大江戸コンサルティング物語/後編

前編より続くhttps://editor.note.com/notes/na6c24799fcc1/edit/

シーン5/11■ 人を動かす動力源

「尾張名古屋は 城でもつ」

の歌詞で有名な伊勢音頭に、

「伊勢に行きたい 伊勢路が見たい せめて一生に一度でも」

と唄われている伊勢神宮が、江戸っ子にとって一番人気の旅行先だったためか、伊勢街道は、幕府の成立早々に、脇街道として整備されていた。

整備されていたといっても、宿場以外は、現代からみれば里道のようなもので、やっと馬一頭が交差できる道幅の土道が人馬に踏み固められている程度だった。

見晴るかす伊勢湾を右手に松阪を出発した私は、津、白子、四日市と伊勢街道を北上した。

男性が無理せずに歩ける速度は、時速4キロメートル前後。

休息を挟みつつ、一日中歩き通したとしても、8時間から9時間歩いて、30~35キロメートル程度。

車なら30分もあれば移動できる距離である。

「行きは よいよい 帰りは こわい…か」

ふと、わらべ唄の「通りゃんせ」が脳裏を過ぎった。


「帰りはこわい」の「こわい」は、天神への恐怖を指す解釈もあるが、帰途の疲労を指す解釈もある。後者の意味で私は、

「今朝、東京を発ち、松坂へ行く時は、スーツにビジネス鞄だけの軽装だったのに…」

と一人ごちた。電車で3時間半だった往路を半月かけて帰ることになろうとは夢にも思わなかった。

鉄道に、自動車。便利なものである。

便益こそ、人を動かす動力源であることを思い知った。
マーケティングでいうところのベネフィットである。

シーン6/11■ 競合とは違うことをやれ

四日市で東海道と合流し、東へ。

赤坂宿で泊まった大橋屋は、2015年3月まで営業していた

が、私が泊まった350年前は「鯉屋」の屋号で、まだ新しい旅籠だった。

草鞋を脱いで足を洗い、宿へ上がると、菅笠、袖合羽、手甲、脚絆を外し、肩の前後に振り分けた振分荷物を降ろし、小袖、股引を脱ぎ、道中差をしまった。

武士でなくとも、旅人に限って、帯刀は許されている。清水の次郎長で有名な江戸時代の博徒が道中姿なのは、常に脇差を帯びるためである。


浴衣に着替えて、畳の上に、ごろりと仰向けになり、天井の木目を眺めていると、

「でやんで」

と別れを言って送り出してくれた布袋さまの顔が脳裏に浮かんだ。

「同業他社と、同じことしたらあかへんに。競合とは、違うことやんない」

江戸には、競合がひしめいている。その中でも大店(おおだな)といえば、

1)日本橋の白木屋(のちの東急百貨店日本橋店。1999年に閉店)

2)尾張町(現在の銀座5~6丁目)えびす屋(のち島町組として御為替御用掛)

3)同じく尾張町の亀屋(のち退転)

4)同じく尾張町の布袋屋(のち新宿へ移転後に破綻し、伊勢丹が吸収)

で、中小も含めれば、一体どれだけの競合があるだろう?


そこへ、徒手空拳の高平氏が乗り込んでいって、どう戦えばいいのだろう?

私は彼へ、どんな策を授ければいいんだろう?

「同業他社と同じことをするな。競合とは違うことをやれ…かぁ」

そんなことを考えているうちに、いつしか深い眠りへ落ちていった。

シーン7/11■ 開業前から目指すもの

白須賀- 浜松- 掛川- 藤枝- 府中- 由比- 沼津- 小田原- 平塚- 神奈川と宿を重ね、品川宿へ入ったのが14日目の夕方。

どこの宿場も客引きが強引で、留女が、路上で、旅人の腕を引きちぎるように拉致しようとする。

品川宿のような競争の激しい宿場となると、一人の旅人に複数の留女が寄ってたかって、

「うちの宿へ」

と争奪戦を繰り広げる。自然な成り行きで、枕を共にしてでも客引きしようとする留女 兼 仲居 兼 私娼の飯盛女たちが、宿場へ蝟集する。

一泊200文が相場の宿賃の他に、200文~700文の花代が落ちるのだから、遊女の多い宿場は繁栄する。

江戸四宿の一つに数えられる品川宿は最たるもので、現代では想像つきにくい一大遊郭が、昭和31年の売春防止法施行まで続いた。


私は品川を素通りし、日本橋へ歩を急いだ。高平氏の店へ着いた頃には、日がとっぷり暮れていた。

高平氏は、松坂の布袋さまから手紙で知らされていたらしく、私の来着を待ちわびていた。仕立飛脚は東海道を最短4日で走り抜く。

「お待ちしておりました」と高平氏は、六畳間ほどの店先に額ずいて出迎えてくれた。

道に面した間口3メートルの小さな店だった。

最大手の白木屋の間口40メートルに比べれば、勝手口かと思われるほどに狭い。

江戸の商業中心地である日本橋本町でなければ、もっと広い店舗を構えられたであろうが、布袋さまから、

「どんなに小さな店舗であっても、本町」

と釘を刺されていため、この店に決めたという。その話を聞いて、

「日本マクドナルドの一号店を、銀座にこだわった藤田田さんと同じ発想だ」

と感心した。開業前からビッグビジネスを目指している戦略が窺える。

シーン8/11■ 同業他社が手付かずの宝の

翌朝、江戸時代の日本橋本町から、大伝馬町へかけて、散策してみた。

同じく松坂出身の小津清左衛門が開いた紙問屋がある。現在の小津産業である。のちに木綿を扱い、江戸有数の大店(おおだな)になる。

日本橋には薬種問屋が軒を連ねている。

鳥居薬品、興和、アステラス(藤沢薬品+山之内製薬)、三共第一(三共+第一製薬)、田辺三菱製薬など、現代でも日本橋に製薬メーカーが多いのは、江戸時代からの名残り。

大通りから裏路地へ入ると、小間物屋などの小規模店舗が並んでいた。

塗物、刃物、ハサミ、櫛、髪飾、地炉裏などの小間物が店先に並べられている。

現代では珍しくも何ともない、店先(たなさき)売りである。

ふと妙な違和感を覚えて立ち止まった。

そういえば、ずっと歩いていて、店先売りの呉服店が見当たらなかった。

「宝の山が目の前にありそうな…」

自分の目で確かめ、自分の耳で聞いたから確信できる。


「同業他店が手付かずの宝の山が、必ず、ある」

足で調べるマーケティング・リサーチから得た第六感だった。

帰って高平氏に、

「店先売りの呉服店は、ありますか?」

と尋ねると、案の定、店先売りの呉服店は皆無だった。

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呉服店のみならず、江戸時代の販売方法は、得意先へ品物を置いて帰ってくる屋敷売りと、注文を聞いて回る見世物商いの二通りが主流だった。

富山の薬売りタイプと、御用聞きタイプの二種類といえば分かりやすい。

支払いは、掛売り。現在の企業間取引のように、ツケで支払う。

BtoBビジネスに従事している方々は重々お分かりの通り、売れても入金が無いのだから、店舗は資金繰りに苦しむ。

売上が順調に伸びれば伸びるほど、手元不如意になり、仕入れにしても、給料にしても、現金の支払いに苦労する。


それも、盆暮れの二節季払いだから、リスクは大きい。半年後には、得意先が退転している可能性もある。

それらのリスクを回避するため、正規の価格に、余剰分を上乗せして売る。

余剰分が上乗せされていることを知っている客側は、とうぜん、値切る。

まるで、狸と狐の化かしあいだった。

「高平さん、そこから変えましょう」

と私は提案した。

「店先売り(たなさきうり)するんです」

シーン9/11■ 5つの戦術

小売店が当然の現代からしてみれば、店先売りこそが普通であって、富山の薬売りに代表される屋敷売りや、御用聞き営業の見世物商いのほうが珍しい。

しかし、350年前の日本では、店先売りのほうが珍しかったのである。

しかも、店先売りしているのは、門前の土産物屋や小間物屋のように、小商いの店ばかり。

とてものこと、高級路線で売る呉服業界の売り方とはいえない。恥ずべきことでさえ、ある。

案の定、高平氏は驚いた。

「え?店先売りなんて、小間物屋の商法ですよ?」

「異業種だから、いいんです」

「それに、切り売りは、呉服業界では禁止ですよ?」

「業界のために商売なさっているんですか?」

「いいえ」

「高くて当然なものを、安くする。安くするために、グロス売りを、切り売りする」


「安くするために、ですか」

「切り売りするために、武家へ売るのではなく、庶民へ売る。掛売りで当然なものを、現金取引にする。エンドユーザーばかりではなく、卸にも売る」

「庶民は、買いますか?」

「これを御覧ください」

私は、大福帳を広げて見せた。

そこには、私が足で聞き集めておいた庶民の声が記されていた。


「呉服屋なんて、お武家様が相手の殿様商売さ」

「おれたち庶民にゃ関係ねえ」

「呉服屋の値段は、信用できねえ」

「値切るのが難しくて」

「反物まるごと買う必要ない」

「反物を買っても、仕立てるのが一苦労」

「少しだけ、安く買いたいんだけど」


はたと、大福帳をめくる高平氏の指が止まった。

「私たち呉服屋へ対する不満が、こんなにも、あったなんて」

「それを、私が住んでいた世界では、クレームと呼びます」

「不満は満足の種。引っくり返せばいいのですね」

「さすがは飲み込みが早い。では、戦略戦術を考えましょう」

こうして、

1)店先売り(店頭販売)

2)はぎれ売り(少量販売)

3)現銀正札(現金販売)

4)諸国商人売り(卸売)

5)仕立て売り(オーダーメイド)

という5つの戦術が決まった。

シーン10/11■ マーケティングを駆使せよ

5つの戦術は、またたく間に江戸中へ広がった。

「店先売りする珍しい呉服店があるそうだ」

「お武家様のみならず、庶民でも買えるらしい」

「掛売りではなく、その場で現金と交換する正価売りだから、値切らなくてもいい」

「一反まるごと買わなくても、買う分だけの切り売りだから、安く買える」

業界初の販売方法は噂を呼び、一般庶民が押し寄せ、瞬く間に、評判の繁盛店になった。

マーケティングの方向転換は商品を変えるか、売り方を変えるしかなく、方針は、

1)ぶんどる … 競合の顧客を奪う

2)見つける … これまでとは異なる顧客層を見つけて市場を広げる

3)作り出す … 新しい商品や、販売方法を作り出して、新しい市場を作る

の3つ。この3つが一挙に実現した。

なんと、呉服店の得意先だった武家も買いに来きた。武士も家計は苦しかったのであろう。


従来の具服店が見向きもしなかった一般庶民も買いに来た。

業界の常識に頑迷な競合他店では思いもよらなかった売り方が奏功した。

千客万来。ごった返す店内で、嬉しい悲鳴をあげている高平氏をよそに、私は一般庶民という新しい顧客層の調査を続けた。

リサーチから得られた情報を作戦化し、決定権のある高平氏へフィードバックした。

安く買いたいという声があれば、バーゲンセールを開催した。

バーゲンセールを開催するため、生産者から直接買い付け、安値で売る仕組みを作った。

その場で仕立ててほしいという声があれば、その場で仕立てた。

仕立てるために、店内の分業体制を整えた。

商品の説明が分りにくいという声があればPOPを付けた。


商品知識を高めるための従業員教育にも力を入れた。

みるみるうちに従業員が増えた。手代(正社員)45人、丁稚(バイト)23人の70人にまで膨らんだ。次男の高富氏と、三男の高治氏も手伝いに上京してきた。

エクスターナルのみならず、インターナル・マーケティングでは、報奨金制度を設け、売れた分だけ給金を上乗せして還元した。

これが後に功を奏し、同業他店から引き抜き工作があったとき、誰一人として辞める従業員がいなかった。

薄給で酷使されている他店舗の従業員の中には、内部の悪行を奉行所へリークする従業員もいたが(そのためかどうか、大坂の淀屋は、幕府に潰されたが)、

お店を庇う(かばう)従業員はいても、陰口を叩く従業員は皆無に等しかった。


従業員の給金の一部を店が預かり、元本を保証した上で運用し、増やして返す制度も好評を得た。

社訓も作った。賭け事、カネの貸し借り、喧嘩、遊女買いを厳しく禁じた。

そうして私は、得意のマーケティングを駆使して、高平氏へ提案し続けた。

マーケティングは、知っているかどうか?が問題ではなく、布袋さまのように駆使できるかどうかに価値があろう。

シーン11/11■ 商売は、巡り巡って己が為

その間、松坂の布袋さまは、京都へ本拠を移していた。

江戸で成功した商法を応用して、京都でも呉服商を成功させ、大坂にも支店を開いていた。

(明治新政府が大 阪 に統一するまでの江戸時代には、大 坂 もよく使われていた)

三大都市である江戸、京都、大坂の各呉服店の隣で両替商も営み、江戸と大坂の間を流通する為替を扱った。

為替といっても紙きれ一枚で、天下の台所と称された大坂に集まる諸国の米を銭に変え、その銭を、為替という一枚の紙切れに記録して、江戸へ送る。

江戸の両替商では、手数料15%前後をとって、為替を銭に変える。この両替で布袋さまは巨利を得た。


銭という重い荷物の輸送費や警備費が発生しない為替の仕組みは、幕府、大名、商人から支持を得た。

誰より支持されたのは、東海道沿いの農工民であった。重い荷物が街道を通るたび、無料で使役に賦さなければならなかったからである。

一連のコンサルティングを通じて私は、

「呉服を売ったってダメやに」

という布袋さまの言葉の意味が痛いほどに理解できた。

情けは人の為ならず 巡り巡って己が為

儲かる商売を探すのではなく、誰かの便益になる何かを探し、それを求める人の便益を高めることが商売であると布袋さまは言いたかったのであろう。

布袋さまこと、三井高利が作った越後屋は、三越となって今へ至る。両替商は三井銀行の前身となった。


記録によると、三井家の初代当主は、長男の高平氏になっている。

これは、三井高利が江戸へ出ず、高平氏が、江戸店の主人だったためであろう。

江戸時代より現代へ戻った私の三井銀行の口座には、コンサルティングフィー8125両が振り込まれていた。

三井高利が一代で築いた総資産の1/10にあたる。きっと、億単位の巨額になるだろう。私は、

「両ではなく、円に換算してほしい」

と、三井銀行の窓口へ申し出た。


すると、支店長曰く、現在のATMに、両なる通貨を打刻する機能はなく、円の間違いだろうということで、8125円に修正されてしまった。

抗ったところで、350年前の江戸時代で、マーケティングをコンサルティングしてきた話など、誰も耳を貸すまい。

本来であれば、億単位の現金が金庫から出てくるはずなのに、八枚の千円札と、数枚の硬貨が、丸いトレイの上に載っていた。

これでは、両替商の三井、もとい、三井銀行、丸儲けである。

「三井高利は、そこまで(350年後の利益まで)見通していたのかも」

私は、苦笑いしながら、三井銀行を後にした。

                  【完】


(筆者より)
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三井高利のマーケティングへ続く
https://note.com/tanaka4040/n/nff80b2b6f136

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