『蛙の神、姫君の願いをかなえる』

作:田中桂

※このおはなしは、架空世界カナンを舞台にしたファンタジーです。カナンについてはこちらのガイドページを見てください。

https://note.mu/tanaka_kei/n/n6547e2396851

※本編を最後まで読むには課金が必要です。

【ごきげんななめ】
「姫様、とっても素敵に仕上がっていますよ。ご覧になってくださいましな」
 ばあやがそう言って白い衣装を広げて見せる。とても凝った刺繍が施された白いパレリは、私の目から見ても素晴らしいものだった。普段だったらばあやと一緒にきゃあきゃあ言って喜んでいただろう。なにしろ私はこんなふうにひらひらとした衣装が大好きなのだ。
 けれど、いまは素敵な衣装も喜ぶ気にはなれない。ばあやの言葉にも生返事でうなずくだけ。
 理由は自分でもわかっているのだ。けれど分っていてもどうしようもない。ばあやのような身分の者ならともかく、私のように、小なりとはいえ王国の姫に生まれた娘には自分でもどうしようもないことがあるのだ。
 たとえば共連れなしではお城の外を歩けないこと。たとえば領民の前ではいつでもほほ笑みを絶やさずいなければいけないこと。
 そして、結婚する相手を自分で選べないこともそうだ。
 表情の冴えない私をばあやは心配そうにのぞきこむ。
「おめでたいご婚礼の前だというのに、なんだか姫様のお顔はすぐれませんわ。どこかお具合でも……」
「なんでもないわ。ちょっと気が乗らないだけ。それを持って下がってちょうだい」
 そっけない私の返事にばあやはさらにもごもごと言ったが、やがて雄弁な溜め息をひとつつくと、衣装を抱えて下がっていってしまった。
 私もその後ろ姿に吐息をもらした。
「ああ、どうして結婚なんかしなくちゃいけないのかしら」
 どんなに素敵に仕立ててあっても、あれは婚礼衣装。国同士が決めた結婚の、その花嫁が身に着ける衣装なのだ。
 私の結婚は占いで決められた……というのは、領民向けの建て前。
 きちんと力のあるまじない師を立てて、神々の示した相手と結婚するのならいい。そういう結婚は、水が流し込まれた器の形にぴったり収まるように自然なものだからだ(私はこの言い回しがちょっと気に入っていた。だってとても大人っぽい感じがするではないか)。そういう結婚が当たり前でもある。
 けれど一国の姫の婚姻となれば、自然さだけではすまなくなる。
 国と国との関係を深めるために、結婚する当人同士の相性などは無関係に決められてしまうことがままあるのだ。
 もちろんもともと相性のいい王子と姫ならそれでもいいのだけれど、そうそう都合のいい組み合わせのふたりがいるとは限らない。私だって(まだ成人の祭りを過ごしてはいないけれど)十分に大人だ。そのくらいの分別はつく。
 でも。私の結婚相手がそれこそ水と油のように相性が最悪の相手だったらどうすればいいのだろう。
 私の想像は膨らんだ。けれどお城の中からほとんど一歩も出たことのない私には、あまり殿方という存在の知識がない。
 だから相性最悪の結婚相手といっても、もうひとつはっきりとは頭に描けない。
 一番よく知っている殿方といえば、父上か、せいぜい城勤めの重臣たち。だれも父上と同じくらいのお年寄りばかりだ。
 そこで私はこの婚姻の一番重要な点に思いを馳せずにはいられない。
 まだばあやが、ちらと口をすべらしたのを聞いただけで、詳しいことは分からないのだけれど、私の結婚相手の王子様というのは私よりもだいぶ年上らしいのだ。
 年上といっても、何歳離れているのか詳しくはわからない。
 でも、一歳や二歳の差なら、ばあやもわざわざ気にしたりはしないだろう。私にもそのくらいの想像はつく。大人には私たちの年頃はみんな同じく子供にみえるらしいのだ。
 だとすればいったいどれほどの年の差なのだろう。まさか私と父上くらい離れているとか……。
 私は両手で顔を覆って天をあおいだ。
「そんなの、そんなのは嫌!」
 私は立上がりその場を歩き回り始めた。ばあやがはしたない、やめてくださいと繰り返しお説教をする私のくせだ。
 でもいまは構っていられない。ばあやはこの部屋にいないのだし、いまは「危急のとき」だ(ちなみに私はこの言葉も気にいっている。民を統べる王族にふさわしい響きがある。大人になったらこの言葉がたくさん使えるといいな)。なにしろことは私の結婚なのだ。これ以上危急な問題がほかにあるだろうか。
 私は積み上げられた柔らかなバンセマの間を縫うように歩きながらつぶやいた。
「そもそもまだ成人の祭りも終えていない私がどうして結婚しなくちゃいけないの!」

【蛙の神様】
「うるさいことだな。歩き回ったり叫んだりまことにせわしない」
 いきなりの声に私は飛び上がった。
「何者! ここがどこか知って入りこんだかっ?」
 あまりに驚いたものだから、私の言葉もつい鋭くなる。が、返ってきた答えはいたってのんびりしたものだった。
「王国の姫の部屋というからさぞかし静かなところだろうと思って来てみれば、どうだこの騒がしさは。これならばまだ城下の色宿の方がマシといいもの」
 私の胸に怒りが込み上げる。色宿という言葉の意味はわからなかったが、相手が私を意にも介していないことはよくわかった。
「何者! 姿を見せよ! 姿も現わさぬとは無礼であろう」
 少しあってまた返事。
「ふん。無礼とな、そういうなら姿を見せてやらぬでもないがな」
 声は面倒げにそういうと、一瞬とぎれた。
 そして。
 部屋に置いてある中で一番大きくて柔らかな枕布団の上に小さく煙が立ち上ぼったかと思うと、それはぼん、と音を立てて膨らんで、私があっという声をあげたときには煙は犬ほどもある大きな蛙に変じていた。
 私は驚きのあまりたたらを踏んで、その場に尻餅をついてしまう。
 蛙は口もごもご不満げに動かした。
「ほうれ驚いた。だからひとに姿を見せるのは好きじゃないんじゃ」
「こ、これもしかして……神様?」
 おどろく私の前で蛙……の神様はげっと軽やかに鳴いた。
 突然のできごとに、私は驚き混乱していた。
 神様がいきなり現れるなんて聞いていない。
「な、な、なんですか。神様がいったい私になんのご用があって……まさか」
 私はできるだけ蛙から離れようとしながら想像を巡らせた。
「まさか、父上が去年やったかんたくを恨んで? そ、そんなこと言われたって私困るわ。それは父上がやったことで、私にはなんの相談もなかったんだもの」
 蛙……蛙の神はじっと目を細めた。
「そんなことなら気にしておらんわい」
「本当に?」
「本当だ。あれならもう、近場のひとどもに毒をくらわせてやったわい」
 安心しかけた私に蛙の神は恐ろしいことを言った。
「皮が醜く膨れて腫れ上がる毒だ。我が眷属の住みかを荒らした罰だ。いい気味だ」
「…………」
 私は口もきけずに蛙の神の顔を見ているしかなかった。大きさは犬ほどであっても、やはり神は神なのだ。といっても蛙にしては、目の前それは大き過ぎる。
 蛙は何度かのどを膨らませて、そのまま動かない。
 顔が腫れ上がる毒などごめんだった私は、しばらくじっと黙ってその場にいた。
 けれどいつまでもそんなことをしているわけにもいかない。
 私は勇気をふり絞って、蛙……の神に声をかけてみた。
「あの」
「なんだ」
 蛙がじろりと私を見た。
「神様はそこでなにをなさっているんですか?」
「お前が姿をみせろというから見せてやったんだが」
「あ……、ええとそうではなくて、私の部屋でなにをなさっていらっしゃったのかと……」
「別になにもしておらん」
 蛙の神の言葉はなんとも要領をえない。
「だって神様なんでしょ?」
「いかにも儂はお前たちがいうところの神というやつだな」
「その神様が何の用事もなく人間の部屋にやってきたっていうんですか!」
「なにをいう。用もなしにあちこち動き回るのはフウブウの眷属くらいのものじゃ」
「じゃ、じゃあ神様はここになにをしにきたんですかっ」
「なにも。なにもしにはきとらんよ」
「……だっていま神様用があってここに来たって……」
 聡明な私の頭もさすがに混乱して来た。蛙の神様だからってそのままことわざどおりにしなくたっていいだろうに。
 蛙は鷹揚にうなずいた。
「ああここには用があってやってきた。そのとおりじゃ。ひとにしては賢いの、お前」
「…………」
 私は怒鳴り散らしたくなるのを必死に堪えた。
「それで……なんでいまはなにもしていないんですかあ」
「わからぬことを聞く姫じゃな。少しは賢いと思っておったにさほどでもなかったか」
「私が愚かなのはすておいてくださいませ。用があってこの部屋にこられたというのに、なんでなにもしていないんですか。用があって来たのならその用を足さなければいけないんじゃないんですか?」
 私の必死の問いに蛙はなにがなんだかわからぬという顔をした。そう見えただけかもしれないけれど。なにしろ蛙の表情くらい読みにくいものもない。
「用なら足しておるではないか」
「はあ?」
「用なら足しておると言っておるのじゃ。そもそも儂は静かになにもせずのんびり時を過ごそうと思っておったに、とんだ邪魔が入ったもの」
「なにもせずに……のんびり……」
 蛙の神はそうじゃとのどを反らした。
「のんびりゆっくり時間を過ごそうと思っておったに、なんともうるさい姫ごのおかげで台無しじゃ」
「うう」
「いったいどうしてそのようにうるさくしておる。普通王家の姫は静かにしとやかにすごしているものではないか」
 この言葉に私はいたく傷ついたが、神様……それも蛙の神様に言ってもしようがない。
「神様にはしらなくてもいいことです」
「なんじゃその言い草は」
 私の言葉に神様は憤慨したようだった。
「せっかくわざわざ身を隠していたのを出てきてやったというに恩知らずなやつめ。ばちをあててやろうかい」
 勝手に私の部屋に入り込んでおいて、恩知らずもないものだが、神様には逆らえない。本当に罰をかぶるのは勘弁してほしい。
「ああごめんなさい、ごめんなさい」
 なんで私が謝らなければいけないのか。
 蛙はうなずく。
「なにを騒いでおったか喋る気になったか」
「はあ……」
 私は仕方なく、今回の婚礼の顛末を蛙にむかって話して聞かせた。
 何度かのどを膨らませながら私の話を蛙の神は聞いていたが、話し終えると途端にげこげこと笑い出した。
「な、なんですか。なにがおかしいんですか」
「見てもおらん相手を怖がったところでしようがあるまい。怖がるにしても見てからで充分ではないか」
「私は怖がってなんかいませんし、それに会ってしまってからでは遅過ぎます」
「なぜじゃ」
 蛙の神は心底不思議そうだった。
 神様に王家の複雑なしきたりについて話しても、どうせ理解はされないだろう。
 私は違うことを話すことにした。
「私はまだなんにも知らないんですよ」
 それまで降ろしていた腰を持ち上げ、神様の方へ体を乗り出す。
「お城の外へもほとんど出たことがないし、外の世界のことなんかなんにも知らない」
 蛙の神は黙って私の話を聞いている。
「私だって色々知りたいわ。町の女たちがしているようなことを私だってしてみたいもの!」
「町の女がしていること? それはどんなことじゃ」
「それは……よくわからないけれど……」
 私は言葉に詰まってしまった。町の人々の暮らしに興味はあったものの、それについての詳しい知識はなにひとつ持ち合わせていなかったのだ。
「詳しくわからぬでは、願いのかなえてやりようもないぞ。なにせ儂はひとの神ではな……」
「かなえてくれるの!?」
 私の勢いに、蛙はとびあがって部屋の端に逃げた。さすがは蛙、見事なすばやさだ。
「だから詳しくわからぬではかなえられぬと言っておろうが」
「かなえて、かなえて、かなえて! お願い、お願いします!」
 私の勢いに、蛙の神はもう一度飛び上がって背後に逃げようとしたが、すでに壁際まで逃げ込んでいたために、そのまま壁に激突して、床へぼとんと落ちてしまった。
「あいたたた……」
「大丈夫ですか……?」
 私は心配になって蛙のそばににじりよったものの、さすがに触ってみることはできなかった。
 蛙がよっこらしょという調子で起き上がる。
「まったく脅かしおって。儂はこういうのに弱いんじゃ」
「ねえ神様」
 私はできるだけ優しい声で話しかけた。
「私、一度お城の外へ出てみたかったの。姫じゃなくて庶民の娘がするようなことがしてみたいの」
「それはわかった。だがひとの女のすることなど……いやまてよ」
 蛙は目をつぶって、それからまた開いた。
「子供のお前が知らなくても、あやつなら知っておるやも」
「子供じゃないです! ……あやつ?」
「うむ、あやつなら人の世のことはよう知っておろう。ことに雌のことはの」
 蛙は小刻みにうなずきながらひとりでつぶやいている。
「お前が知らんでも、あやつが分かるなら願いをかなえてやらんでもない」
「本当に! いえ本当ですか?」
「うむ。あやつめ、前から儂の粘つく舌で女陰を舐めまわされたいと言っておった。やってやると言えば、力を貸すだろう」
 ほと……、神様が言っていることがなにを意味しているかよくわからなかったが、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
「そのひとにお願いすれば、願いはかなえてもらえるんですか?」
「ひとではない。神じゃ。ミリという女神だが知っておるか?」
「ミリ!」
 今度は私が飛び上がる番だった。
 ミリといえば女神の中の女神、三〇〇もの神々の母となった大神ではないか。
「そ、そんな偉い神様に力を貸してもらえるんですか?」
「わからん。気紛れなやつじゃからな」
「そんなあ……」
 いったんは膨らみかけた望みが休息にしぼんでいく。
「とにかく頼んではやるから、少しおとなしくしておれ。そして今日のリュルの刻になったら儂の名を呼ぶがよい。できるか?」
「できます、できます! ……か、神様の名前は?」
「リリンラじゃ」

【女神現る】
 夜。
 私は蛙の神様リリンラに言われた通り、それまでの時間をおとなしく過ごした。
 なにしろ神様の言うことだ、そう簡単に信じていいわけがない。とはいえやはり相手は神様なのである。人間にできないことも簡単にできるに違いないのだ。
 そんなわけで、私は半分だけの期待で夜が更けるのを待っていたのだった。
 部屋にはしんとした夜の空気が立ち込めている。
 こんな時間にまで起きていたことはめったにない。
 私はごそごそと寝具の間から這い出すと、その上に座り込んだ。
 もうそろそろいいだろうか?
 それとも早過ぎるだろうか。
 特に神様から合図らしいものはない。
 私の胸はどきどきいい始めた。
 大丈夫だろうか、もすかしてもう約束の時間を過ぎてしまったろうか。
 そんなはずはないと思いながらも不安が打ち消せない。
 結局私は意を決して、神様を呼んでみることにした。
 つばを一度飲み込む。
「リリンラ……、リリンラ、リリンラ!」

 果たして。
 蛙の神は現れた。
 もうひとりの美女をともなって。
「みっ、ミリ様!」
 思わず私はその場に平伏していた。
 頭の上から声が降ってくる。
「この童か。蛙殿に願いをかなえよと申したは」
 涼やかな声、それだけ聞いていると、まるで私とたいして歳の変わらない少女と勘違いしてしまいそうだ。
「そうだ。儂に願いごとをしておるのはこの姫よ」
「姫に生まれたというに、街の女のようなことがしてみたいと」
「そうだ。儂にそう願った。なあそうだろ」
「はっ、はいっ」
 私は慌てて答える。
「さあミリよ、姫の願いをかなえてやってくれ。そうすれば儂は安穏な居場所を得られる」
「そう急くな」
 とミリ。
「約束は果たしてくれるのだろうな。この姫の願いをかなえたら、妾の女陰をいいと言うまでその粘つく舌で舐めまわしてくれると」
「わかっとるわかっとる。儂は静かな居場所が早く欲しいのだ。さあさっさとやってくれ」
 女神の念押しに、蛙の神はいらついた声で応じる。
「では姫よ」
「はいっ」
 少女のような女神の声。
「街場の女と同じことをしてみたいのだな」
「はい。私が結婚するまでの間だけでも……」
「あいわかった。そなたが結婚するまでの間、その願いかなえてやろう」
「ありがとうございますっ」
 私は礼を言って頭をあげた。
「え……」
 そこにはミリもリリンラもいなかった。
 慌てて周囲を見回しても二柱の姿はない。
「ミリ様? リリンラ様……?」
 不意に迫ってくる不安に、私は身動きもならないままじっとあたりの気配を探った。
 気がつけば、空気の匂いが変わっていた。
「ここは、どこ?」
 かすかに青白い光が細い筋になって差し込んでいる。
 どうやら月の光らしいそれが、唯一の明かりだった。
 そんなわずかな明かりでもやがて目がなれてくる。
 部屋はとても狭いようだった。私が横たわっていた寝台からすぐ壁になっている。壁は材木を簡単に打ちつけただけの簡素な作りらしく暗い中にもいびつな表面のでこぼこが見てとれた。
「ここはどこかしら……」
 見知らぬ場所に自分がいるのだということがはっきりしてくると、私の頭はいよいよ混乱し、神様たちとの約束さえ、しばらくはすっかり忘れてしまっていた。私が約束のことを思い出したのは、心細さにさんざん泣きはらしたあとのことだった。
 私がリリンラとの約束を思い出して、落ち着きを取り戻したとき、いきなりまぶしい光が飛び込んできた。
 が、まぶしい光、と思ったのは下げ油灯の明かりにすぎなかった。暗さに目が慣れていたのでそうなったのだ。
 光の向こうから声がした。女の声だ。
「どうしたの、うるさくって眠れやしないわよ」
 乱暴で攻撃的な言葉遣いにもかかわらず、声は柔らかくて包み込むような感じがした。
「あの……」
 私はなんと言ったらよいやらわからず、くちごもる。
 そんな私の態度をどう思ったか、声はこちらへ近付いてきた。
「どうしたの。具合でも悪いの?」
「そういうわけじゃ……」
「じゃあどうしたの?お客に泣かされでもしたの?」
 女がいよいよ近付いてくる。
「あら」
 戸惑ったような気配。
「あんた見ない顔ね」
 女の顔が私の前に突き出された。
 眉をしかめた女の顔は美しかったがどこか疲れた感じを受けた。
「あの、あなたは……」
 女は笑顔を見せた。
「あたしの顔を知らないところを見るとやっぱり新入りなのね」
 女はのそのそと私の寝台にあがってきた。普段なら失礼をとがめるところなのだが、今の私は混乱していて彼女がすることを黙ってみているばかりだった。
「あたしはウレイ」
 女は私にのしかかるくらいの姿勢でそう言った。名前の最後の発音がどこか乱暴で、なんだかおさむらいのようだ。
 ウレイと名乗った女の手が私の頭を撫でる。思いもかけず優しい感触に、私は思わず体を固くした。
「最初のうちは辛い仕事だけど、すぐに慣れるわ。今は怖いかもしれないけど男なんてちょろいもんなんだから」
「…………?」
 ウレイの言っている意味が私にはわからない。だがなぐさめようとしていることだけはわかった。
「大丈夫。なんでもない」
 私はとっさにそう答えていた。
 ウレイは私の言葉を信用はしていなかったようだが、素直にうなずいた。
「なにかあったら言うのよ」
 彼女は私の頭に手を置いて無造作にかき混ぜると、寝台から降りて部屋を出ていってしまった。
「…………」
 私は彼女の出て行った扉に思わず声をかけそうになるのをぐっと我慢した。
いったいこれはどういうことだろう。
 これはやはりミリのやったことなんだろうか。
 締め付けるような不安に私はしばらくのあいだまんじりともせずにいたが、 やがてぐっすりと眠ってしまった。
 目が覚めたのは、いつもよりだいぶ遅くなっていた。

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