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それなりに英語が話せて海外で働いていた自分の勉強法

自分は英語がそれなりに話せる。それなりに、というのは非英語圏で「英語で話して法人を設立」できて「英語で話して銀行で法人口座を取得」できて「日本語がまったくわからない外国人の異性と交際する」レベルだと思ってほしい。ペラペラからは程遠いがコミュニケーションに特に難がない。
普段教えている専門学校で海外で働きたいという生徒がいたので「自分はどうしたんだっけ」と思い出しながら書いてみようと思う。

結論から書くと「めちゃくちゃ書いて読んで単語を覚え」「一人で海外を歩いて話せる」ようになった。かなり非効率的だったと感じる。
最近また改めて外国語を学びたい欲がむくむくと育ってきたので、次はもう少し効率を意識して学んでみたいと思っている。

高校時代の英語学習法

時は遡って高校時代の話から始めよう。
今から20年ほど昔だ。(もうそんなに年を取ったのか…)

中学時代から勉強は万遍なくこなしてきたタイプだが、大きな変革期は自分の高校に留学してきたアメリカ人・サラの存在だ。
彼女と話してみたくて話しかけてみたが、まるで通じなかった。英語は常に評定5をもらっている自分は調子に乗っていたのにも関わらず、まったく通じなかったのだ。非常に辛い思い出だ。

受験期に入るとき、入試で英語の論文があったため(推薦だったのだ)英語はしっかり勉強した。
単語はA4のルーズリーフにDuoの例文を何百枚も書いて覚えた。途中から書くのがめんどくなったので何十周もDuoを読み続けた。このときに発音記号を読めるようになったので発音の矯正も同時に進行した。
加えて村上春樹大好きっ子だったので、村上春樹作品のペーパーバックを買って読んでいた。日本語と表現の仕方に差があってけっこう楽しかった。

高校1年生だか2年生のときに英検2級だけ取得したが、特に何も考えずにそのまま大学に入学した。

周りに外国人ばかりの大学時代

自分は筑波大学人文文化学群比較文化学類という学科に入ったのだが、筑波大学には中学・高校と同じく「クラス制度」があった。
うちの学科のクラスには必ず1名は「外国人枠」があり、自分のクラスにはコロンビアからの留学生・ラウラがいた。(英語呼びだとローラだが、本人の意向でラウラと呼んでいた)

ラウラはアコースティックギターが好きで、自分はたまたま一瞬だけフォルクローレをやっていたため、授業外でもたまに話をしていた。さらにラウラの友人であり、好きで取っていたバスケの授業に出ていたペルー人たちとも仲良くなった。
第二外国語でスペイン語を勉強していたので、当時は英語とスペイン語でなんとかコミュニケーションを取ろうとしていた。もちろん流暢に話せなかったのでところどころわからんかった。

ペルー人の謎パーティに呼ばれたり、バスケの授業で知り合ったセルビア人のジョンと「アメリカ文化は存在するか」という議論をしたり、台湾人留学生の李さんと狭い大学の寮で真夏のキムチ鍋パーティーをしたりと、周りに外国人が多い生活を過ごせていた。
それなのに一向に英語は話せるようにならなかったのだ。不思議。

大学一年生のときに一度だけTOEICを受けてスコア770を取ったが、それ以降は今に至るまで一度も受けていない。Toefl iBTも一度受けてスコア62だったことは覚えている。

大学2~3年次はバイトと授業で忙しくてまともに英語を勉強していなかった。ただし、東京で知り合った中国人から「一緒にハワイで暮らそう」と誘われたり、デンマーク人やフランス人の友人ができたりはした。

そしてシンガポールへ

大学卒業後、都内のIT企業で正社員として働いていた。近所のボロいバーで飲んだり、自主制作映画を作ったりと英語と触れ合う機会はほぼ皆無。
そんな中で突如知り合いにシンガポールに誘われた。さらにそのままマレーシアで働くことになった。
これが自分が「英語を話せる」ようになった転機だったと言える。

まずシンガポールからマレーシアに向かう際、荷物が少なすぎて国境の謎施設で止められた。(基本的に現地調達していたせいだ)
知り合いが悠々と国境を越える中、自分だけ別室送りだ。そこでシンガポール訛の英語(シングリッシュ)で詰問されるわけだが、まず聞き取れない。ついでに自分の言葉もあまり伝わっていない。一瞬だけ"Police"がどうちゃらこうちゃら言ってるのが聞こえた。「あれ、これ警察呼ばれんじゃね?」って思った瞬間に覚醒した。

なぜかそこから一生懸命全力でゆっくりでそれっぽい発音でそれっぽい言葉をつなげたら伝わったのだ。
「マレーシアに友だちがいてそこに宿泊するから荷物が少ないだけだ。ついでに貧乏だからそもそもあんま持ち物がない」
みたいなことを伝えた。我ながら必死だ。
そして結局その後は「シンガポールで何を食べたか」とか聞かれ、現地で働く人向けの安い食堂でご飯を食べていた話をしたらめちゃくちゃ笑われて許された。

マレーシアを見た後は一度帰国し、二週間で身の回りをキレイにしてマレーシアで働き始めた。
マレーシアでもいろいろあったが、そこまで多く英語を話す機会があったわけではないので割愛。

フィリピンへ

一時的にフィリピンのセブ島でも時間を過ごした。
このとき、完全にスラム街っぽいところへ迷い込んだり、乗合のトラックに乗せてもらったり、裸足の子どもとバスケをしたり、現地でできた友人とローカル飲み屋で遊んだり、無人島行ったりしたおかげで英語によるコミュニケーション力は爆上がりすることとなった。

帰国してからはカナダ人と交際したり、ハワイ出身の日系人と哲学について話し合ったり、なかなかに英語を話す機会に恵まれた。
もうこのあたりから「言いたいことが伝えられて、言われたことが理解できる」になっていた。めまぐるしく変わる生活の中で生き抜くために英語を身に着けたのだった。

そしてバックパッカーへ

当時、いろいろな想いがあってリュック一つで東欧へ出かけた。
パソコンと少しの着替え以外は何も持っていなかった。最初はトルコのイスタンブールから。

トルコではめちゃくちゃ英語がうまいイケメントルコ人に騙されて危ない目にあったり、逆に強面なのにスーパー優しい旅行業者経営者にビールもらったり(彼はラマダンのおかげで飲めなかった)、猫にサバサンド盗まれそうになったりいろいろあった。

イスタンブールの寝台列車が故障中で長距離バスに乗ったら、大学で哲学を教えているデンマーク人と仲良くなって儒教について話し合ったりしていた。そしてブルガリアのソフィアについて、ブルガリア人は英語話せない人が多いことを知った。
安宿でアメリカ人のおっちゃんが日本で初めて見た自販機の話をしたがるのがめんどくて(何度も同じ話するタイプ)、とにかくソフィアでは散歩しまくった。でかくて雑なハンバーガー食べたり、人生で初めてのスターバックスへ行ったり、旧ソ連の式典を見たりしていた。

その後、セルビアのベオグラードへ。早朝に到着したら街に人がおらず、たまたま歩いていたそばかすが素敵なお姉さんに話しかけたらきれいな英語で道を教えてくれた。
子猫のトーマスを飼う両親を亡くしたイケメンお兄さんが運営する安宿ではアイルランド人女子大生とおしゃべりしたり、お兄さんの友だちも含めてペットボトルのビール(ぬるい)を飲みながらサッカーをしたり、近所のおっちゃんのテレビを運ぶの手伝ったら謎の酒飲まされたり、ここでもいろんな出会いがあった。

続くハンガリーではすれ違い様に「Chinese!」とかいろいろ言われたり、温泉で同性愛者のおっちゃんに追いかけられたりしたが、日本語が少しわかる優しいおばあちゃんの家に滞在して比較的平和だった。毎日ドナウ川を眺め、静かに過ごしていた。

そしてチェコ・プラハに滞在したのだがここは割愛。とにかく美しい街で美しい思い出を携えて、日本でトラブルが起きたので帰国することとなった。

ベトナムへ

しばらくは日本にいて、途中でアメリカ人・イギリス人と暮らしたり、アメリカ人と交際したりしたのだが、最終的にゴールデン街で飲み歩くただの酒くずになった。そして、ある日突然ベトナム行きすることに決めた。
ここで冒頭で語ったように法人を作ったり口座開設をしたりする羽目になったのだ。ついでにベトナム語もそれなりに勉強した。

従業員はベトナム人ばかりだったので、英語とベトナム語と日本語(N1持っている従業員もいたのだ)でコミュニケーションを取り、普段から比較的英語を使う日々に戻った。
このあたりになると、勉強せずとも知らない単語があったら調べるくらいになっていた。それで十分生活していけるし、仕事もできる。

まとめ

なんだか英語勉強法というより海外滞在記みたいになったが、結局のところ「行けばなんとかなる」というのがある。ただし、海外で見た日本人たちは英語が話せない人が多かった。
日本人同士でつるみ続けていたり、そもそも基礎的な英語能力がまったくないパターンもある。それはさすがに意味がないと思っている。多少は基礎的な単語や文法を知識として身につけておかないとアハ体験は生まれない。

もしこれから「英語で仕事できるくらいになりたい」と思う人がいたら、まず基礎的な英語の勉強を愚直にやって、その後「英語が話せなければ脱出できない一人旅」でもやるといい。女性には決して勧めないが、男ならたいていどうにかなるさ。

ここまで書いてわかったけど、この記事あんま役に立たないな。ごめんよ。


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