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2024春アニメ ベストエピソード10選

2024年4月~6月放送の春アニメで良かった話数を選びました。ベストエピソードと書いてますがお気に入り回のことです。

誰かがその回について語っていたら私も語りたくなる10の話数とその感想。



以下の目次に挙げた10作品の内容に記事内で触れています。
一部ネタバレが含まれますのでご注意ください。



変人のサラダボウル 第7話「異世界人の戸籍問題他」

「人種のサラダボウル」のサラダボウル。ザングウィルの戯曲「The Melting Pot」の台詞にある「るつぼ」のような全部溶け合った感じではなく、並立共存状態。

タイトルが人種のパッチワークやモザイクでないのは、サラが皿で、サラを中心にした物語(一つの皿)の上をキャラクターたちが彩っているからでしょう。彩り豊かなサラダのように互いの色合いを引き立たせる関係性が面白い作品だったなぁと思います。

サラと惣助の関係について。毛利探偵事務所と同様、喫茶店の上にある事務所の立地を選び、第4話のハロウィン回でインバネスコートとハンチング帽をちゃっかり所有している事実が判明した惣助は、かつてフィクションで見た理想の探偵になろうと憧れていた存在だったと思います。

でも実際の探偵は真相の解明や難事件の解決からは程遠く、理想だけでは食べていけない現実に、憧れたフィクションがどこまでいってもフィクションでしかなかった(名探偵なんて現実には存在しない)事実を痛感しています(第1話)

惣助とフィクションの距離は遠く、原作だと依頼人との会話を円滑に進めるため流行りものだけは一通りチェックしておくみたいな探偵の仕事内に組み込まれたものになっていました。現実過ぎる現実が全てを飲み込んだ状態。フィクションの延長線上で事務所の立地を決めてみたり、ちょっと探偵っぽい服を買ってみたり、そういう距離感ではなくなっています。

そんな惣助の現実に突然降ってきたキャラクターがフィクションでしかありえない特別性をまとったサラでした。サラはフィクションに憧れる眼差しを探偵事務所内に持ち込みます。図書館に足繁く通い、漫画やアニメやゲームやライトノベルを通してこの世界を知ろうとするサラは、惣助が通ってきた作品にも触れていきます。惣助自身が持っていたであろう憧れの眼差し(理想の探偵像)を獲得していくサラ。真っすぐなサラの姿に惣助が"子供"を見ているのは面白い関係性です。

惣助が現実以外の何物でもないと認識しているこの世界を異世界と捉えるサラにとって《門》をくぐったこちらの世界の方がよっぽどフィクションで、惣助の言う探偵の理想と現実みたいなものは、あまりピンとこない区分けだったと思います。サラはフィクションで吸収した視点で現実の解像度を上げていきます。現実とフィクションがゼロ距離。現実の色んなものをフィクションと重ね合わせてワクワクしています。

現実の探偵の姿にギャップを感じ大手探偵事務所を辞めて独立したものの甘くない現実に少しばかり選択を後悔し始めていた惣助と惣助の現実に改めてフィクションの魅力を持ち込んだサラ。

『せっかく探偵ってかっこいいのーと思っておったのに……』

平坂読『変人のサラダボウル』、小学館

フィクションの探偵を現実に重ね合わせるサラの純粋なつぶやきは、惣助の中に残っていた理想の探偵を追い求める心に直接響きました。サラを通して現実とフィクションの距離が変化した惣助の行動は少しずつ変化していきます。もう一度正義の探偵を目指して頑張ってみるのも良いかもしれないと。

倫理に反するものは子供に見せられないと仕事からサラを遠ざけたり、惣助が子供の頃に乗っていたスケボーを教えたり、岐阜で義父な展開を描写しつつサラが魅力的な子供として描かれていきます。住んでいる国が亡びたヘビーな過去を持っていても新しい世界で楽しく暮らしていこうとするサラの姿は惣助の目に眩しく映ります。

サラが純粋な子供枠に収まる(惣助を奮起させることだけに寄与する都合の良い)キャラクターだったかというとそうではなく、一人の魅力的な異世界人として描かれてくところも本作の面白いポイントでした。

転売の一件(第5話)でリヴィアをたしなめるオフィム帝国最後の皇女の顔。主を迎えるための居場所を用意しようと奔走(迷走)するリヴィアは既にサラが居場所を作っていたことに驚きます(第2話)

岐阜の喫茶店のモーニングでカラオケを披露するサラは店にいた人たちみんなを笑顔にし、バンド解散で落ち込んでいたプリケツに歌うことの楽しさを思い起こさせました(第5話)

第4話の友奈パートが印象的です。友奈の本棚には最近の流行りものがなく、流行りものが守備範囲の惣助にとってはかなりイレギュラーなパターンでしたが、サラは共通の話題を見つけると友奈の懐に入っていきます。一見子供ならではの垣根のなさで打ち解けるシーンに見えるのですが、長年探偵をやってきた惣助よりも先に他人と打ち解けていく探偵スキルの高さが描写されていたと感じます。子供でもあり相棒でもあるサラの魅力が同居したシーンでした。

相棒であるサラの有能さが描かれる第4話のハロウィンパートではサラの住んでいた世界について惣助の推理が披露されます。その推理を披露するよう促したのがサラでした。

「合っとるんじゃが、こういうときはどうやってその答えに行き着いたかをちゃんと説明するのが、探偵の流儀というもんじゃろう」

平坂読『変人のサラダボウル』、小学館

原作でサラが惣助に花を持たせるシーンです。第4話では二人の探偵スキルがそれとなく対等に描かれていたと思います。

そもそもサラは惣助と対等な相棒であることを望み、惣助にとっての他者であろうとするキャラクターでした。第7話で戸籍をどう取得するかが問題になったとき、危険をおかしてまで戸籍を取る義理はないとサラは惣助に告げ、自分が他人であることを強調します。子供としてサラを見ていた惣助がサラに他者として見られている構図の反転は、尾行している自分も尾行されていた第1話のエピソードを連想します。尾行する惣助を尾行するようにして同じものを見ようと望んだサラ。

理想と現実を区切った惣助の日常に魅力的なフィクションを持ち込んだサラが、異世界から来て偶然一緒に住むことになった魅力的な異世界人(他者)として惣助と対等な関係を紡いでいくのは本作の一貫した描写でした。

ただの純粋な子供ではなく、互いに視線を注ぐ対等な関係性の中に他者であるサラを描いた上で二人が第7話のラストで提示された父と子の新たな関係に進んでいく展開は、だからこそ心動かされるものがあります。

第7話のコンテも魅力的でした。上に書いたように、対等な関係でありながらどこか親子のような関係でもあるのは、炬燵で向き合ったときのカメラの横移動とか、ブレンダとの面談シーンでの横並びとか、車内でサラが助手席に座ったり、後部座席から身を乗り出したりする絵など様々なカットで、どちらの関係性の印象もコントロールされていたように感じました。

サラが助手席に座っているシーンでは、上記のサラが他人であることを強調する対等な関係が台詞でも語られています。マルタイの父親である男を尾行するシーンでは、サラが後部座席から身を乗り出す絵が使われていました。車内のシーンを比較するとその印象の違いがよく分かります。

シナリオの緩やかな繋がりも面白かったです。サラと友奈の馬の話はそのまま後半の競馬に繋がりますし、マルタイ(父親)が実際にはどのようなものであるかを二人が見極める話や幸せとは何であるかの炬燵の会話はそのままラストの流れに結びつきます。見ている自分が見られている構図の反転はマルタイがサラと惣助を父子と認識していたオチで描かれていました。親から子への教えが馬券の説明で描かれていたのは笑ってしまったシーン。

フィクションの存在を通して子供と同じ視線に立つテーマは、息子がプレイしていた競馬のゲームを通して、現実を別様に見るようになったマルタイの姿とも重なり、競馬場で再びサラと横並びになった惣助は、かつて父に連れられてきた時とおそらく同じような熱狂(子供の視線)でサラと同じものを見て一喜一憂していました。

第7話で、着実に対等な関係を進めていく惣助とサラと対置されてその魅力が描かれているのがブレンダと閨です。ブレンダは推しである惣助に間接的に貢ぎ、閨は唯一魅了できない惣助を落とそうと狙いを定めているキャラクターでした。共通するのは両者とも別れさせるのが得意でも付き合うのは苦手なところ。別れさせることに固執するのは距離を詰められないでいることの代償行為にも思えてきます。お互いに惣助を狙っていることを知りません。

どちらも惣助との距離感は五十歩百歩なのですが、ブレンダは狙った相手との距離を縮めるのが上手い閨に一目置いていてその手法を知りたいと感じています。互いに差を感じつつ同じように惣助との距離を縮められないでいる二人。

お城との関係を堅実に築き上げている盾山がそんな同類である二人を見守る図。原作を読んでいるとき、盾山はブレンダの後ろに控えているイメージを持っていたのですが、惣助とサラの背後に立ちブレンダの反応を真正面から捉える位置に描かれていたのは面白い絵でした(サブタイトルがでるところのカットです)盾山はブレンダの願望を見透かしつつ見守っているキャラクターですからね。

他人の子供前提で話を進めるブレンダに惣助の子供である可能性をほのめかして詰め寄っていく盾山。その後、調査方法(惣助に間接的に貢ぐための仕組み)に疑問を持つ依頼人に対して最もらしい言葉で説明するブレンダのシーンに、ブレンダの様子を見ている盾山の絵が挟まるのは巧みなカットだったと思います。素直になれないブレンダがこれまであれこれ理屈をつけながら惣助を推してきた不器用な姿を一番理解しているのが盾山でした。

境遇であったり願望であったり、色々なものが同居する自分にとって、他者は様々な距離感をもって迫ってくる存在であると思います。思っているよりも近かったりそうでもなかったり。絶妙に混ざり合わない本作のキャラクターたちが、そういう距離感を各々のストーリーの上で生きているのが何か良いなぁと感じます。互いの色合いを引き立たせてます。

互いの立ち位置やテーマを変えながら続けていく喧嘩に二人の関係性の未来を歌ったEDもまた味わい深いです。

全編にわたって職人技というか、これがベテランの方が描かれたコンテなのかなと素人ながら感じる面白い魅せ方が際立つ作品でした(春だとこのすばとかもコンテすごいなぁと感じた作品)作画がすごい動く作品も魅力なのですが「このカット、色んなもの表してる」絵もアニメ好きはよく観ていて、どちらの方向性の作品も同じくらい好きなのですよね。

ここぞというカットの絵も非常に魅力的です。お気に入りのひとつが第6話でリヴィアが望愛の金で食べている岐阜タンメンのスープを味わいながら伏せた目をじわりと開いていく一連のカット。あと第4話で惣助が信長像に会釈するところが好き。終末トレイン第3話でマツタケイコに感謝を伝える晶のシーンもそうなのですが観ていてこのキャラクター「ほんと良い人だな」としみじみしてしまうカットって何か好きです。

リヴィアといえば、ホームレス鈴木も現実過ぎる現実で、フィクションでしかあり得ない特別性をまとまったリヴィアと出会い、その人生を大きく変えていく存在であったなぁと思い出します。あの本はぜひ読んでみたいのですよね。現実をサブリミナルしてた望愛に遅れて突き付けられた現実過ぎる現実。ブレンダとの関係性が描かれていく第4巻はすごく面白いのでアニメで続き観たいです。


ダンジョン飯 第18話「シェイプシフター」

人の記憶(思考)を読んで幻をみせるシェイプシフターが、仲間の姿を真似てパーティーに紛れ込みます。4人それぞれが仲間の幻覚を生み出しているので計16人。その中から本物の仲間と偽物を見分けよう、という回。

これは誰が生み出した幻覚なのか。第一印象や深層心理、誇張された印象や人種の違いなど、これまでの旅で緩やかに形成されてきた、本来外に出ることのない互いへのイメージが流れ出ます。「こんなふうに私のこと見てたんだ……」という失望がパーティー解散に繋がるかもしれないある意味危機的状況です。

ひとつ前の話数で「本気で物事を考えろ」と声を荒げるシュローに対して自分たちがどれだけ本気かを拳で語ったライオスが、次の話数で「じゃあどれが本物の仲間か分かる?」と早速迷宮に試される図。

第7話でカブルーのパーティーと再会したとき、カブルーの顔に見覚えがないと即答したライオスが、亜人種であるコボルトのクロの顔はしっかり覚えていたことから分かるように、魔物全般への尽きない興味と比べて、人間そのものにはあまり興味がない様子。ライオスには魔術より人を見る目をもっと養ってほしいとチルチャックはもらしていました(第15話。パーティー解散の多くは人間関係による)

ライオスの記憶に基づく幻として現れたセンシの兜に穴が無かったり、チルチャックがなぜかマフラーをしていたり、装備品の記憶はかなりあやしいもののライオスが"仲間の顔を意外と覚えていた"のは面白い描写でした。

一方センシのマルシルイメージはエルフへの恐怖が全面に出ており、チルチャックの頭の中のライオスはこれまでのマイナスイメージの蓄積といった趣き。マルシルに至っては、第一印象をかなり引きずっていることが伺えます(本当に成人しているの?チルチャック。これが本当にファリンのお兄さん?)

蓋を開けてみれば、わりとみんな雑なイメージを持っていたことが分かるのですが、対人スキルに難があるライオスがライオスなりに仲間との旅の記憶を覚えていたのは、マルシルに魔術を教わったライオスの生み出した偽マルシルの魔術書がその記述はさておきそれなりに本物っぽく見えることからも分かります。

また、ファリンのためであれば人の形をした亜人由来のものでも食べようとするライオスイメージの偽マルシルの決意が一瞬本物より本物らしく見えるのは、色んな物を食べながら慣れない旅を続けてきた姿をライオスがちゃんと覚えており、側にいて一緒に進んでくれる仲間として記憶するその姿にもマルシルの真実があるからでしょう。

かつて仲間の一人ひとりに感謝の言葉を伝えたライオスは、マルシルが一緒に来ると言ってくれたことが嬉しい、とマルシル本人に言葉を手渡していました(第10話)でもマルシルが何よりも丁寧に扱う髪について誰も覚えていない

チルチャックの記憶のセンシがかなりカッコ良く脚色され、なかなか見分けがつかないのも、センシはカッコ良くてすごいなぁの認識(第4話)をみんなが共有しているからで、そのカッコ良さにはセンシの真の姿が含まれています。

他者イメージにも真の姿が含まれているとなると、本物と偽物の境界は曖昧で区別が難しそうに思えるのですが、チルチャックの記憶から生まれたセンシやマルシルの記憶から生まれたチルチャックが気にとめていなかった魔物との距離間、あるいは本物のマルシルが忘れていた魔物との距離間をライオスが見落とさなかったのは、魔物愛に溢れたライオスだからこそ持てた視点だったと思います。

場の流れを読めず、心の機微に疎いライオスが、興味の尽きない対象を通して他の誰も気づかなかった他者の輪郭を捉えていたのは素敵な描写です(ライオスは魔物の輪郭を捉えて絵を描くのも上手い)第18話冒頭、血の後を追いながらキメラ化したファリンにとってこの通路は狭かっただろうな、この環境は今のファリンには厳しいかもしれないな、と最初に気付いて呟いたのもライオスでした。

パーティーメンバーが魔物の姿となって現れる幻術を前に、仲間の動作だけで誰が誰であるかを見抜いたカブルーは、ミックベル曰く「気味悪いくらい人のこと覚えてる」リーダーでしたが(第14話)人のことをまったく覚えていないライオスもまた、迷宮で魔物に向き合っていく存在としてパーティーのリーダーを務めています。

迷宮に試されたライオスは、ライオスだけが持つ視点でパーティーの仲間の輪郭を捉えて偽物を見破り、本物である証明としてライオスなりに一つの解答を提示しました。

たくさんの人間がいてそれぞれ違った思惑で動いてる、と以前カブルーが島の人間を捉えて言ったように(第14話)行動原理や人種も違えば、互いの印象や記憶も様々なパーティー。同じパーティーリーダーであるライオスがそれぞれのメンバーのことを独自の手法でありながらも、入れ替え不可能な存在として一人ひとり認識しているのはとても良い描写だと思いました。

第2話のナレーションでも肉とパンは互いに入れ替えられないものであると語られています。その際、知識を持ったチルチャックが罠についてセンシに教える姿をしっかりと見ていたのがライオスのキャラクターでした。

ファリンがライオスを助けた"霊"の一件で、村人から疎まれるようになったとき(第11話)ファリンに様々な道を示したのがライオスであったことを思い出します。ライオスの持つ視点が、仲間の呪いのような長年の苦しみを解く突破口になる描写はその後のセンシ回でも描かれていくことになります。その眼差しは唯一無二のもので、カブルーがライオスを迷宮攻略に最も近い存在であると認識している理由でもありました。

センシが過去の鮮烈な記憶を重ね合わせ愛でるアンヌを危険であると即座に断定したライオスは(第7話)パーティーの誰よりも魔物を理解して対峙しています。

ライオスが初めての死を経験した動く鎧とのリベンジマッチで、文献を読み込んでもわからなかった正体を対峙するなかで推理し暴いていく第3話は記憶に新しいです。シェイプシフター戦でも同様に、習性や周囲の環境から組み立てた推理をもとに、敵対する魔物の正体を見極め対抗手段を模索していく一連の描写が面白かったです。

動く鎧回(第3話)でも、ファリンと過ごした子供時代の記憶からヒントを引っ張り出してきたように、シェイプシフター戦でも打開策はその頃の記憶にあって、実家でファリンと過ごした思い出を折に触れて参照する感じが何か好きなのですよね。マルシルがファリンから聞かされていた犬のモノマネのうまさ(第8話)も今回お披露目されました。

記憶をもとにパーティーメンバーを正確に認識し周囲の観察から対峙する魔物の正体を見破る、ライオス的には結構繊細な手順で進めてきたこの話数が、怯んだほうが負けのパワー勝負になだれ込んでいくのには笑いました。

思い返すと、人魚に歌声をかぶせたとき(第7話)やバジリスク戦(第2話)も同様の対処法というか。マルシルが爆発で誤魔化して真似できなかった威嚇(第15話)はライオスの立派なスキルで唯一無二のものでした。

第18話は、本質を明言する意味合いの"喝破する"テーマが文字通り大声で叱りつける(どちらが強いか分からせる)意味になっていく一話かけた言葉遊びみたいなギャグ回だったと思うのですが、それと並行するように一貫してライオスならではの視点や魅力(スキル)が描かれていた話数でもあったと思います。

キメラを描きつつライオスたちとは異なる価値観を持ったキャラクターたちが集結し様々なキメラ的感情を描いた旅の転換点となる第17話がファリンの描写を含めて素晴らしかったのでベストエピソードはどちらにしようか迷ったのですが、新たな階層へ足を踏み入れた再スタートの初っ端で、パーティーを構成する互いの認識やリーダー・ライオスの人物像といったよく考えるとかなり重要な骨子を、前の話数とは異なるコメディのテンションで描いたこの話数もやっぱり作品を魅力的にしている語り口であるなぁと感じたので第18話をベストエピソードとします。

"顔"は関係性の記憶と密接に結び付くものなのですよね。昨日一緒に遊んだ友人が次の日別の顔になって現れると途端に関係性の記憶は抜け落ちて、昨日一緒に遊んだのと同じ人物であるかどうか判別するのは難しくなるのですが、そのあたりを上手く利用して幻術を用いるシェイプシフターは面白い魔物でした。記憶を読み取って顔や形を形成して入れ替わろうとするとき、本人の中の本人にならないのは誰よりも自分の気付かない部分を見ているのが身近な他者であるからなのかなと。

ライオスに指摘されたマルシルが少し遅れて気付く自分自身の不注意さ。一緒に旅を続けたり、他者と会話したりする中で、自分自身思いも寄らない輪郭がふっと立ち上がってくる描写は、例えば仲間に対する不満の言葉を並べていたチルチャックの素直になれない本心をゾン族長の妹のリドがピタリと言い当てたシーンが印象的です(第13話)

リドの第一印象はかなり好戦的で危なそうなイメージを持っていたのですが、話していくとそのキャラクターが見えてきたように、他者との交流を通して芯の部分が垣間見える瞬間がいくつも描かれてきました。

第9話のナマリの描写がお気に入りです。一緒に戦ったりご飯を食べたり、第一印象やマルシルの感じていた悪いイメージが少しずつ修正されていく感じ。ナマリは、父が残した借金以外にも他種族からのドワーフへの心証の悪さや同族からの恨みなど一度定着してしまったイメージを最初から背負わされたキャラクターでした。名誉の回復や許しを求めるナマリの当番回で、自身のイメージの回復というナマリの根本に関わる描写を通して、キャラクターをみせていくのは本作の魅力のひとつだと言えます。

人と敵対する存在であるとライオスが認識する魔物と、魔物愛に溢れるライオス自身との関係性やキメラ化したファリンと向き合わなければならない覚悟といったライオスの根本に関わる部分が今後どのようなアニメーションで表現されるか、第2期を楽しみに待ちたいと思います。

何か鑑賞しながらこれまでの話数のことたくさん思い出したのですよね……シェイプシフターじゃないですが鑑賞記憶をもとに色んなキャラクターイメージを重ね合わせて一話一話観ているのに改めて気付いたというか……当たり前かもですが。すごく楽しかったです。

お気に入りのOP映像。入れ替え不可能な魅力を持ったライオスたちが鍋に入っているのが良いですね。一緒になればより美味しい。パーティー4人で手をつないで一つになっているところ◎ 第18話鑑賞後に改めてOPを観て「やっぱりこの4人のこと好きだなぁ」としみじみ感じました。


転生したら第七王子だったので、気ままに魔術を極めます 第7話「暗殺者たちとバトルします」

第3話のリッチ戦。リッチは冒険者たちの知識や技術をその魂を喰らうことで己の身に取り込んできたわけですが、気術を異国の技術程度にしか捉えていなかったのが何か印象に残ってます。喰ったのにあんまり身になっていないというか。

気術は魔術の下位互換であると考えるリッチは、どちらが上でどちらが下かの判断基準で取り込もうとするもの全ての価値をあらかじめ決定しているキャラクターだったと思います。

何かと何かを重ね合わせたり、何かに別のものを付与したりする思考がない感じ(最高の知識や高等技術が手に入れば一発で勝ちみたいな、ジェイドの能力だけを求めたギザルムに通じるものがあります)リッチは、タオを喰う価値なしと判断し積み上げてきた鍛錬(生涯)をあざ笑います。

一方ロイドは、本で学んだ知識や実戦の観察をもとに気術の真髄がタオの呼吸法にあることを理解し、魔力とは別のエネルギーを用いる気術を魔術に活かせる力と捉えていました。

取り込む前に予め価値を決め、取り込んだものを組み合わせることなく己の力とするファスト魔術な魔人に対して、ロイドは様々なものに価値を見出すキャラクターとして描かれていたと思います。

同じ知識の探求者なのに、ロベルトはきっと落ちてる石ころにだって意味見出すね

転生したら第七王子だったので、気ままに魔術を極めます 第3話
タオの台詞より

金貨より銀貨を欲するロイドが銀貨に見ていたのは魔髄液を構成する銀の価値であり、宝箱の内側より外側に惹かれるロイドが宝箱の外側に見ていたのは粉砕すれば赤魔粉になる魔物の核が持つ価値でした。一見ガラクタに見えるボロナイフも付与魔術の一級の研究材料になるお宝です。

精神を木形代に突っ込まれたグリモが第七王子の日常を体験するシーン(第2話のケーキ食べるところ)で、良いものに囲まれた暮らしを送るロイドの興味が魔術の探求だけに向いているのをつくづく不思議に思いながらもどこかロイドに惹かれているのは、思ってもみなかった様々なものに価値(面白さ)を見出していく姿にグリモ自身楽しさを感じていたからなのかなと想像します。

苦悩だ何だ言ってる奴には誰もついてこねぇんじゃねぇかな。なんでも楽しんでやってる奴と一緒にやるほうが楽しいだろ

転生したら第七王子だったので、気ままに魔術を極めます 第5話
グリモの台詞より

ロイドの一番身近にいて、その凄さを誰よりも知っているのがグリモのキャラクターでした。王位継承に巻き込まれないよう王宮で目立たず日常を送るロイドは、王位には無縁の媚びを売っても何の得もない第七王子と周りからは捉えられていました(第1話)

魔術訓練射撃場の一件とか付与魔術によるアルベルトの近衛兵の武器強化の一幕とかでも、ロイドは周りが想像可能な10歳の子供の枠内でその姿が捉えられていたのですが、そのことにもどかしさというか誰よりも苛立ちを感じていたのが一番の理解者であるグリモだったと思います。

シルファもロイドに剣聖の称号では足りない未来の可能性を見ていますし、アルベルトも王にはとどまらない器の大きさを感じていました。ディアンも魔剣造りを通してロイドに一目置くようになっていきます。

欲求や日々の全てを魔術を極めることに注ぐロイドはグリモが評するように魔術馬鹿なのかもしれませんが、みんながロイドに感じる凄いとか楽しそうとかそういった一つの感情を通して見えてくる多様な輪郭のなかに主人公ロイドの姿が浮かび上がるようで豊かな表現だなぁと感じました。

現実の他者関係にも通ずるものがありますね。好きという一つの窓から眺めたとき、物事ってその奥行であるとか広がりだとかよく見渡せるものです。

ちょっと目を離すとデフォルメ絵になってる表現にも、輪郭をつかまえたかと思えばその腕をするりと抜けていく、いつでもどこでも気ままに魔術を極めにいくロイドならではの自由さの輪郭が描かれているようで魅力的に感じました。どんなシリアスな場面であってもデフォルメ絵を描かずにはおれないところも好き(漫画版の魅力でもあります)

第7話では、魔力の性質が特異なせいで疎まれ蔑まれている"ノロワレ"たちが登場します。周囲に害なす特異体質は自由に制御することができないため、人々からは隠れるように暮らしていました。

他者からどう見られるかのイメージをコントロールできない存在と言い換えるなら、自己の輪郭を強力に規定してしまう蔑称は彼らを縛り付ける鎖であったと思います。そんなノロワレたちのアジトに持ち込まれたのが、様々なものに魔術の可能性を見出すロイドの視線でした。

ノロワレと一括りに扱われてきたガリレアたちは、ロイドとのバトルで一人一人が唯一無二の性質を持ったキャラクターとして描かれていきます。タオやシルファの動きをトレースし、見たことのない特異体質に触れて感銘を受けるロイドは、ガリレアたちにとっても、自分たちを蔑んできた多くの人たちの中で、一括りにできない特異な存在に映っていたかもしれません。

特異な存在であるロイドに触れながら様々な反応をみせるガリレアたち。蔑称が縛り付けてきた鎖を断ち切るようにして一人一人が魅力的なキャラクターとして立ち上がり、自由に動きまわります。そういうことの全てが、魔術愛に溢れたロイドの眼差しを通して"起こっている"のがとても面白かったですね。多様な輪郭のなかで捉えられてきた(愛されてきた)ロイドもまた、魔術愛を通してレンたちを多様な輪郭のなかで捉えています。

日陰を照らす太陽であったジェイドがレンたちのもとから失われたあとに訪れたロイドもレンたちにとってすごく眩しい太陽なのですが、魔術を極めることに極振りしてるロイドが、ガリレアたちの来し方に全然興味ないところ(デフォルメ絵!)も徹底されてて、ちょっと笑ってしまいました。

漫画を読んだときも一つひとつのコマの絵が躍動しててすごいなぁと思った話数。コマとコマの間にある動きへの想像力豊かなアニメーションに感動しました。

レンが着たかった服を手に取り嬉しさとそれを悟られたくない気恥ずかしさとの間で思わずパタパタしてしまうシーンやベタベタに汚れきったパンツをロイドが本当に汚そうに粗雑に扱うカットなど、漫画の魅力的なデフォルメ絵の動きを想像のなかで膨らませていたのですが、その想像をこえて魅力的に動いててすごく良かったです。

あと音楽も魅力でした。例えば、バビロンが「無闇にクネクネしなくなった!」と喜ぶところで流れ始める曲。私はあの曲を便宜的に"陽だまり"と呼称している(サントラ発売されたら本当の曲名を知りたい)のですが、前半バチバチにバトルしてたのが嘘のように後半のみんなで食事展開へと移行していくシーンで漂うように流れていてしみじみ良いなぁと。日常が少し取り戻されたような。レンたちが今いるのは地下であっても、ジェイドの言う"お日様の下で暮らす"ってこういう時間がずっと続くことなのかもしれないと思いましたね。

ロイドを中心にしてみんなが集まった焚き火は、回想のなかでジェイドを中心に身を寄せ合ったときも同じように揺れていて、レンたちを暖かな色あいに染めていました。わずかな登場シーンでも、みんなが引き寄せられたジェイドの魅力が絵から伝わってくる素敵なシーンだったと思います。

ベストエピソードは迷いました。タオが好きなので第3話か、シルファも好きだし第10話にしようか…レン推しではあるので第7話か(ED「ハッピーの秘訣」の三人が好き)

あるいはOPもEDもカットして放送時間目一杯で漫画の人気エピソードを描ききった第8話なのか。暗殺者ギルド編のラストにするべきか。同じ本好きとしてロイドが本の向こうに見ていた風景やジェイドの刺繍含め誰かが書き残したものから見えてくる想いみたいなものには共感しましたし物語の結びがとても良かったので(本のなかには時間が流れていて本を読むことはその時間を生きることである実感)

ロイドの"好き"を通して暗殺者ギルドみんなの輪郭が捉え直されていくこの話数はずっと記憶に残っていましたし暗殺者ギルド編の導入としても魅力的な回だったので色々考えた結果第7話をベストエピソードに選びます。

つむぎ秋田アニメLabは「あにめのたね2021」のインタビュー記事や『龍殺ノ狂骨』で知っていたのですが、EDクレジットを観るのもひとつの楽しみでした。内製やデジタル化、第七王子のアニメーション制作についての書籍とかあれば読んでみたいです(買います)次回作も本当に楽しみ……


忘却バッテリー #11「俺は噓つきだ」

夏の強い日差しの下で響くのはミットの芯で捕球したときに響くキャッチングの音と蝉の鳴き声。人生のほとんどの時間を野球に費やしてきた球児たちの絶望の音は、その空間で響くことなくボードにはただストライクカウントだけが点灯していきます。

答えが突きつけられた瞬間に去来した感情は汗になって流れるばかり。視線の先、雲を背負って立つ圧倒的存在は湿った空気が地上から勢いよく上昇して形作る入道雲のように、一人ひとりの球児たちの前に突如として立ち現れた心象の怪物であったかもしれません。

はげしい雨を降らせるその雲から逃れるようにして球児たちはグラウンドを去っていきました。そこから始まる物語が描かれています。アニメの第1話を観たとき最初のカットから心奪われてしまいました。

心象と結びつく雲の風景はどの話数でも印象的でした。暗雲が立ち込めるときの空模様や雲間から差し込む光。どれだけ逃れようと走っても追いつくようにして流れる雲は、逃れられない野球というものが常に藤堂や千早の心の空に漂っていたこととリンクします。第1話と同様の入道雲が、葉流火と圭から逃げなかった千早たちの視線の先で、別の意味合いをもって浮かんでいるのを観たとき「あぁ……すごいなあ」と感じたのですよね。心象と結びつく風景に詩を感じました。

第2話の藤堂と千早の前にあるフェンス。第6話で圭たちが歩いてくる風景は藤堂が一人走り続けていたのと同じ場所でした。時間だけでなく様々な風景が、野球を続けてきたそれぞれの心象のなかで、その時々によって意味合いや心の距離を表すようにして描かれていきます。千早の壁もそうしたもののひとつでした。

千早にとって憧れのスーパーヒーローや野球は、自らの問いかけの届かない、沈黙の内にあるものだったと思います。千早自身があの日の海で神様に問いかけたように、それらの沈黙を前に野球の価値や自分の存在と対峙することになります。

生まれ持った身体(境遇)を呪うようにしてその形を変えようとした千早は、身体(フィジカル)のある者だけに伸び代があるなら野球を続けるのは無価値だと断定します。その先で巻田にもらした言葉は千早だけでなく、憧れだったスーパーヒーローや巻田も含めて、彼らの努力を無かったことにするように響いてしまいました。

自分自身を呪い続けることでそれにまつまる全てのものが無価値になるのなら…そう思い一度は辞めた野球と再び向き合うきっかけに千早自身の身体の記憶があったのは、感情より先に身体を動かす記憶に野球の楽しさを知っていて、何よりもその身体が野球という技術と理論のスポーツに自分自身で居場所(価値)を見つけていたからだったと思います。

忘れ去りたい過去にあった忘れられない価値を見つけた瞬間。再び野球を始めた千早以外にも同様の記憶があって、もう一度野球と向き合ってきた記憶には、一緒に練習を続けてきた仲間の姿がありました。沈黙を前にし続けながら、野球にまつまるそうした全ての記憶の価値を失わせないように仲間に繋ごうとした千早の打席は、再び立ちふさがった壁が自分自身にとってどのような壁であったかを知るものだったと思います。

千早のなかで圭たちや巻田の過去が、別の意味をもって訪れるところも良かったです。無価値に思えたとき、無価値の引力のようなものがその他の価値を連れ去っていくのは私自身とても実感のあるものです。野球以外のもので時間を埋めようとしたときに出会ったファッションや音楽も今の千早を確かに形作っているもので、そうした一度は辞めた過去の自分を千早自身否定せず(忘れず)今に引き連れているのも何か良いなぁと感じます。

一つひとつの瞬間に抱いた感情や価値を取りこぼさない本作が、山田のモノローグによって支えられた作品であったことも思い出します(作品の正捕手としての山田)言葉にされない想いや後悔、感動を代弁する山田の視線を通してみんなのことを見守ってきたというか。上手く言えないのですが忘れられないアニメになりましたね。

忘れられない背景が描かれた第1話、藤堂と千早が再び音を通して野球と出会った第2話もギャグ含めて好きですし、身体の記憶のなかにある野球や先輩たちとの心の距離を描いた第6話や第7話も藤堂姉妹の描写含めて素晴らしかったのでベストエピソードは悩みました。

第11話は、千早が野球を続けることの価値や自分の存在と向き合うことで壁の向こうにいた仲間の姿を認識していく面白い回でした。空気を変える圭の存在も良かったです。それらが試合を通して描かれていて、とても記憶に残るアニメーションだったので第11話をベストエピソードに選びます。


となりの妖怪さん 第5話

眠っているジローのとなりでごろんと横になった睦実の視線の先には、睦実の知らない遠い過去の記憶や自己犠牲の本質を一人抱えるジローとそんなジローと比べてまだ子供である睦実自身の姿が見えていました。

となりの席のりょうが消しゴムを拾って手渡そうとしてくれたときに恥ずかしさでりょうを見られなかった虹は、リレーの練習でみんなと一生懸命に走るりょうの姿を覚えていて、自分もそういうふうになりたいとりょうを正面から見つめてその手にバトンを手渡します。

ワーゲンの和彦への眼差しや一心と早千代の触れ合い、太善坊とジローや山本と坂木の関係性も記憶に残ります。 

立ち去る百合を追いかけてとなりに座った平は、ぶちおに当たった現在の百合に言葉をかけながらその視線の先で、百合がぶちおを見て切なそうな表情を浮かべた過去の姿を今に重ね合わせていました。

誰かの存在が、となりにいる人と妖怪の眼差しや触れ合いのなかに描かれていて印象的でした。他者は誰かの今と過去を、現在同時に存在するものとして見つめる時空をこえた視点も投げかけます。

自分一人ではあいまいな自分の存在がこの世界に在るのは、過去から続くその形が言葉のみならず他者との言葉以前のやり取りを通して現在に結び付けられているからだと感じました。

第5話では、百合の中に閉じ込められていた過去の記憶と関係性の記憶の失われた別世界とが並行して描かれていきます。

憂いの季節の終わりに見つけた希望を象徴する花のブローチに百合は過去の時間を閉じ込めようとした自らのエゴを見ました。同じ花のブローチに閉じ込められた時間を奈美子は美しいと表現します。和彦はこの世界にいない奈美子の言葉を百合に伝えました。

弓を引く太善坊の後ろ姿に父の背中を重ね合わせるようにして自分の思いをぶつけた百合に対し自分は父親ではないと太善坊は諭します。

百合が過去に感じている息苦しさは、みよの言葉に影響を受け考え方を改めた自分の形が無いものとして扱われたことにあったと思います。家族との過去で悩む百合にぶちおは自らの想いを必死で伝えますが、百合はその言葉やぶちおの存在を拒絶するようにして言葉を投げつけてしまいました。

他者の眼差しが自分に輪郭を与え現在に結び付けるものである反面、それが形を歪め現在から自分を解くものになり得ることを百合自身経験していて、その過去に根ざす苦しみは過去を知らないぶちおや平の想いが百合の形を歪める言葉となって響く程に深いものでした。

別世界を自分の知る世界ではないと百合が感じるきっかけには、百合を知らない平の表情やジローとの記憶を持たない睦実が今は存在しない父のとなりにいる姿といった関係性の記憶が抜け落ち、改変された視線がありました。

自らが失われないよう過去の自分をその中に閉じ込めた百合の世界は、百合自身が関係性の視線を拒絶する先にある他者の形を歪めた世界であったかもしれません。百合にとって形を歪める恐れのなかにあった他者の視線が失われた別世界は、自分が自分であることを認識する手段が自分自身に向ける視線以外に存在しない世界として捉えられていたと思います。

他者が形を歪める存在であるか、輪郭を形作るものであるかは、過去の苦しみに揺れる百合のなかでとなり合わせの感情だったと思います。

再び元の世界に帰ってきたとき、百合を抱きしめる平の腕の中でその輪郭を感じ、ジローと太善坊の視線や百合のために涙を流すぶちおの眼差しの中に確かな形が今に結ばれることを百合自身強く感じている瞬間が描かれていたように思います。

第1話でぶちおが猫又に転生した一件が新聞記事に取り上げられ、妖怪健康保険や妖怪新生応援事業の案内がきて、新生届を出せば「大石ぶちお」として戸籍上も家族になれることから人と妖怪が共生する縁ヶ森をどこか私が生きる現実ととなり合わせの舞台と捉えて鑑賞していました。

妖怪たちにも人と同じように心があることが分かり人々に受け入れられるようになった背景が第1話の冒頭でも描かれています。怪奇話も馴染みのあるもので言霊によって形を持った妖たちが、多様な居場所で人々と交流している風景もとても面白く感じました(室峰先生や土田先生、花子さん)雑貨市や運動会、街中の風景の中でも、様々な人と妖怪の関係性の形が描かれていて良いなぁと。

現実と地続きの作品世界で人と妖怪の交流を通して描かれるのは、私のとなりいる他者との関係であったり、そうした関係性をとなり同士で生きていた他者の喪失であったり。病気や介護、災害などのテーマも扱われています。架空の世界ではあるのですが、私にとって身近な感情をフィクションの存在に重ねあわせながら観ていました。物語性を持った絵に私が繋がりをよすがにした体験を照らして視聴していたところもあります。

この世界に在ると強く感じる中心には自分と誰か、自分と何かとの関係性の記憶があって。この世界と別の可能性の世界があらわれたとき存在し得ないはずの私がどの世界に在ると言えるのかは、結局のところあらゆる可能性の中から関係を結んできたものがとなりにいるかどうかで決まってくると思います。

第5話の別世界は第5話以降も重要なモチーフになっていくのですが、その世界がどのような世界であるか、百合の内面世界と呼応するようにして描かれていたので印象に残っています。

別世界の住人は現実に近い存在だと思うのですが、人と妖怪がどのように関係性を結んできたかを知っている分その輪郭が外見だけで判断され恐れられているのは心が痛みましたね。現実でも形は違えど、そうした理解できない、知らない存在の輪郭が別の場所で決められていることってあると思います。

第5話で特に印象に残っているのは百合のモノローグとEDの映像です。自分がだれで、ここではなくどこが自分の在る世界なのか、アバンのモノローグからEDのアニメーションを通して、本作が最終回で描くテーマを先取りするように描かれていたと思います。次回の放送がとても楽しみになった回でもあったので第5話をベストエピソードに選びます。

EDの久保あおいさんの「イロノナカ」を聴くたび、本編のシーンやその中で感じた色んなものがこみ上げてきました。


夜のクラゲは泳げない 第9話「現実見ろ」

第6話で、周りからお母さんが変だとからかわれた亜璃恵瑠が、お母さんが好きな自分っておかしいのかなとつぶやいたシーンで、めいが叱りつけるようにその言葉を否定した台詞が印象に残っています。

好きな気持ちだけは絶対に間違いなんかじゃないというめいの言葉は、誰よりも母の可愛いを知る亜璃恵瑠の心に直接響くものでした。自分の気持ちのほうがおかしいのかもしれないと思いつめるほど多くの悪意にさらされた亜璃恵瑠にとってめいの言葉は自身の想いを代弁する力強い言葉であったと思います。

名前や髪の色をからかわれ、みんなとは違う"変な子"と思い詰めていためいは、変わった人には不寛容であるこの世界に生きづらさを感じているキャラクターでした。居場所(教室の座席やピアノの前)を失いかけそうになったときに出会ったのが、後にめいの推しになるアイドル橘ののかです(第2話)

自分の常識のほうが間違っているのかもしれないと感じるほどのコンプレックスをののかは全て肯定し、自分とめいが「似たもの同士」であると伝えます。めいはその言葉を手渡してくれた底抜けに明るいののかという存在に心を奪われていきます。

ののかが世間から叩かれたときめいがののかを信じ続けられたのは、大切な言葉を貰い、救ってもらった記憶のなかにこそののかを見ていたからだったと思います。

匿名の海から名前を帯びて浮かび上がったことを指して「普通ではない」「変である」と、ときに悪意を持って沈めようとするのが現実であるなら同じものに眩しさや特別さの光を感じる他者が存在するのもまた同じ現実である光と闇のテーマは、本作が一貫して描いてきたものだったと感じます。

「変な色」と言われ壁画の名前をとっさに隠して他人のふりをしてから絵を描かなくなったまひるの物語は、その壁画の絵に影響を受けたと話す花音と出会うことで始まりました(第1話)花音はその絵が「変な色」であると感じながらも、惹かれていきます。

絵を描き始めたまひるは、第5話で再び現実の悪意の言葉にさらされます。絵を否定するようなコメントにショックを受け、自分の絵よりもいいねの付いたファンアートに対して嫉妬心を抱いたまひるは、そんな自分の描いたJELEEの絵が、ファンアートと入れ替えられない特別さ持つことを信じられないまま悪意の言葉と向き合うことになります。

眩しさや特別さの光を受けてその色を濃くする闇のテーマは、普通や常識を盾に特別なものへと向けられる現実の悪意の言葉だけでなく、傷つくことを恐れ、みんなの考えているであろう普通に埋没しようとしていたまひる自身が、影響を受けたファンやJELEEのメンバーの才能に照らして、まひるの普通さを痛感する視点からも描かれていきます。

闇のなかで見えたのは、かつて描いた絵を否定してしまった過去の自分の姿でした。花音が特別と言ってくれた絵を今度はまひる自身が特別と感じられるように、一度輝いたものから光が失われないように、まひるは絵を描くことに向き合っていきます。その際に、壁画に書いたのが"まひる"とは反対に位置する"ヨル"という名前でした。

本作は現実から身を守るための匿名が、JELEEの活動を通して特別な名前になっていく話でもあったと思います。例えば、キウイが作り上げた竜ヶ崎ノクスの名前。好きなものを好きと話すとからかわれ、自分の身体が別の目で見られる世界に対して閉じた自分自身のことをもう一度好きになるため仮想世界の人物を作り上げていきました。

めいが変に思われないように、とっさに名乗った木村という名前と同様、まひるからの電話で付いた嘘(第3話)から始まったもう一人のキウイであるノクスは、その後キウイ自身によって殻ではなく、JELEEのメンバーとして活動を支えていく存在へと変化していきます。

匿名の名前がもう一人の自分として描かれるのは、本作が、誰かが好き(特別)と光を投げかけてくれた自分の存在と、自分自身とがもう一度向き合っていく話でもあるからだと考えます。

花音には、JELEEの他に橘ののかの名前がありました。母である雪音は橘ののかの歌に才能を見出し、自身の夢のためにも、その名を名乗り続けることを望みました。

雪音は自分が特別と感じたものを光と捉え、その光を多くの人の目に触れる場へ引き上げようとする存在であったと思います。雪音が光を背負い、自身の輪郭をくっきりと作り上げているようにみえる第9話のカットが象徴的です。

雪音がののかに光をみるあまり、輝き続けている橘ののかこそが必要とされる存在であり、花音が空っぽであると感じる自分自身とは離れたところにその名前は存在しました。他のメンバーとは異なり、ののかの名前は自らが付けた名前ではなく与えられた名前でもありました。

雪音のために歌うと決めた花音が、自らの行動で橘ののかの光を失わせてしまったと感じたとき、花音は必要とされていた自分自身もその光と一緒に失ったと感じたのではないでしょうか。

輝き続けている存在と自分自身とが同一である認識は、自分に光を投げかけてくれたヨルが、JELEEの活動より雪音の仕事を先に選ぶと決めた際、まひるの存在自体が自分から離れていってしまうように感じていたことから、花音の心に強く刻み込まれていたものだったと思います。

ののかの歌唱と同様、海月ヨルの絵に光を感じ、その光を用いて雪音は仕事を進めようとします。雪音が見ているヨルの存在は、まひるも同様に見上げている存在であり、一度その存在を見失いかけたまひるにとっては、信じて描き続けなければまた見失うかもしれない名前でした。

ヨルとまひるを同一視して疑わない花音の絵に対する言葉より、雪音の絵に対する言葉が今のまひるに届くのは、海月ヨルの存在の光をみる距離が、その光をどう捉えているかは別として、雪音と同一であったからだと考えます。

過去の不安からヨルの光をまひる自身と捉えた花音は、まひるが光を見失わないように進む行動をまひるが自分から離れていってしまう振る舞いであると捉えました。雪音が自分ではない光をみつけたのだと花音はつぶやきます。

花音の困惑は、ヨルではなくまひるへと向けられました。失いたくない思いから、自分の元から離れようとしているヨルとまひる自身とを無理矢理切り離すようにして投げつけた言葉は、まひるが描くヨルの絵を好きだと伝えた花音自身を傷つけるように響き、自分を好きでい続けるためにヨルとして絵を描く決心をしたまひるを引き裂いてしまいます。

ヨルの光を自分の下にとどめようとしたその振る舞いは、雪音が才能の光を引き寄せ、自らが夢にみる舞台へと引き上げようとする姿にどこか重なり、花音自身はまひるの人生を自分のために利用したのだと苦しむことになります。

その苦しみは、そもそも自分が輝こうとしていた全ての行動が、母に見つけてもらうためだったのだというストーリーに収束されてしまうほど深く、かつて周囲に笑われながらも自分もそうなりたいと最後まで語った大好きだった母を呪うしかないほどの暗さを湛えていました。

ののかとして振る舞う花音自身が、ののかの光を失うことが自分自身を見失うことと同義であると強く思いこむほど、ののかという存在の光だけを見続けていた雪音の眼差しには雪音自身の罪が少なからずあったと感じます。

かつてのまひると同様、まわりの投げかける光に照らしてその色を濃くする闇のなかで過去の自分の姿が今によみがえった花音は、ののかの光が失われた過去と同様、まひると同一視していたヨルの光が自分の下から離れていった事実に沈みます。

過去の花音は、橘ののかを失いますが、山ノ内花音を名乗りJELEEの名前を自らに付けて歌い続けていました。ヨルの描いたクラゲの壁画に影響を受けた花音が、本当の自分を表現するもう一人の自分として作り上げた存在がJELEEでした。

まひるが花音にみた光は、匿名アーティストJELEEとして自分の書いた詩を歌い、好きなものを好きと主張する花音であったと思います。自分を表現するJELEEを続ける花音に影響を受けたまひるは、もう一度好きだった絵に向き合い、海月ヨルの名前を壁画に刻みました。

まひるはJELEEの名前で活躍していく花音の姿に光を感じていました。そこにJELEEとして輝き続けようとする花音自身の姿を見ていました。泳げないクラゲが自分でも輝けるその姿にこそ、流されがちな自分でも輝けるかもしれないと思う希望をみていたのだと感じます。

かつて橘ののかの光と自分とを同一視するしかなく、輝きが失われた際に自分も見失ってしまった過去の経験から、ヨルの光とまひるの存在を同様に捉え、その光を失いたくない混乱から、まひるとヨルを引き裂く言葉を投げつけてしまった花音。

花音自身、一人一人がただの光ではないことについて台詞を残していました。

けど、気付くんだ。みんなから遅れちゃってる光とか、逆方向にいっちゃう光もあったりして……。そこで思うの。あれはただの光じゃなくて、一人一人がわたしを好きでいてくれてるファンなんだよね、って。

夜のクラゲは泳げない 第8話 花音の台詞より

光そのものではなく、光を手にした存在こそが人であり、一人一人が光り方の異なる存在であると捉えようとする台詞に聞こえました。

第9話で、改めてまひるとの出会いが蘇るのは、花音が見失いかけてはいても、花音がヨルの名前を呼ぶその一つひとつの瞬間に、ヨルの名前で輝こうと絵を描くまひる自身へ呼びかけた過去が、二人のなかに確かにあったからなのだと想像します。花音が"まひる"と名前で呼んだ第7話のシーンが第9話のラストに使われていました。

光に対してその闇を濃くするキャラクターが、かつてののかにセンターの座を奪われたメロでした。何者でもなかった自分を特別な存在に引き上げてくれた雪音を崇拝するメロは、花音と同様、光り続けて必要とされることが自身の存在意義に大きく関わっていて、花音に自分が取って代わられたとき、自分の存在価値をネット上に晒した悪意への賛同に求めます。

偽りの姿で光り続けようとしている存在の欺瞞を暴き、価値のないもの(そもそも光ってないもの)として提示するメロの"現実"は、光り続けて必要とされることだけが存在理由であったメロにとっては偽りのない現実であったと思います。

輝いて始めて存在を認められると感じていたメロがJELEEのメンバーと会話するシーンが印象的です。炎上のあとも立ち上がって歌おうとしていたののかを見続けていためいの言葉やまひるが花音と出会わなかったら自分もそうなっていたかもしれないと話したこと。

そういう認識を持った仲間が、表舞台で光り輝く前に、自ら輝こうとする花音を花音として見ていた過去は、メロの中で光り続けて必要とされることだけが存在理由ではない現実を何らかの形で提示したのだと思います。

"現実見ろバカ"と主張していたメロが歌えない花音に対して、そうした存在が花音にはあったことを思い出させるかのように叫んだ"ちゃんと前見ろバカ!"の台詞を受けてそう感じました。本作は、雪音が輝こうとする花音自身を見るようになり、父が花音の表現するJELEEを通して輝こうと前へ進む花音自身を見るようになる話でもあったのかなと思います。

そもそも花音が出会ったのは、壁に描かれたそれ自体は輝くことのない絵だったのですよね。花音が絵に感じた特別さは、輝けないはずの壁画が輝こうとしているようにみえるその姿や色であったと思います。

それは、水族館で学芸員のおじさんから話を聞いた日から漂っているだけにみえたクラゲの本気を出せば輝ける姿に魅了されたまひるが描こうとした特別さでした。

クラゲの絵が結びつけた二人が、アーティストとして別の名前の下で輝こうとするその姿にこそ互いの姿を認識していて関係性を結んでいくのは何か良いなと思います。

与えられた名前の輝きと同時に自分自身が失われたと感じるほどの闇をみた花音。輝きを失ったアイドルや光を失い悲しむファンの言葉をみて、何よりも心を痛めていたのが花音でした。

第9話では、花音の現在と過去が交互に描写され、過去の花音の苦しみや痛み、不安や恐れが今もなお続いていることが描かれていきます。花音の苦しみは、まひるの歩みが自分の下から光が失われることと同様に思えるほど深く刻まれていたもので、失いたくない一心で投げかける言葉が、もう一人の自分の名前の下で輝こうと結んできた二人の関係性を否定する形になってあらわれるほどに痛みを伴うものでした。

与えられた名前の輝きと同時に自分自身も失われたと感じるほどの過去をかかえ、今もその過去が続く現在を生きる花音を支えるのが、同じように別の名前で匿名の海へと泳ぎだしたキウイやめいであったのは、二人も同様に自分自身がこの世界から失われるほどの辛い経験を共有していたからだと思います。

第4話で、過去の話を花音の姉から聞いたとき、自分自身の過去について、共有したのがキウイやめいでした。本作のOP映像で繰り返し描かれる今の自分と過去の自分。花音は幼い頃の自分自身を抱きしめるカットも印象的です。


もう一人の名前を通して再び匿名の海(現実)へ泳ぎ出した4人が、過去に取り残された互いを救うようにして、前へ進もうとする姿は本作で繰り返し描かれてきたモチーフでした。

アーティストとして別の名前を用いて自分を表現するなかで、改めて自分がどういった存在であるかJELEEの活動を通して向き合いながら、別の名前へと向かうそれぞれの存在を本名の下で認め合い関係性を結んだ先で第12話のクレジットが描かれていました。

第12話でキウイがノクスとして呼びかけた言葉やめいがJELEEの木村ちゃんとして書いた言葉、花音が語った歌う理由は、かつての自分自身や救えなかった過去に向けられているようでした。

泳げないクラゲが自分でも輝けるその姿に影響を受け繋がった4人が、あのとき花音がみて心を動かされたクラゲの壁画のように、輝こうとする人たちに希望をあたえる存在になっていく話でもあったように感じます。

どの話数も魅力的でした。花音の過去は第1話から描かれていて、どこかで改めて触れられるのかなと思いながら鑑賞していました。第2話、3話とそれぞれの過去が描写され、第4話で改めて描かれたことから花音の過去は、本作の重要なエピソードの中で描かれるのだろうなと感じていたのですが、想像をこえる形で提示されて驚いてしまいました。

思えば、第5話の「邪魔」というまひるのつぶやきは自分自身すごく身に覚えがある感情で観ていて結構苦しかったので、そうした感情を取りこぼさず描く本作の感情描写に対しては覚悟して臨んでいたのですがやっぱり辛かったです。第9話を観た夜は、すぐに第1話や第4話、第7話を観返しましたね。

JELEEとして輝こうと詩を書き、歌い続けてきた花音にこそ、まひるやめいやキウイが花音自身の姿を見ていたのは本作が描く関係性の重要な部分で、過去や現実に一人取り残された自分自身を含めた誰かに対して、手を差しのばす(一人ぼっちにさせない)のは、大切なテーマだったと思います。

そうしたテーマを語る上で、花音の過去とその過去が今も続く現在の描写は、避けては通れないエピソードだったと感じますし、そのエピソードのなかにある感情を避けずに描ききった素晴らしい話数だと感じました。


終末トレインどこへいく? 第8話「バチ当たらない?」

7G事件後に人も生き物も全然変わってしまったカオス世界では"人間のお医者"という言葉が、人間を診察するお医者だけど人間の姿をしていないものを指し示したり、人間は診察できないけど姿は人間のそれであるものを指し示したりする可能性があると第1話で示唆されます。

お医者だけど人の姿をしていないからそうではないのか、人の姿はしていないけど人をみられるからお医者なのか。"人間のお医者"が結局のところ何であるかは、言葉の始点・終点の選び方によって緩やかに決定されていきます。

静留と別れた三人が改めて自分たちの意思で電車に乗ろうとする際の会話(第6話)が印象に残っています。ゾンビになっているかもしれない静留が、友達だけどゾンビなのか、ゾンビだけど友達なのかについてみんなで話すシーン。

黒木がゾンビのふりをする三人を拘束したシーン(第7話)では、撫子たちが元人間の元友達なのか元友達の人間なのか友達の元人間あるいは友達の人間なのかが問われます。

第1話で初登場の晶の第一声がカレーとうんこの話だったのは記憶に新しいです。

カレー味のうんこみたいな話?

終末トレインどこへいく? 第1話
晶の台詞より

カレー味だけどうんこなのとうんこだけどカレー味では一緒に思えてその語順で印象が異なるように(どちらもうんこではありますが)カレー味かもしれないけど結局はうんこ、とカレー始点で終点うんこに向かっていくのと、うんこなんだろうけどカレー味としか言いようがないからカレー、とうんこを発駅にして着駅のカレーに向かうのとでは、結局それがどちらなのか(どちらであってほしいのか)は大きく変わってきます。

友達だけどゾンビ(だから友達ではないよね……)なのか、ゾンビだけど友達(だからやっぱり友達!)なのか。

"友達だけど酷い言葉を言った"(ために離れ離れになった)ことが静留と葉香の二人の終点になってしまわないよう、その地点を始発駅に設定して"酷い言葉を言ったけど友達"を目指して静留がアポジー号と名付けた電車を走らせる、最も離れた場所から始まる本作で、どこを始点に設定し、どこを終点と捉えて向かっていくのかという言葉の始点・終点の繰り返される問いかけは、静留と葉香の間に横たわる距離を常に測りながら電車を進めていく上で大切なモチーフだったのではないかと思います。

葉香は、どこへ行くのかも言わず消えてしまいます。静留の記憶のなかでは、静留のもとから去っていった葉香の後ろ姿が刻み込まれていました(第6話)友達だと思っていたのに離れていった葉香。

だからこそ静留がペリジーではなくアポジーと名付けたのは重要なポイントだったと思います。星に向かう葉香が遠い存在に思えて、地上に引き下ろすようにして言葉を投げつけてしまった静留が、自分の言葉が初めて二人の距離を遠いものにしたその事実を始点にして、改めて終点の葉香へと向かわなければいけないとどこかで感じているようでした。

それを今まで話してくれなかったことが悲しいと話す玲実たちに向かって、静留は第2話同様に突き放す言葉を向けてしまいます。近くに感じていたからこそ遠い存在のように扱われていたのが悲しいと話す玲実に対して、そもそも近くはなかったと感じさせるように言葉を投げつけた静留は、自分自身の言葉が関係性を遠くへ引き離してしまった事実をまだ受け入れられないでいるように感じました(そんなにひどいこと言ったかな、の台詞)

晶や撫子や玲実のもとを去った静留を友達だから許すと言う玲実に対して、許さなかった葉香は友達じゃなくなるのではと晶は指摘します。何かを始点として発した言葉が水面下で指し示めしてしまう方向(肯定に向かう言葉が暗に否定の意味合いを含むこと)についても考えられたシーンだったと感じます。その後、喧嘩したり許したりするのも含めて友達だよと話す撫子の包容力

そうした会話を経て、友達だけどゾンビなのか、ゾンビだけど友達なのかを考えた三人が、静留を葉香に会わせないといけないと電車に乗車するために駆けてゆくシーンが心に残ります。静留が葉香との距離や葉香に向かうための始点を考えようとしたように、玲実たちも静留との距離や始点について考えていました。話し合いの結論を友達である静留へと向かう発駅と捉えた素敵なカットだったと思います(第6話)

葉香にとってすごいと感じる静留の存在は隣に座っているけれどどこか遠い憧れの存在であったと思います(第4話)お互いにお互いを応援する約束の先で葉香が静留に夢を打ち明けたのは、それでも静留を近くに感じていたからだと想像します。葉香を遠くに感じた静留が投げつけた言葉は、二人の距離を引き離してしまいますが、その離れてしまった距離を葉香に近づくようにして辿りながら、静留が葉香との距離について考え、玲実や撫子や晶が静留と葉香の二人の距離や三人と静留との距離について様々な言葉の始点をもとに考え続けている関係性がとても良いなと思いました。

人と人との関係性は、軌道の近点と遠点(アプシス)の間を巡るようにして、相手がどのような存在であるか、様々な始点をもとに終点へと向かう道のりを繰り返したどる、その繰り返し動き続けている軌道の中にみえてくるものなのかもしれません。変わり続けながら動くのは川の流れにも似ています。その川に自分自身の姿だけを映し続ける(自分だけを見つめる)ことが危険であるのは第4話の回想で描かれていました。

脳に浮かんだ思考を直接読み込り全てのデバイスにアプローチ。思う即伝わる、考える即動く。まさに神の力の使い手となる。それが7G!

終末トレインどこへいく? 第1話
ポイズン・ポンタローの台詞より

そうした距離を一括りに煩わしいもの、不便なものと定義付け、無くしてしまおうというのが7G回線の根本思想であったかもしれません。

葉香の思考と世界とが結線された世界は、葉香の認識できる範囲に閉じながらも閉じた世界のなかで膨張し、その世界を変えようとする者と変えまいとする者双方の思惑で、様々なディテールが書き換えられていくカオスな場所に変貌しました。

変わり果ててしまった世界のひとつが第8話の大泉学園駅(ネリアリランド)です。

練馬の国のアリス第二十五話で、アリスとスーちゃんが三文芝居を打ってごーもんティーとケッシーを仲直りさせ、みんなで協力して渾沌にこの世界のルールを書き換えさせた(ハリガネムシおじさんがくれた禁書を使った)ことで迎えたハッピーエンドは何者かによって改竄され、アリスら主人公不在の分岐線へと繋ぎかえられていました(練馬の国のアリス第二十五話の内容については第8話のムック本の記述を参照)

葉香が練馬の国のアリスについて楽しそうに語っていた回想や玲実たちの台詞からみんながネリアリファンであることが分かるのですが、晶が練馬の国のアリス第一話のディテールを覚えていて、打開策を提案するのは面白い描写でした。7G事件前の二年以上前に放送されていたアニメの第一話の描写を覚えているのすごい(練馬の国のアリス第一話の内容については第1話でクロヒョウビンに届けてもらったムック本を玲実がめくるシーンの記述を参照)

渾沌が静留たちの池袋行きを阻止しようとするのは、静留たちが進む線路の終点(死)を決めさせようとした東吾野駅のキノコ回(第3話)や終点をここにするようボスが静留に提案した稲荷山公園駅回(第5話)を思い出します。静留たちが進もうとする線路の地図を与え、変化について語るスワン仙人とは対置されて、これらの敵対者は描かれていたと思います。

東吾野駅回と稲荷山公園駅回でもう一つ共通するのは、キノコが食べられるようになりたい、こびとを絶対みつけたい静留の願望(第4話)が基準線になっている点ですが、どちらの望みも敵対者の存在によって異なる結末に導こうとする分岐線が設けられていました。静留たちがそうした鏡の国に相対して、旅の始まりに決めた池袋行きの本来のレールを選んできたのがこれまでのストーリーでした。

『鏡の国のアリス』がカオスに思えてその実チェスの動きに沿って物語られていたように、練馬の国のアリスにおける敵対者の動きは将棋の駒のルールに沿ったものでした。また、スーちゃんが巣鴨プリズンに取りつかれている点(第8話のムック本、いつか巣鴨プリズンを訪れたいスーちゃんについての記述)やハリガネムシおじさんがアリスのために作ってくれた針金の弓(第1話のムック本、練馬の国のアリス第四話のあらすじ参照)その他キャラクターたちの書き換えられていない描写などから、練馬の国のアリスは一部の結末に対してのみ分岐線が設けられた急ごしらえの世界であったことが分かります。改竄した創作者の怠惰とも言えます(第10話)

葉香がそのディテールまでしっかりと覚えていたネリアリランドを、晶たちが実際の描写と比較しながら書き換えられた点と元々の設定に沿う部分を読み解くようにしてアリスら主人公へと置き換わり渾沌へ突き進んでいくストーリーが展開されていきます。

用意された分岐線を否定して、本来の基準線へと戻る過程がこれまでの話数と同様に繰り返されるのですが、その世界が葉香の結線された上に構築された葉香の好きだったアニメであり、葉香と同じようにそのアニメが好きだった玲実や晶たちが、書き換えられた第二十五話以降のエピソードをアニメを観た記憶(本来の描写)をベースに否定するようにして進みながら、元々の展開でアリスたちが敵を取る姿をなぞっていく第8話そのものが、世界の敵が葉香の世界の上に自らの願望を照射したことやそうすることで葉香本来の夢から遠ざけ魔女化させた世界の敵に対して進路を向ける構図になっていくのをとても面白く感じました。

本作は、葉香へと進む線路を常に選んでいく話でもあり、葉香本来の夢を否定してしまったことに端を発する分岐線が多数生じた世界で、分岐の一つひとつを選ばないことを選びながら本来の夢を取り戻そうとする基準線を通して葉香の肖像を描きなおし、面と向かって対話する終点(第12話)へ向かう話でもあったように思います。

撫子のトラウマには両親が離れてしまった事実と、それを止められなかった記憶があることが分かる回でもありました。第1話で言い争う晶と玲実を止めるようにして登場した撫子は、その後も喧嘩しそうになると間に入ったり、膠着した状態に言葉を投げかけたりするキャラクターとして描かれています。ウライズミンたちがそんな撫子にアリスをみたのは興味深い描写(アリスは撫子と同じ高三の設定でもある)

ケッシーのマグカップを使っていた静留がケッシーだったり、スーちゃんTシャツを欲しがった玲実がスーちゃんだったり、前の話数と緩やかに繋がる描写もありました。はらわた鍋にゴーヤをぶっこんだのも練馬の国のアリス第三話ではらわた鍋にぶっこまれたアリス回への意趣返しといったとこでしょうか。同じく練アリ第三話の寸劇はチャタレイ夫人の恋人ベースと思われ、直前の第7話で晶がエロスを感じる言葉として引用してみせた小説でもありました(アニメの元ネタになった小説って気になるので読むようにしてるのですが、晶も練アリ観て手に取ったのかなぁと考えたり。でも晶だったらあの時代のイギリス文学は通ってそうなので分かってて練アリを楽しんでいたような気もします)

本当にみんな練アリのこと大好きだったんだなぁと観ていて微笑ましかったです。アポジー号の旗にするくらいですからね。練アリは深夜アニメなので4クール50話だったかは不明ですが、やっぱり7Gで放送されなくなってはいるので、7G後の世界でお粗末な練アリの続きが大手を振ってる(解釈違いのお祭り状態になってる)のってアニメファン的に普通に腹立たしい状況というか。目の前でアリスたちが爆ぜていくの見ていますし。なので、ファンである玲実たちが主人公に扮して、アリスたちがいたらそうなっていたであろう展開で上書きしていくのはなかなか痛快でした。

静留の一番のトラウマが葉香との別れであることも分かりました。同じアニメが好きだった記憶で再び繋がった葉香が、今は変わり果てた存在として池袋にいるらしいことも分かり、静留たちにとって進むべき方向がより明確になった回でもあったと思います。一見するとカオスに思える第8話も第1話の内容から続くレールの上に描かれたエピソードだったと感じます。すごい笑いました。

第7話の黒木のキャラクターが好きなのでベストエピソードに選ぼうと思っていたのですが、第8話視聴後にSHIROBAKO第7巻に付いてる劇中劇アニメーション『第三飛行少女隊』第1話を引っ張り出してきて鑑賞したり、げんしけんの劇中劇のくじアン(2006年の方)を視聴したり、終末トレインの第8話について無意識に考えてる時間が多かったのでこちらをベストエピソードに選ぼうと思います。

セリフのテンポや走りの作画も良かったです。アニメを観るときキャラクターの日常芝居はいつも楽しみにしています。日常芝居を観ていると言っても良いかもしれません。第1話の静留のモノローグで四人が走り回るシーンを観ながら一人ひとり少しずつ違った体の動かし方の中にキャラクターが描かれていて素敵なアニメーション……と感じたのですよね。第6話のラスト、電車へとかけていくシーンの省略に想像を馳せたのは晶たちが走りまわるそんな魅力的な絵でした。


響け!ユーフォニアム3 第十二回「さいごのソリスト」

緑が種まきの話を久美子たちに話したように(第十一回)これまで過ごしてきた時間の記憶が色んな場所に生き続けていて、同じ場所に立ち寄ったり類似の光景を見たりしたときに蘇ってくるものであるのは、とても実感があるなぁと。

生きている間、過去が形や匂いを変えながら繰り返し迫ってくるのは、前の楽章で奏でられたテーマが、楽器やメロディーを変化させながら繰り返される吹奏楽曲にもどこか似ています。

アニメーションも同じで、第3期は特にそうした過去の話数で描かれたシーンを重ね合わせながら鑑賞してました。

大吉山の展望台で久美子と麗奈が二人音を奏でた第八回のおまつりトライアングル回やソリを決めるオーディションの第十一回おかえりオーディション回など過去の回が思い起こされます。

久美子と麗奈が奏でた特別な音が二年後にその形を変えて再び奏でられ、ソリの選出が実力制に則って行われることの証明の場であった再オーディションは久美子によって再構築されていきます。

そのなかでも特に印象に残ったのが、ソリだけでなく自分自身の居場所を手に入れ涙した真由の姿でした。

「一緒に過ごしていた動物はほかにもたくさんいたのに、青い鳥だけに固執した。最初から欲張らなきゃ、お別れも寂しくなかったんじゃないかなぁ」

武田綾乃『響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、決意の最終楽章 後編』、宝島社

『リズと青い鳥』のリズが青い鳥に固執する理由が分からないと真由は久美子に話します。普通の人であれば何かに固執するはずで、何にも固執しない自分はたぶん普通ではないのだろうと。

部屋がいっぱいになるほどのアルバムを写真でうめ、デジタルより色のいいフィルムカメラが好きと話したり、ソリを辞退したほうがいい?と同意を求めるように度々確認しながらもオーディションでは一切手を抜かなかったり、固執する人間ではないと強調する真由の行動はその台詞とはどこか矛盾するものでした。

親の転勤で転校を繰り返してきた真由がずっと大切に持ち続けていたものがユーフォニアムとカメラでした。

第十二回で、真由のユーフォニアムの記憶には、オーディションで自分が選ばれ続けたため音楽をやめてしまった友人の悲しむ姿があったことが語られます。

第七回では、唯一自分が被写体になった写真が現像に失敗したと話し、自分の姿を写真に残そうとしない頑なな姿が描かれていました。

固執しないことが別れの寂しさに繋がらないと遠回しに語る真由が友人たちとの写真に写ろうとしないのは、友人たちといる自分の姿を焼付けないことで、固執から解き放たれようとする行動のようにも思えます。

自分の元を離れなかったユーフォニアムやカメラにさえ、居場所を求めるにはあまりにも寂しい過去の記憶がひそんでいます。

過去を映像として残すカメラのレンズに触れたとき真由の瞳が曇るのは、過去を見つめる真由自身の眼差しから光が失われている表れであるように感じられました。

過去に手放さず今も手放さない二つのものとの距離感が分からず、どこかで固執しないように振る舞おうとする真由の姿に、本心を大人として振る舞うなかであすかが隠し、奏が取り繕ってきたのとはまた別種の、頑なに本心から遠ざかろうとする異質さを久美子は感じていたのだと思います。

固執することから遠ざかるように振る舞う真由の存在を、久美子は過去の自分自身の姿を重ねることで理解しようとし、何者か分からない真由という人間を久美子の枠内で納得させようとします。それは久美子の焦りのなかでみえた、自分の居場所を脅かす名前のない転校生の姿としての真由であったかもしれません。

真由が何よりも恐れているのが、自分の存在が誰かの居場所を脅かすこと(とそれによって自らが傷つくこと)でした。真由の恐れのなかでみえた久美子も同様に、真由が自らの過去にみた、音楽をやめてしまった友人の姿でした。真由が枠内で捉えようとした久美子の分からなさは、久美子の特別性であったと思います。

それは、なんとなく一番問題のない方法でまとまっていく空気や本音と向き合ってきた久美子の三年間のなかで生まれたものです。部長として、麗奈の隣にいる特別な自分として、自らの居場所をみつけた久美子は、真由本来の姿を捉えなおします。固執することから遠ざかろうとしながらも手放せずユーフォニアムを奏でてきた一人の部員であり同級生の姿を。

真由の過去は同じオーディションの舞台で再び繰り返されますが、主題をかえ久美子の存在によって変奏されていきます。真由の存在が誰かの居場所を失わせた過去は、真由の存在と向き合い久美子が自らの居場所を確かなものにしていく今へと移り変わっていきました。

久美子の隣に立つリソに選ばれた真由の姿が部員一人一人の目に焼き付いた瞬間でもあったと思います。真由のユーフォニアムの記憶には、寂しい過去だけでなく、この光景が確かに刻まれたのだと感じます。持ち続けていた大切なものにまつわる記憶を思い出すとき、自分が確かにいた場所の記憶として。

第3期は全編にわたって真由の表情が印象に残っています。久美子はもちろんそうなのですが、やっぱりあすかや奏や真由といったユーフォを吹くキャラクターたちが大好きなのですよね……

久美子のそばにいる奏が真由を過去の自分と重ね合わせる気持ちもすごくよくわかりますし、久美子が真由の本音へと踏み込んでいくのを「先輩ならそうするだろう」と誰よりもその身で理解しているのが奏のキャラクターだったと思うので第十二回は真由視点だけでなく奏視点で観たときもまた別の感想が浮かんでとても重層的な話数だなぁと感じましたね。あすか先輩ならどう評するんでしょう。

久美子が部長ではない時期に、例えば2年生のときとかに真由と出会っていたとしたら、あすか先輩や奏と同じ場所で、同じように繰り広げられる真由に踏み込んでいく風景が描かれていたのかなと妄想。

でも真由にとってユーフォニアムにまつわる記憶が今回新たに生まれたのはとても大きいと思いました。そのきっかけになった久美子の存在も。橋本さんや新山さんの立ち位置で久美子の未来に現れる真由の姿は何かすごい想像できるのですよね。

久美子が駆け抜けた第3期自体、自由曲「一年の詩~吹奏楽のための」みたいでした。あの曲も第三楽章の秋で、ユーフォとペットのソリがあるのですよね。

カメラと過去のモチーフはED映像も印象的。


ガールズバンドクライ 第13話「ロックンロールは鳴り止まないっ」

多分桃香さんは二人いるんだよとすばるが話す第6話。ギターから手を離して音楽から離れたときにもう一人の桃香が顔をのぞかせるシーンで、その顔に窓格子が十字になって影を落とします。

桃香が今も自分自身に感じている罪は、脱退や勝負から降りる選択以前に、好きだった歌をただ歌っていたあの頃の自分を、過去に置き去りにしてしまったことなのかなと想像しました。

誰かがその形を決めた、売れないものは売れないプレッシャーの中で、退路を絶って前に突き進み続けることの意味は、自分の望みとは正反対の拒否すれば続けることができない選択を強いる現実にさらされ続けることに取って代わられていきます。

退路を絶たなきゃいけないんだよとグラウンドに白線で夢を描いた自分や一度は捨てようと手を伸ばした衣装を着てでも歌い続けようとしたあの頃の自分は、桃香にとって進む意味を変えてしまうほど重くやるせない現実を前に、終わらせた過去に残してきてしまった自分自身の一部であったかもしれません。

自分の形を歪ませようと蝕んでくる現実を生きてきた仁菜は、負けたくないと全てを過去にして上京してきたキャラクターでした。そうした現実に、仁菜が置き去りにするまいと手を引っ張ってきたのが、自分にとって正しい選択を貫いた過去の自分自身だったと思います。

選択した過去から手を引っ張り続ける現在までの仁菜の背中を押し続けてきたのは桃香が作った「空の箱」でした。桃香の過去の音は、繰り返し何度聴いても変わることなく仁菜の中で響き続けていました。

なんか一番行き詰ったときに聞いて、今の自分の気持ちをそのまま歌ってるって。負けちゃダメだって。私のテーマ曲です。

ガールズバンドクライ 第1話
仁菜の台詞より

桃香が過去に感じている断絶と、その断絶から顔を覗かせるもう一人の桃香の言葉は、変わらない歌を歌い続ける桃香の曲を今も聴いている仁菜にとって理解できない断絶であったと思います。

そこに断絶なんてない、桃香さんは間違ってないと訴える仁菜の言葉は、桃香以外が間違っていたのだという主張に流れていき今のダイダスを巡って二人は度々意見を対立させることになります。ダイダスの選択(桃香以外の三人が選んだ道)が、否定されるものではないと桃香は繰り返します。それは、桃香自身の選択が現在に重くのしかかる言葉でもありました。

今は耐えろ。いつかのし上がって自分たちのやりたいことができるようになる。あいつらは最後まで必死に説得してくれた。それでもやめたんだ。あたしは。

ガールズバンドクライ 第5話
桃香の台詞より

桃香が何度も過去の選択を捉え直そうとしてできないでいる姿(過去の自分を置き去りにしたことを受け止められないでいるのかもしれない姿)は、「空の箱」が奪われたと感じて激昂する仁菜の目に、仁菜が思う今の間違ったダイダスの姿を消極的でありながらも肯定しているように映り、間違った姿を肯定してしまえるほど本気ではなかったのだと仁菜が桃香に執拗に迫るきっかけを与えます(第5話)

音楽と向き合うもう一人の桃香にとって、自分に嘘をつけずに自分を決して曲げない仁菜の姿は、桃香が音楽の中で見つけ「空の箱」でも詩にしてきた過去の桃香自身に重なる姿だったと感じます。

過去に置いてきたはずの自分が再び自分を訪れたかのように隣で歌う仁菜の歌声を、桃香はずっと聴いていたかったと語ります。桃香が仁菜やすばるを誘ったバンドに智やルパも加わり、メジャーデビューもただの夢ではなくなって、意に反する選択を強いる現実が再び目の前に立ちはだかるかもしれない。過去の自分と現実の間に立ち塞がるようにして桃香はその思いを仁菜に打ち明けますが、その場に自分がいないように扱われた仁菜は、無理やり手を掴んで引き止めようとした桃香を拒絶しました。

学校に呼び出されたとき仁菜が差し出された手を掴まなかったのは、その行為が自分の形を歪ませるだけでなく、自分をいないものとして扱う相手の手を握ることが何よりもあの選択をした過去の自分を一人にさせることになると強く感じていたからだと思います。

桃香の歌に救われ、背中を押されてきた仁菜は「空の箱」を初めに聴いたときから現実まで「空の箱」が繋いできた存在でした。放送室を閉ざしたあの空間は、現実に蝕まれ満たされることのない、仁菜が仁菜自身を抱えるための空白であったと思います。

桃香が過去から逃れ、自分を再び訪れた過去の自分を仁菜に重ねようとするのは、仁菜の空白ごと桃香の過去に閉じ込める振る舞いでした。今も変わらず流れ続けている私の歌と、その歌が繋いできた存在から拒絶されることで桃香は改めて「空の箱」を手離した事実や過去の自分を置いてきた選択と向き合うことになります。

過去の選択と繋がった桃香が、ダイダスとは別の道を選び、三人と別れた事実を初めて受け止めるようにして流す涙と、そうまでして自分を曲げられなかった桃香が好きだと伝える仁菜の流す涙が印象的でした。これ以降、桃香と仁菜との間に交わされるダイダスの会話は、全く異なるものになっていきます。

桃香が過去の選択をまだ引きずっているときに桃香と仁菜の間で交わされるダイダスについての会話は、ダイダスのいないところで肯定されるものか否定されるものか、その存在が問われることに終始していたのですが、桃香が過去と向き合って以降は、ダイダスと相対する中でダイダスがどのような存在であるかが話されていたように思います。過去と向き合い過去を自分自身のものとした上で、今、目の前にいる存在と向かい合うこと。その対話の先でダイヤモンドダストの肖像が捉え直されます。

トゲナシトゲアリは、売れないものは売れないプレッシャーと過去のダイヤモンドダストが直面したのと同じ、自分の望みとは正反対の拒否すれば続けることができない選択を強いる現実にさらされることになるのですが、かつての桃香と同様にそれを拒否しようとする仁菜のそばで、桃香は過去の選択をもう一度現在の自分自身で選ぼうとします。

第13話で、桃香は過去に拒否しようとした衣装をアレンジして自らの意思でまといます。その姿が、退路を絶ったあの頃の自分ややるせない現実に打ちのめされた自分だけでなく、辞める選択をしたことで過去にそうした自分を置き去りした自分自身も含めて桃香が引っ張り上げようとする決意に見えるのは、拒否しようとしてそれでも一度は衣装をまとった選択とまとい続けることを拒否した選択の両方に桃香自身がいて、拒否した選択の先で桃香が一度はまとった衣装を再び選ぶことで両方の選択を肯定しているように思えたからです。

今に繋がる過去の自分は、本作が繰り返し描いてきたテーマだったと思います。目の前にいる誰かと向き合ったとき、顔を覗かせる過去。桃香が仁菜にみた過去の桃香の姿(第8話)や仁菜が初対面のすばるにみた忘れたい顔の記憶(第2話)智は仁菜や桃香たちにかつてのバンドメンバーとの過去を重ね合わせ、仁菜たちに踏み出せないでいました(第9話)すばるの祖母もまた、過去の選択を肯定してくれたすばるに想いを重ねていますが、何よりもすばるが哀しみを感じているのが、ウソをつき続けてきた自分自身に対してでした(第4話)過去を背負うルパも智を前にして大切だった人たちを亡くした記憶を話します(第11話)

第7話で、桃香が話したミネへの憧れは、自分自身の過去や選択の先にある今の自分が、どんな現在であろうと全ての過去を引き連れるようにしてステージで歌う姿に対して感じていたものだったかもしれません。

東京出て来たとき、ミネさんのライブ見て思ったんだ。前座のおまけみたいな出番で、一歩も引かずに歌で戦ってるみたいでさ。あぁロックだって。

ガールズバンドクライ 第7話
桃香の台詞より

全ての過去を引き連れるようにして今を全力で叫ぶことがロックであるなら、第11話〜第13話までの一連の話数は、トゲナシトゲアリにとってのロックであったと思います。

芸能事務所のスカウトの三浦と話す第10話で、仁菜が過去の記憶の中でその色を歪め、引きずっていた過去と向き合うことと新しい曲の歌詞を書くテーマが平行して語られたとき、本作が、ロックバンドの進む先でレーベルと契約していく現実と関係のある現実を描きながら、バンドとして多くの観客たちと向かい合うことを見据え、その何よりも大切なステージの上で今を叫ぶために、過去と向き合うことを通して偽りのない詩を書き歌うことを目指す、対話のなかにこそロックを描こうとしているのかもしれないと感じて「あぁ、良いアニメだなぁ」と思ったのですよね。

第10話以降の展開は、ここまで現実の音楽と向き合って描かれることを予想してなくて、打ちのめされました。

ダイヤモンドダストとの対話も描かれていました。第11話の実質対バン回で、Cycle Of Sorrowの歌詞を聴いたとき、ダイヤモンドダストのヒナやナナたちも今に繋がる過去の自分と向き合ってきたことがよく分かったのですが、ヒナたちの本編では描かれない過去や今に至るまでの想いを、ダイヤモンドダストと向き合う桃香が想像するようにして言語化するシーンもロックとは対話であるなぁと感じられたシーンでした。

過去から繋がる今を叫ぶことの上にロックを描く本作がライブシーンに回想とともに描いてきたのが、ダイヤモンドダストやトゲナシトゲアリが互いのライブを見つめているその眼差しでした。

音楽誌の対バンインタビューなどを読むと、互いのバンドの音楽性がどのような過去の上にあるものなのかを別のバンドが言語化する流れがあったり、これまでに聴いてきた音楽からの影響が語られたり、まだバンドが語ったことのない過去の音楽へのリスペクトやこの先作ろうとしている音について今の音を聴いた別のバンドが言い当てる瞬間があったり、対話の中でロックが形を持つことが分かります。

やっぱり反抗したり中指突き立てたり、何かや誰かを傷付ける外側へ向けたものへの影響を通して、己の輪郭を主張してるのって全然カッコ良いとは思えないので対話を通してロックを描くのって良いなと私は思いました(誰かを傷付けないのであればステージの上とかPVのなかとかパフォーマンスとしてはあり)ロック自体そうした主張を曲の形に落とし込んで伝えようとするものでもありますし。

ただ、中指を立てることが小指に変わった(多摩川の誓いが立てられた)ように、内には様々な想いがトゲトゲと渦巻いていて。バント名のトゲナシトゲアリはTシャツを見た仁菜が偶然付けたものではあるのですが、外に向けたトゲがないようでいて内にトゲアリみたいな、そんな意味も帯びているように感じました。すごくカッコ良いと思いますね。

あと第13話で印象的だったのが、仁菜が捉え直すヒナの肖像です。自分自身の過去やメンバーの過去、交流を通して音を作りライブをする先で、対バンする相手との過去との対話が描かれていくラストがとても良かったです。仁菜とヒナの対バン記事、読んでみたいです。

色々想像で感想を書いてしまいました。何よりもガールズバンドクライを観て、現実に向き合っていく姿に勇気付けられたことは書いておきたいです。私自身の生きる現実も、自分のいない場所で私の形が決められていたり、私自身が大切に思う空白をいつの間にか埋められていたりする、やるせなさが同居する場所ではあるので。あと勉学は大切!音楽の道で仁菜たちが様々な大人たちに出会えたら良いなと思いました。勉学を含め色んな道が退路ではないと示してくれる存在と。

ベストエピソードはどれか迷いました。各話サブタイトルの曲に様々な想いが込められているなぁと感じましたしどの話数も魅力的でした。第13話の「ロックンロールは鳴り止まないっ」は神聖かまってちゃんの曲なのですが、この曲の始まりには、CDを借りたあの頃の僕がいてそこから続く歌が歌われていたことを思い出します。

それぞれの過去の自分から今に繋がる鳴り止まない音を描いた最終話が、曲とどこかで繋がるように感じ繰り返し鑑賞した話数だったのと、運命の華が本作の物語のラストで仁菜たちが歌おうとした詩であったことに心動かされたので第13話をベストエピソードに選びます。


烏は主を選ばない 第11話「忠臣」

金烏となった長束と撫子が結ばれる未来に敦房は自らが中央へ至る夢を描きます。敦房の叔母と南家当主との間に生まれた撫子は敦房にとっての従妹にあたります。撫子が生まれなければ高官にとりたてられなかったかもしれない敦房は、そもそも血と縁故によってその存在が初めて宮中から認識された人間でした。

長束が撫子と結ばれ血筋が繋がって初めて、長束が真の主となり自分を真の忠臣として認識してくれるはずだという敦房の夢想の種は、忠臣であると強く思い込みながら仕える長束が宮中に上がるため取り計らってくれたきっかけさえも撫子が生まれたことによる血や縁故にあったと理解したときに植え付けられたものであったかもしれません。

自分の存在が周りから認識されるよう中央との繋がりを望む敦房と対置されていたのが、ぼんくらを演じ続けてきた雪哉のキャラクターです。

生まれが全てを左右する宮中で血と縁故を利用し甘い汁を吸うためであれば他者を害することを厭わない人間たちを雪哉は嫌悪してきました(第2話)北家の血という出自が利用されることを何よりも嫌う雪哉は、自分の存在が周りから認識されることを避けるようにしてぼんくらの仮面を被り、その血がこれ以上利用されないためにも"垂氷の雪哉"を名乗り続けていました。

北家の孫と認識されていた話を長束の口から聞いた雪哉は、北家の血が利用されていた事実に怒ります。雪哉が中央に来る原因であったはずの和麿の一件(第1話)や和麿の父である和満の粛清を壁を隔てて目撃したこと(第5話)の裏で既にその血の利用が始まっていたかもしれないという疑念は、雪哉が側仕えをする若宮との関係性の土台を揺るがすものでした。

第7話の雪哉と路近の会話で近習も一年の期限付きの関係に過ぎないと話した雪哉がそれを聞いていた若宮に対して弁解しようとしたり、路近が雪哉を若宮の信奉者であるとみなしたりしたことからも伺えるように、雪哉と若宮とはただ利害が一致しただけの関係性ではなかったと思います。

一方、長束に仕える路近は、利用し利用される関係性を是とし、それ以上を望まないキャラクターとして描かれていました(第7話の雪哉、路近、若宮の三人が再び第11話で雪哉と若宮の関係性を巡る会話を繰り広げているのは面白い構図です)

己の利を忠臣という言葉で粉飾する敦房は、路近と対置されたキャラクターであり、路近が最も相容れないと感じる人物であったと思います。路近が雪哉を敦房と相対させその真意を確かめさせようとしたのは、朝廷という場所において忠臣であることの両極に位置する二人の狭間で、雪哉が若宮との関係に何を持って是とするか見極めようとする行為でもあったのだと感じます。

長束のためを想いその身を捨てて尽くす忠臣の肖像に敦房の存在を捉えていた雪哉が見たのは、長束の望みとはかけ離れた場所に主を見続ける敦房の歪んだ姿でした。それは血の歴史がその全てである朝廷のなかで狂いグロテスクに歪んだ忠臣の姿でもありました。

多くの人間たちが血によって駆動させる朝廷の仕組み(政治)のなかで主や忠臣であり続ける以上、利用し利用される関係性から逃れられず利害関係の上で人は入れ替え可能であり、最高位の金烏である若宮の死さえも長束によって容易に置き換わる世界を生きている現実を雪哉は見たのだと思います。

朝廷を生きる若宮が雪哉を選んだ行為そのものは血が全てである朝廷の仕組みの上で、雪哉が事実を知り一度は憤ったように、他が主と忠臣の関係を結ぶ利害関係の契約の形に収束されてしまうものであったかもしれません。ただ同じ朝廷における契約でありながら、そこに雪哉でなくてはいけない入れ替え不可能性に若宮が手を伸ばしていた真実を雪哉は何よりも理解していたのだと想像します。

若宮にとって后選びも逃れられない朝廷の血の仕組みのひとつでした。桜花宮に出入りしていた雪哉が落胆する姫たちの想いを代弁するかのように、桜花宮を訪れない真意を問いただそうとしたしたとき、若宮が答えた言葉が印象に残っています。同じ仕組みのなかで繰り返される同じ行為の下であっても、若宮は誠実であろうとしていました。若宮は側室である母が殺された過去をかかえたキャラクターでもあります。

自分と似た境遇を生き、同じ朝廷の仕組みのなかを共に歩きながら最良を選ぼうとする若宮に主の姿を見ていた雪哉にとっても若宮は他とは置き換えられない存在であったと思います。雪哉が取り替えのきかない主を失いたくない願いは、自らの意思で金烏である道を進もうとする若宮には届かない想いであるかもしれません。

第11話で桜花宮に現れた若宮と若宮の近習である雪哉。一年の期限付きの関係は変わらず、桜花宮で雪哉が述べる台詞も后選びに訪れた際の口上をなぞりますが、雪哉と若宮との間には血が全てであるはずの朝廷における主と近習をこえた忠誠や誠実さにもとづく関係性が漂い、忠臣として後ろに控える雪哉が、改めて若宮を主と捉えた瞬間が描かれていたように感じます。

物語的にも転換点となる后選び回(第12話)をベストエピソードにしようかなと思ったのですが、第11話の関係性の描写はよく覚えていたのでこちらにしました。若宮の現れた桜花宮で一人ひとりの表情が描かれていくシーン。キャラクターたちの絵が、これまでの話数で語られてきた心情を内に抱える人間として迫ってくるようでした。


その他 候補話数

・リンカイ! EPISODE 8
・ひみつのアイプリ 第2話
・T・Pぼん 第5話
・怪異と乙女と神隠し 第9話
・HIGHSPEED Étoile #09
・無職転生 〜異世界行ったら本気だす〜  #22
・オーイ!とんぼ 第7話
・グリム組曲 第6話

なども良かったです。

候補話数のT・Pぼん 第5話と合わせてオススメしたい本が『魔女狩りと悪魔学』(人文書院)です。狼と香辛料の関連書籍としても面白い本だと思います。あとグリム組曲関連では『暗黒グリム童話集』や『おとぎのかけら 新釈西洋童話集』でしょうか。童話の面白い解釈が多様に描かれてます。アニメーションだと『大人のためのグリム童話 手をなくした少女』がイチオシ。

春アニメで観て良かったと思った作品がオリジナルTVアニメの『リンカイ!』と『HIGHSPEED Étoile』です。放送される作品数が多いですし第1話段階でどれを視聴継続すべきかみたいな情報はたくさん入ってくるのですが自分なりにアニメと向き合うのって改めて大切だと感じました。

SNSのフォロワーさんのリアタイ感想ポストもすごく良かったです。ポストの内容は結構覚えてて、後になって観返したときに類似の感想を持ったり、別の視点で鑑賞するきっかけになったり。ポストを眺めつつ夏のアニメも楽しく鑑賞したいと思います。

2024年の冬アニメのベストエピソードについても書いてます↓


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