見出し画像

ゆこう。さざ波の彼方へ。


 シワができた。目尻に。カラスの足跡ってやつだ。

 アトピー歴=年齢なので肌はとても弱く薄い。乾燥肌なので、全身さざ波が寄っている。そこへ、このたび鮮やかに、高らかに、厳然と刻み付けられた目尻のシワ。

 原因はわかっている。

 昨年春から新型コロナウイルスが世界中を席巻し、感染対策のために人と接するには常時マスクをするようになった。わたしは医療従事者、内科医であるがもともとそんなにマスクをする方ではない。インフルエンザが大流行りする冬の時期だけ、イヤイヤつける程度だった。なんでかというと、マスクは不自由なのだ。

 表情が見えなくなる。
 声がこもって伝わりにくくなる。

 当院は地域の方が主に利用される小さなクリニックで、患者さんはお年寄りがほとんどだ。お年寄りは総じて耳が遠い。そして補聴器を嫌う。ハッキリ言って誰もしていない。「買ったけどやめた」と言う人もいれば、「どこか行った、もう出てこない」と言う人までいる。雑音まで緻密に拾って耳に届ける機械は、不快なモノらしい。生身の耳という感覚器の優秀なことを知る。聞きたい音声だけを抜き取って、脳みそに届けてくれるのだ。機械では代われないものなのだ。すごい、耳。さて、そんな年季の入った耳には低めでクリアな大きい音声はもちろん、しゃべっている口元が見えるのも大事だ。マスクはこれを全部打ち消してしまうので困る。
 ついでに、話す者の表情も消す。診察に当たる内科医というのは、正直厳しいことばっかり言わねばならないのだ。食べすぎるな、歩け、薬飲め、血を取らせろ。マスクで覆われた能面に言われたらどうだろう。心が萎えたり、拒否したくなったりしやしないか。わたしはそうでなくても性格が苛烈だ。「女医さんは優しい」って妄想の産物ですよ。「ああ、おんなのせんせいでよかった」と言われるたびに、言い知れない罪悪感を抱いておる。

 そこで「とにかく目で笑おう」と思った。目をぎゅっと細め…いやこれだけでは足りないな。顔全体で笑わねば、笑顔は伝わらない。口角を上げ、ほおを持ち上げて、そして目を思いっきり細める、ほとんどつぶる。そうして、マスクでほとんど見えないけれども渾身の笑顔をこしらえて「いくら美味しくっても梅干や干物は血圧が上がりますからねー、控えていただかなくちゃ」と言う。

 これをまる一年やった、毎日やった。そりゃ、シワになるわ。

 わたしの母はもうじき80になるが、その目尻にシワがないのが父の自慢である。娘にはその体質が遺伝しなかったようだ。でもいいさ、シワはわたしが一生懸命仕事した印なんだから。

 ワクチンの接種が進み始めた。近い将来このマスクも外せる日が来る。そうなったらわたしはマスクを外し、1年間鍛えた笑顔とシワを心置きなく披露しよう。もともとあって、さらに深くハッキリなったゴルゴラインやら眉間のアレやらもいっしょに。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?