「大事にしているものが違う」映画『愛にイナズマ』に寄せて。

『愛にイナズマ』。デビューに燃える新人映画監督の折村花子(松岡茉優)は、志半ばでプロデューサーに騙され、全てを失う。そんな折出会ったひとりの男(窪田正孝)と共に、どん底から再起を図るため、音信不通となっている家族と再び会い、作品におさめることを決意するーー。

多くの作りてが大なり小なり考えるであろう、「己の表現」というものについての切実な叫びを、松岡茉優さんがまさに「切実」としか言いようのない芝居でひたすら押し出ししてくる作品だった。

遠く及ばないけれど私もごくたまに「エッセイを書いてください」と言われることがあって、依頼書には「貴方らしい言葉で、貴方の考えをお願いします!」と書かれていても、提出したエッセイの赤字で「これはおかしいのでは?」と、考え方そのものについてのコメントが入っていたり、私が普段使わない言い回しや言葉選びで自分の書いた文章に赤字修正が入る時、己の無力を感じることがある。
そう、「無力」という言葉がすごくしっくりくる。もっと文章が上手ければ、もっと交渉が上手ければ、といった具合に。これが加速すれば、簡単にこの感情は失意や、絶望へと出世していく。しかもエネルギーが大きければ大きいほど、その爆弾はとんでもない火力を含んでしまうのではないか。


普段、クライアントワークや他の人の言葉を記事にするインタビューの仕事の時には良い意味で極力「こだわらない」ようにしている。他人が用意してくれた場所で他人の考えや他人の言葉をパズルする作業で、パズルのピースそのものに対して「ここが突起になっているのは気に食わない」とそこを切り落としたりしたらパズルが完成しないのと同じように、私が「切り落としたほうがいいのでは?」と思ったとしても、それはやらずに嘘をつかないほうが結果的によくなることもたくさんあるから。でもだからこそ、たまに起きる、私のパズルの突起を切り落とされるような瞬間に、その痛みに叫びだしそうになる。世の中の、パフォーマーや、クリエーター、アーティストたちがこんな痛みを"持病"に生きていかねばならないのだとしたら。作品の中の花子のもがきや苦しみは、限りなくノンフィクションに近い。ぜひ、その痛さを体感してほしい。

そして、松岡茉優さん演じる若手映画監督の花子がプロデューサーとの齟齬で失意にくれた時に言ったセリフ「この人たちとは大事にしているものが違うから仕方がない」。私はかつて、この言葉をマネージャーとして担当のアーティストから聞いたことがある。クリエーターの個性や魅力、ある意味での欠点……つまりパズルの凸凹の部分を簡単に滑らかにしてしまえる人たちが、ものづくりの世界にいるという悲しい事実にやられてしまった時、彼らはどんなふうに諦めればいいのだろう。「大事にしているものが違うから仕方がない」こんなにも絶望的な諦めの言葉があっていいのか。本当はそう言わせた当人たちにカウンターパンチのように突きつけたかったけれどできなかった、その無念の日々を思い、更に胸が締め付けられた。

この作品は、石井裕也監督や出演者、作品に関わるものづくりの人たちからの祈りが込められた映画だと感じる。ただしその祈りは、バカバカしくて、生々しくて、時にめちゃくちゃで。だからこそ、きっとものすごく響くと思う。


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