「文芸科にすすんで」 蒼生 1985.3

 わたしが学生だったときは、三年から専攻別クラスになった。べつに小説を書くつもりもなく、語学の成績が悪いので、仏文や英文はムリだしなあと、軽い気持で文芸科にすすんだ。

 はじめて小説を書いたのは、三年前期のレポートとして小説を書くようにと、平岡先生のゼミで課題がでたときだ。わたしが書いたのは、十五枚足らずの、小説というよりは作文のようなものだった。「レポート」提出後、先生が、「あまりに雑に書いているので、点をあげられない人が多い。心配なひとはききにくるように」とおっしゃったときは、すぐ、ききにいった。なにしろ、わたしは、小学校以来、作文をほめられたことは、いちどもなかったのだから。先生が、「きみのはなかなかよかったよ」とおっしゃったときは、ホッとした。

 二作目に、やはりレポートとして書いた小説が、「アルファを読んで」だった。一作目は、作文らしく、すこしはまとまっていたが、こんどのは、主人公が、最後、温泉でクロールで泳ぎだしてしまうようなハナシなので、書いた本人は気にいっていたのだが、まったく、自信はなかった。思いがけず、「アルファを読んで」が「蒼生」にのり、はじめて自分の書いたものが活字になったときは、ほんとうにうれしかった。

 四年の駒田先生のゼミで、皆の書いたものをコピーをとって読み、批評しあったのも、たのしかった。わたしは、ある作品について、「この女性には、まったく存在感がない、軽すぎる」と、だれかがいえば、「あら、彼女、身重なんだから、じゅうぶん重いわよ」とか、笑うひとはいても、感心するひとはだれもいないようなことばかり、いっていた。わたしの評論は、大学生のレベルまで達していなかったので、調べて書くレポートは、まったくダメだった。そのなかで、唯一、なんとかなったのが、小説だった。文芸科にすすんでいて、よかった。

 平岡先生も、駒田先生も、具体的な小説の書き方は、なにも教えてくれなかった。もちろん、小説なんて、ひとに教えてもらえるものでもないだろう。でも、文芸科にいて、レポートとして書きなさいといわれれば、つぎからつぎへと書けた。もっとも、わたしの書くものは、いつも短く、卒論は、女子大生が、つぎつぎと、四人もの男とつきあうハナシにして、やっと、六十八枚だった。

 父が物書きなので、もともと小説なんて、たいしたものだと思ってなくて、「小説を書いてやるぞ」とか、「小説家になりたい」とか、意気ごまずに書いたのがよかったのかもしれない。わたしは、カンタンに、本を出してしまった。最初は「蒼生」、つぎが「早稲田文学」、これで満足と思っていたら、「早稲田文学」の編集長に講談社のひとを紹介してもらい、大学時代に書いたものをまとめて、本にすることになった。

 卒業後勤めていた西武百貨店をやめ、本のお金で、シベリア鉄道に乗って旅に出た。四ヶ月後にもどって、お金も仕事もなくブラブラしていたら、講談社のひとに、その旅のことを書かないかとすすめられ、またも、本を出してもらった。こんなにボヤッとしたまま、二冊も本を出せたのは、文芸科にいたからだろう。文芸科にいなければ、小説を書かなかったし、講談社のひとにも会っていない。

 もともと、書かずにいられないなにかもなく、はじめたので、書きつづけていく自信はまったくなかった。それでも文芸科にいるうちは書けたのだが、卒業後は、ほとんど小説を書いていない。今だに、卒論の六十八枚が、わたしの最長記録だ。そろそろ、何かを書かなくては、と、あせってみても、なにも浮かんでこないんだから、しょうがない。なんの欲も、もたず、ただのレポートとして小説を書いていたのが、わたしにとっていちばん、いいころだったのだろう。




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