミリの社だ。男の来る場所ではない。
「ふふ。まるで『赤目の仮面』みたいじゃない?」
「は?」
「もう、紙芝居のお題も知らないの? 見かけ通りの不調法ね」
「もうしわけありません……っ」
 姫としてはこの道行きをなにか恋物語的な雰囲気になぞらえたかったらしいが、イグエにはそんな知識は残念ながらまるでないのだった。姫はため息をついて小さく手を振った。
「まあいいわ。お前はそこに控えておいで」
「は。いえ、しかし……」
「嫁入り前の娘の祈りの場にいっしょについてくるつもり? ちゃんと約束したでしょう? 逃げたりしないわよ」
「ははっ」
 イグエはその場に膝をついて頭を垂れた。
「…………」
 そのやや髪の薄くなった頭をしかめ面で見下ろした姫はすぐにそれを振り払うようにことさらに大きな動作で振り向いて、拝殿へと進んでいった。
「機会があればこのまま逃げてしまいたいところだけど……」
 たったいま口にした言葉をあっさり翻しつつ、姫は夜の間中灯されている灯火のわずかな明かりを頼りに、きょろきょろと周囲を見回しながら姫は別の出口を探した。が、そんな都合のいいものは見あたらなかった。
 やがて、ついにいちばん奥まった場所、ミリ神への祈りを捧げる場所へやってきた。
 一段高くなった中央には、木の葉のようなかたちをした大きな木彫りがある。ミリの神体だ。祈りが聞き届けられればこれにミリが顕現するという。あるいはこれを通じてミリは人間の女の願いを聞くともいう。
「ミリよ」
 両手を胸の前で交差させて姫が膝をついた。王家の姫といえど、神の前では頭を高くしていることは許されない。どんな罰を被るか分からないからだ。
「わたしの願いを聞いて下さい。あんな醜い男の妻になるのは嫌です。こんなに美しいわたしが、どうしてあんな獣と区別のつかない男と契らなければならないのでしょう」
 姫の言葉は、一語ごとに熱を帯びていく。
「そんな結婚はいやです! わたしはまだ男を知りません。おぞましい獣に犯されて女にされるなんてまっぴら! そのくらいなら死んだ方がましです!」
 かすかに。
「ミリよ。女たちの神よ。ミリならばわたしのこの気持ちが分かるはず! 女の心を踏みにじる男どもの欲望に鉄槌を! わたしの純潔をお守りください!」
 まだひと言たりとも交わしてさえいない相手のことを、よくもまあこれだけあしざまに言えるものと、端で聞いている者がいれば思っただろうが、このときはイグエも拝殿の外。
 彼女の自分勝手な言葉を聞いているのはただミリのご神体のみ……。
 そのご神体が、かすかに光を帯びた。

――まったくだわ。

「え」
 すっかり自分語りに夢中になっていた姫は、突然聞こえた声にはっとなって周囲を見回した。
「だ、誰……っ?」

――お前の願い、きいてあげましょう。

「まさか……まさか…………」
 おびえと驚きが入り交じった顔で姫はじりじりとあとじさろうとする。
 もはやご神体の異常は誰の目にも明らかだった。
 まるでひかり鯰のように、ご神体はきらきらと輝き、その中央あたりからは湧き水のように細い透明な液体が滴りさえしているではないか。
「ミリが……本当に…………」
 うろたえるニミウラ姫の目前で、ご神体はいよいよ光を増し、声は拝殿全体を震わせるほど大きくなった。

――あなたの気持ちよく分かるわ。女なら誰だって、心から望んだ男と初めての契りを結びたいものだもの。

「え、ええ。ええ……そうよ。そのとおりよ!」
 考えてもみなかった女神の顕現だったが、むこうが自分の願いに同情してくれるとわかって姫は勢いづいた。
「どうか、どうか女神! わたしを守ってください!」

――もちろん。

 女神はあっさりと請け合った。

――あなたが心から愛する相手と巡り会うまで、あなたの処女はあたしが守ってあげるわ!

「そう! 心から愛する相手と…………え?」

――女はやっぱり愛よ! 愛がなくちゃだめ。どんな見た目のいい男も、愛抜きじゃちっとも気持ちよくないんだから!

「あの……女神? なにを言って…………」

――人の娘よ。まことの愛に巡り会うまでお前の処女を犯すものに我が呪いあれ!

「ミリ――――っ!」

 拝殿から発した凄まじい光にイグエが飛び込んできたときには、姫はご神体の前で気を失って横たわっていた。
「姫、姫! 姫!」
 色を失うイグエだったが、姫がかすかに「うう」と呻いたのを聞いてまだ息があると知るや、その身体を引っ担いで、バサン神もフウブウ神もかくやという速さで城へと駆け戻った。
 結局姫は無事だった。イグエが城門にたどり着いたころには「ここはどこ?」と目を覚まし、門番たちを驚かせた。
 むろん婚礼を目前にした姫を城外へと連れ出したイグエが叱責されなかったということはない。それどころか、あわや冥界の神ラノートの元へと送り出されるところだった。
 だが、婚礼の相手は大国ハンムー。いずれナプオノンをニミウラ姫とともに治めることになる王子に、こんな姫の醜聞を報せるわけにはいかない。いつだって弱みを握ろうとしている周辺諸国に対してもそうだった。
 そのおかげでイグエは罪を問われずに済んだ。婚礼の儀式の警護からははずされてしまったが、そのくらいで済んだのだからめっけものというべきだったろう。
 その夜から。
 ニミウラ姫はそれまでの勘気もどこへやら、なにやら魂が抜けたようにおとなしくなった。明後日にはハンムーの王子の妻になる姫、おとなしくなってくれれば幸い、これもきっとミリ神への祈願が利いたのだ、と家臣たちは無理矢理に自分たちを納得させた。ミリ神がどのような神であるか、誰もが知っていたはずなのに――。

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