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僕の心のヤバイやつ コラム:静と動としてみる市川京太郎と山田杏奈

Karte.63であまりにも感情が昂ってしまった筆者。

Karte.57から思っていたことが抑えきれなくなり、わざわざ記事を晒す。

いままでよりもより駄文感が高まっております。

美しいジャズを聴きながら、心穏やかにご一読いただければ幸いです。


さて、自分でも本当に不思議な感想と思えるのですが、京ちゃんと山田の関係は、男女の別という視点でとらえるよりも、京太郎の"母性的(父性的)な包容力”『=静』と、山田の"リビドー(愛と飢え)"『=動』という観点で見つめると、腑に落ちるところがあるのです(まあ、"性衝動"が作中で表層化しているのは京ちゃんな訳ですが)。


"ふたりの性格を比較して考える"

京太郎は、自意識が強く、また、自己評価が引くことから、現状を見ることが出来ていない訳ですが、山田も"挫折"を繰り返してきて、自分が支えられてきていると知りつつも、それがコンプレックスになっていた。

京太郎は自分が"異端"であると思い、その異常性が、社会で視認されないよう"隠れて"過ごしてきた。

(この切っ掛けが、おそらく受験での"挫折"だったのでしょうか)

山田は自分が"不出来"だと思い、その評価を覆し、他者から認められるため、自分を"磨いて"過ごしてきた。

(山田が自分の容姿に自信と拘りを持つのは、たぶん、ここに由来するのではないでしょうか)

Karte63では、この山田の"挫折"にまつわるエピソードがつまびらかになり、彼女の人格に触れることが出来るようなったように思えます。

山田は、何をしても"できない"自分が、輝き、認められる場所が"モデル"といった芸能の道であると決め、そこを邁進している途中なのです。

そうすると、自身を磨いてきた山田の表層面だけを持て囃す男ではなく、彼女の、ユーモラスな、ドジな一面も含めて、その内面に触れ、包み込む京太郎の"愛"は、山田にとってあまりにもかけがえのないものではないでしょうか。


"素をさらけ出すふたり"

もちろん、両親や友人からも親しまれてきた"素の山田"ですが、そんな自分のことを知りながらも、影ながら支えてくれ、変わらず"献身"を尽くす京太郎は、あまりにも魅力的なのでしょう。

こうした背景を踏まえると、ドジを踏む自分に落ち込んでしまった山田のあの反応にも、納得がいきます。いままでの市川の"献身"に応えようと、必死に奉仕しようとするも、不器用に失敗を繰り返す自身に失望してしまうのは、実に自然なことでしょう。

きっと、彼女のこころには、今までの失敗や挫折が思い起こされて、他者への甘えで"支えられてきた"のだと、自分から自分に、痛烈に突きつけられてしまったのだと思います。

その、不器用な自分、他者に追い抜かれ、置いてかれてしまい、傷つく自分をも認め、"素の山田"の素晴らしさを讃え、向上心を鼓舞し、励ましてくれる存在が、京太郎なのです。

京太郎は、Karte.57で自分の弱さを告白しています。しかも、Karte.63では、図書館を避けた自分についても(問われた結果とはいえ)告白しているのです。

この二人は、ことここにいたり、自分たちが何を"思って"、何を"成したい"のか、他者から見ればあまりにも痛々しく、そして、とても美しく純粋に解り合おうとしているのです。


"違いを認め合うこと"

先に述べたように、静と動の関係である京太郎と山田の二人は、一見すると対照的に見えます。

もちろん、"擦れ違い"が持ち味の桜井のりお劇場『僕の心のヤバイやつ』、二人が綺麗にかみ合ってるとはとても言えません。ですが、この両人の素晴らしさは、山田が、京太郎の静かな献身、その愛と優しさ(包容力)を認め、京太郎が、山田のタフな向上心、素朴さ、ユーモラスな素を認めているという、"違うからこそ愛おしい"という関係を築けていることなのだと思います。

これから、二人は、"違い"を認めながらも、擦れ違いや逢瀬を重ねて、より確かな絆を築いてゆくのだと思います。

これって、下手な大人よりも、全然高度なコミュニケーションが成立しているのだと思うのですが、どうなのでしょうか。

ちなみに、私には二人を(ラブコメという点を除いても)とても望ましい関係であると思います。


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