2024冬アニメ ベストエピソード10選
2024年1月~3月放送の冬アニメで良かった話数を選びました。ベストエピソードと書いてますがお気に入り回のことです。
誰かがその回について語っていたら私も会話に参加したくてたまらなくなる10の話数とその感想。
以下の目次に挙げた10作品の内容に記事内で触れています。
一部ネタバレが含まれますのでご注意ください。
ゆびさきと恋々 Sign.6「ずっと見ていたいって思ってた」
ボードにマジックで文字を書くときのさらさらした音が、雪の降る音に重なってきこえるシーンが良かったです。雪が降るようにして言葉が降り積もり、世界がその景色を変えていくのは本作の重要なモチーフだったと思います。
降り積もる言葉は、触れるものと感じたこと、感じたものとそれが心を動かすことの間に見え隠れする詩のようなもの。伝えたくても伝えられない、胸がいっぱいで言い尽くせない。世界と私、私と他者との間で、雪のように降り積もるたくさんの言葉にならない思いを募らせる存在としてキャラクターたちが描かれていました。オープニングアニメーションの冒頭のカットにもそうしたテーマを感じます。
言葉になって外の世界へと出ていく言葉以前の言葉の降る領域(外の世界と対置された内の世界)を一人ひとり生きていて、関係することや触れ合うことを相手の"世界に入る(ふれる)"と表現しているところに惹かれます。
ろう学校が世界の全てだったと回想する雪。外からの光を透過させ、内に向けた色彩を作るステンドグラスに外の世界を見ていた雪は、同じ瞳の輝きの中で逸臣の姿を捉えます(第2話)ためらいなく知らない場所へと踏み出していく逸臣は、自分の知らない外の光をうけてその色彩を鮮やかにする存在に見えたかもしれません。逸臣と接しながら知らなかった感情を降り積もらせていきます。
雪にとって逸臣が世界の光を透過させる存在であるように、透明なグラスに雪を重ねる逸臣にとっても雪は外からの光を透過させる存在だったと思います(第6話)
「世界は広いですか?」という言葉は、逸臣と逸臣から見える世界を知ろうと踏み出した台詞に感じました。その言葉を受けた逸臣も雪の世界から見える世界を知ろうと「雪の世界に入れて」と歩み寄ります。
言葉にならない感情を抱えながら、それでも思いを伝えようとして選び、外に向けられた言葉は、互いの世界を透過してきます。透過する際、感情全てを伝えるには短いように思える言葉は、特別な響きを持って相手に届きます。その様子は、第1話から瞳の作画で表現されていました。
雪と逸臣は互いのことを自分の知らない景色を見て、知らない時間を過ごす存在として捉えていました。二人の言葉は常に、そうした知らない世界へと踏み出すようにして交わされていきます。
第6話で印象的だったのは、雪と逸臣の短い言葉でのやり取りと外を降る雪シーンが、繰り返し交互に描かれていくところ。互いの世界に向けられた言葉が言葉の意味合いをこえて内側で響き、感情を募らせていく様子が外の世界の情景を通して表現されているようでした。
言葉以前の言葉の降る領域をそれぞれの世界として描き、相手の世界へ踏み出して手渡される言葉(世界をこえて届いてしまう言葉)を通して交流を描いた本作は、何よりもコミュニケーションについての気づきにあふれた作品だったと思います。
自分と他者との間の外からは見えない二人の世界に言葉にならない思いを抱えはじめ、思い募らせていく心や桜志の世界の表現もとても良かったです。屋上で一緒に過ごし、借りたCDを聴いた心の時間、手話を忘れなかった桜志の時間。言葉が届いた瞬間を覚えていて、今も届く瞬間を生き続けて世界を行き来する逸臣とは対照的に思える(両者とも逸臣と関係する雪やエマへの思いを通して描かれる)のですが、自らの言葉の反響のなかにも世界が描かれていたのが面白かったです。私もどちからというとそっち。
自分自身とのコミュニケーションは、他の作品ではあまりメインの題材にならない印象だったので、それをテーマにした話数(第8話や第10話)は新鮮に感じました。逸臣ツアーに連れ出されるとことか。雪と自分との世界の間で様々なものをみている頑なさに対して、逸臣の世界もあることをみせた上で言葉を重ねていく展開は、互いの世界を感じつつ言葉をやり取りするのとはまた異なるコミュニケーションなのですが、他者とのやり取りは世界のふれあいそのものであるというテーマが別の角度から描かれていたと思います。逸臣は、桜志の世界にも入っていこうとしてる
第2話で描かれた、雪の背中を押し、知らない世界へと手を引いていくりんのキャラクターも印象的です。りんの世界、もっと観てみたいなと感じました。原作買おうかな
最弱テイマーはゴミ拾いの旅を始めました。 第1話「ひとりの旅へ」
楽曲『アイビーの悲しい思い出』を背景に、アイビーは消える運命にあるソラと世界との間に立って「私が風除けになってあげる」と声をかけ、世界から見捨てられた生い立ちを話すときに流れる『不安と寂しさ』の終盤では「君に会えて良かった」とソラに笑顔で語りかけます。
誰よりも不安や悲しみを感じているはずのアイビーが、そうした感情に飲み込まれず(楽曲で表現された感情を抱きつつも)、自分と同じこの世界には居場所のない存在を一番に考え寄り添い続けようとする姿が、効果的に用いられた劇伴を通して描かれていました。
背景美術では、魔物の潜む森や沼地、追跡者が彷徨う捨て場や切り立った崖、ソラを吹き飛ばす風やソラにとっては流れの速い川など、アイビーがひとりで生きている自然が、一歩間違えると命を失いかねない危険と隣り合わせの場所として表現されています。
そうした表現と平行して、自然はアイビーに別の価値をもたらす場所でもあることが描かれていました。森からは生きるための命を、捨て場からは生きるための道具を。水はアイビーを包み込み、風はソラとの出会いを運びます。切り立った崖は、進む先の果てのない世界を見渡し決意する始まりの場所として。危険が強調されたスライム、魔物であるはずのソラの存在。
星なし=不吉で不要の等式しか許さない、価値観の狭窄された世界は、世界から見捨てられたアイビーの周辺で多様な意味合いを持って立ち上がってきます。
特に印象的だったのは、たくさんの星が輝く夜空の背景。星なしのアイビーにとって、この世界は星の有無で生や未来の価値が決まる場所です。捨てられた子が捨てられたものを拾いながら生きるしかないことにアイビー自身皮肉を感じていたように、星なしの子がひとり夜をやり過ごす場所が、満点の星空の下であるのは"フェミシア"にとって手を伸ばしても届かない、どこか遠く冷たい象徴の空であったのではないかと想像します。
世界から見捨てられ続けたアイビーは、それでもこの世界を呪いませんでした。危険で多くを奪う場所であると同時に、多様な意味合いをもたらし、価値を拾い上げることが出来るこの世界をアイビーはひとり生き続けます。
アイビーが「星なしってそんなに悪いことなのかな」とつぶやくとき遠く冷たい象徴の空にも見えた星空。ソラに向かって笑顔で「君に会えて良かった」と語るときには、別の意味合いを持ってアイビーの背景で輝いているように見えました。
世界から見捨てられ続けてもアイビーがアイビーであり続けたように、星空は様々なものを連れ去り価値を大きく変えてしまうこの世界にあって変わらないものとして輝き続けている……これまで描かれてきたアイビーの変わらぬ強さと多様な意味合いの中で描かれてきた背景美術とが、その絵を美しく重ねる瞬間が映されていたように感じます。
とても良い第1話だと思いました。
スキルを与えた神の沈黙をどう捉えるか、みたいな大きなテーマで考えてみても面白いです。
最初のカットから驚きでした。テーマとぴったりな接写がバッチリ決まったレイアウトってやっぱりカッコ良いです。地図のなかにいたソラの絵は『バグズ・ライフ』の望遠鏡みたいな感じで、アイビーにとってのソラがどういった存在になるかを一つのカットで表した面白い絵だったと思います。
徐々に世界観が見えてくる小説を映像化するときは特に、第1話における背景美術やその背景美術を生きるキャラクターの躍動って大切なつかみだと思うのですが、アイビーとはどんな強さを持っていて、アイビーが生きる世界はどういう場所で、その世界とアイビーはどう関係して生きているかを旅立ちの決意やソラとの出会いを描きつつ、テイマーのスキルを使うラスト(この世界からの祝福カット)まで繋げてあって良かったです。果てのない旅の入り方とEDのアニメーション
OPも好き。『君は放課後インソムニア』傑作エピソード第10話の絵コンテ・演出担当の横手颯太さんがオープニングアニメーションの絵コンテ・演出を手がけられています。
魔法少女にあこがれて 第十二話「総帥マジアベーゼの決断」
第三話の爆裂娘回と迷ったのですが、第十二話を選びます。
うてなの原点には、決してあきらめない強い魔法少女への憧れがありました。遠くから眺めるその距離に揺るがなかった憧れは、至近距離で魔法少女と対峙できる存在になったことで、思わぬ形となって表出します。力を得たばかりの頃は、戸惑いながらもその力をふるい、ひるまないはずの魔法少女がみせる知らない表情に、憧れとはまた別の感情を抱いていました。
面白いと感じたのは、手に入れた力を、魔法少女があきらめないことを選ぶ、その選択に介入できる強大な力として捉え、行使するようになっていく展開です。どれだけ自分が対抗しても魔法少女は再び立ち上がる、再び立ち上がった魔法少女の前に立ちふさがっても魔法少女は決してひるまない。
あまりある力、憧れていた対象を支配することすらできる力を持ちながらも、憧れの魔法少女を奮起させる目的のために力をふるうようになっていきます。魔法少女という存在を左右できる力を得たうてなが選んだのは、原点にあった憧れの中で魔法少女を見続ける道でした。
憧れの存在を自分にとって都合の良い形に変えてしまえる強大な力を得ても、原点にあった憧れを持ち続けることにこそ、その力を行使していく……そうした展開の中で再構築されていく"あこがれ"描写がとても面白かったです。
力を自覚的に行使するうてなと対比されていたのがロード団のロードエノルメでした。強大な力を得たロードエノルメは他者の尊厳を奪う目的でその力を行使する強大な力に駆動された存在として描かれていました。うてなと似た能力に設定されていたのは、与えられた力(自分には大きすぎる力)を両者がどう捉えているか、その明確な違いを描くためであるよう感じます。
ロードエノルメは世界征服という他の悪役の借り物の言葉で、自らが強大な力をふるう理由を説明します。うてなは、ロードエノルメの借り物の言葉(原点のない言葉)で、魔法少女狩りが行われている事実に激昂しました。うてながロードエノルメと向かい合ったとき、憧れと魔法少女の存在を再定義した新しい悪役像が旧来の悪役をこえて輝く瞬間を見る思いでした……
ロードエノルメへの文字通りのお仕置き。再起かかってないお仕置きなのもうてなが疲弊した理由なのかもです。自分の想像をこえる形で立ち上がってくる姿が見られない、鞭の後のアメがないというか。鞭を振るってるのはうてななのですが。考えてみるとうてなが力をふるうほど再起する姿が見られる魔法少女再起の憧れスパイラルというのは天才的な仕組み。変態でないとちょっと思いつかないです。
第12話をベストエピソードに選んだのは冬アニメの中で最も平和なエピソードのひとつだと感じたからです。街のために奉仕活動する変身前の魔法少女たち、穏やかな日常描写とその裏で開かれる悪役会議、突如として現れる悪の組織、立ち向かう魔法少女と見守る子供、苦戦を強いられながらも声援に力を得てあきらめず最後まで戦う姿……どこかに魔法少女もののテンプレというものが存在するのであれば、これほどわかりやすい魔法少女もののテンプレもないと思うのですが、そういう先のわかる展開をなぞりながらも新鮮さを感じるのは、強大な力をどのように行使して魔法少女と対峙していくかという、ロード団戦で明確に宣言された新しい悪役ならではの"マジアベーゼの決断"の魅力の枠内(しっかりした土台の上)を遊び場に、各々魅力的なキャラクターたちがその魅力を最大限に発揮しながら戯れているからだと思います。
遊び場といえば、おもちゃ屋さんのプレイパークも舞台の一つになってました。遊び場でワイワイするこりすやはるか妹を眺める保護者目線のキウィたちが、その後街を遊び場に好き放題やってるスケールの間違え方には笑いました。戯れ宣言の場となる会議も面白かったです。新しい悪役による新しい悪役会議の形がそこにありました。2話前と打って変わって俯瞰枠にちゃっかりおさまっている真珠とネモ。時々特撮も交じる受け皿の広さ。
推しを好きなようにできる力を得たうてなが推しとの適切な距離を考えた上で改めて推しを全力で推していくことを決断する物語でもあったような気がします。そうしたお話の先で、表面上は凛とした姿を取り戻したアズールとの握手がありました。すごいマッチポンプ。
うてなを全力で愛すキウィ、眠るまで遊び続けるこりす。一番したいことに得た力を注ぎ続けるところが良いです。悪の力に駆動されるのではなく、悪の力をもって好きを駆動させる、力に溺れるのとはまた違った力へのおぼれ方が本作の魅力と言えます。
ここまで色々書いてきた"まほあこ"の魅力についてはエンディングテーマ「とげとげサディスティック」で全部歌われているというか……聴けば一発です。
憧れをこえて支配することすらできる強大な力への嬉しい戸惑いのメタファーと第1話を観たとき思ってたプレイも、ここまで様々な形をとって継続して描かれていると逆にすごい。水神さんが第2話の廊下でうてなにかけた言葉とか、第6話のこりすとはるかの約束であるとか、その他たくさんの日常で交わされた台詞を思い出しながら第12話を観ていてとても平和に感じました。あと後ろの方でキャラクターが自由にわちゃわちゃしてる描写(第8話冒頭のこりすとキウィのやり取りとか)が大好きなのでこの回でも相変わらずなところ観られて良かったです。
葬送のフリーレン #27「人間の時代」
過去の時間が、現在に欠けたものを満たす過去に閉じた郷愁としてではなく、現在に影響を与え現在と同時に存在する絆として描かれているところがフリーレンの回想の面白さだと感じます。
自己充足的な回想は、過ぎ去ったものたちを満たされない現在に奉仕させることでその形を変容させますが、フリーレンの回想は、現在の時間の流れの中に過ぎ去った者たちの姿を見て、その声を現在を生きる者たちへ伝えます。何よりも真実である現在とは断つことのできない繋がりの中に過去の時間が描かれていました。どのキャラクターも過去を「おぼえている」と話します。
過去の時間は、フリーレンが"人間"と共に過した年月でした。永遠に近い時を生きるエルフにとってはほんの僅かな時間。その短い時間がフリーレンの永遠に大きな影響を与えます。
第2クールで描かれた一級魔法使い選抜試験。第一次〜第二次試験を通して"動"の作画で描く試験本番と、その幕間を"静"の芝居で描いた魔法都市オイサーストで過ごす余暇。"動"で描かれる試験は、短い試験期間を通じて合否を決めるもので、相応しい人物であるかどうかが僅かな時間で判断されます。"静"では、試験が始まる前にはなかった受験者同士の関わりが描かれ、僅かな時間が合否の決定に留まらず何よりも他者の間に感情を生む、という側面が強調されていたように感じました。
過去をただ過ぎ去ったものに限定しないように、人生におけるほんの僅かな時間を僅かなものに限定しないその語りが新鮮でした。人の人生においてほんの僅かな時間で合否が判定される試験という題材と平行してこうしたテーマが描かれているのはどこか批評的です。
僅かな時間(出会い)が、その後の人生に大きな影響を与えるモチーフは、フリーレンにとってのヒンメル、ヒンメルにとってのフリーレン、デンケンにとってのフリーレン、ヴィアベルにとってのヒンメルやフェルンにとってのハイター、そしてゼーリエにとってのかつての人間の弟子たち、といったように繰り返し描かれてきました。
それら数多くのモチーフの反覆の背景には、長い年月を生きてきたゼーリエやフリーレンの眼差しがあります。エルフに比較するとあまりにも"僅か"であるはずの人の時間。本作で人という存在は、その生の中で自らの想いを言葉に変え、言葉を交流に、そして交流を他者との生の交わりにつないでいく存在として描かれてきました。一人の"僅か"な時を引き伸ばすように結ばれていく(出会っていく)人の時間は、やがて人間の時代を形作ります。
ゼーリエが庭に佇む姿と、花を見つめ、手に触れるシーンが印象的でした。僅かな時間に咲き誇り枯れてゆく花たちは人間の象徴でもあり、その庭はゼーリエにとって多くの記憶が眠る場所だったと思います。
フリーレンが「花畑を出す魔法」にフランメを思い出すように、ゼーリエにとっても魔法と人の記憶とは密接に結びついたものでした。フリーレンは花畑の魔法にヒンメルとフランメを思い出します。咲いては枯れてゆく花たちに人の記憶を重ねているように見えるゼーリエは、花畑を眺めるとき、一つひとつの花の中に人の記憶とそこにある魔法を見ていたのではないかと想像しました。
フリーレンが花畑を一つのものと捉えているのと良い意味で対照的な眼差しです。誰よりも魔法を知るゼーリエにとって花畑は人の記憶と結びつくもの。その一つひとつの花に魔法を見ている存在がゼーリエなのかなと。
どんな魔法が好きか尋ねるゼーリエの心境には、好きな魔法から人となりを知ること以外にも、自分がその魔法を手渡せることや魔法と結びつけて覚えておこうとする感情もあったのではないかと想像します。花の一つひとつに人の存在を見るがゆえに花畑としては括れず、魔法が人の記憶と結びつき、好きな魔法を決めるにはあまりにも多くの弟子たちの記憶を抱えたゼーリエ。”すべての魔法を知る”とは、そういった存在であると思います。
疑問なく言い切ってしまえるフリーレンはまだ若い存在であったかもしれません。ただ、自分と同じように、魔法と人の記憶とを結びつけて語るフリーレンに、自分と似たものを感じたのも確かだと思います。
ヒンメルたちの記憶が今もその場所に眠る記憶を拾い上げていく旅路は、まだ見ぬ魔法と人の結びつきを知り、花畑の花の一つひとつに溢れる人の記憶をみたその果てで再びゼーリエと向き合う物語でもあるのかなと想像を膨らませてみます。1000年後とかに
この回では、合否を決めるために好きな魔法を尋ねますが、合否の判断材料であるはずの好きな魔法というテーマも、第2クールの試験における組み合わせが試験をこえた出会いとして描かれていったように、今後より豊かなテーマのなかで描かれていくのではないかと考えました。
……魔族にとっての言葉を描いたアウラ回とかもそうなのですが第2クールも言葉の描かれ方が良かったですよね。複製体と対峙したとき言葉をもってこえていくところ。第26話も素晴らしかったので迷ったのですが、この回のリヒターやゼーリエ大好きだったので第27話を選びます。
ゼーリエは想ってることたぶん全然言葉にしないですし(伝えるにはあまりにも時間が短すぎるため)、僅かな時間を過ごすフェルンにかける言葉とかもあえてそういう言葉を!という感じでじりじりしながら(?)観てました。フェルンに、自分の師匠が誰であるかをばっちり宣言されてしまうゼーリエ。顔を背ける一瞬にみえたあの表情、素晴らしかったです。忘れられないカットになりました。
ゼーリエは誰よりも人の祈りであるとか想いであるとか、忘れずにおぼえてる存在だと思います。人生で関わった人間たち全て(ほんとに全部)の記憶をつねに辿っているのだろうな、と。ゼーリエにとってこの世界はあらゆる場所にあふれるほどの記憶が眠った場所だと思います。旅をするにはあまりにも多くの人間の時代の記憶が
旅をおえたフリーレンとまた話せると良いです。
異修羅 第11話 「落日の時」
キャラクター同士の"かち合い"が最高に面白かった話数を選ぶならこれです。エピソードごとに一人ひとりのキャラクターを描いてきた先にこういう回がみられて嬉しかったですね。
陥落するリチアの尖塔に残されたカーテとレグネジィ。そこに足を踏み入れるハルゲント。ハルゲントが来た=アルスも多分来るだろうと想像出来る(?)のですが、本来共生不可能なはずの人間と竜族の間に奇跡的に芽生えた絆をもつ二組が、運命のいたずらか、交わってしまうこの場面にとても興奮しました。
アルスにとってハルゲントの生き様というか存在は星馳せアルスを星馳せアルスたらしめる根本に関わっていると思うのですが、ハルゲントは未だそうした大きすぎる感情を向けられることが生理的に受け入れられないでいます。絆なんてものは生まれるはずがないと。
生まれ故郷を破壊され光を喪失したカーテをこの世界に繋ぎ止めた歌詞のない歌の旋律を何にも増して大切なものであると感じているレグネジィは、カーテが目覚めたあとも見続ける悪夢の代わりに、自らの身体に触れさせないことで夢想を与え続けていました。カーテはそうしたレグネジィとの日常を、触れて読むことのできる文字として書き記します。リチアの独立以前から関係している二人にとって、独立した新公国の短い歴史は、そのまま二人が会って言葉を交わし続けた時間でもあると想像します。彼方にはない詞術が種族をこえた交流を可能なものとしてそこに絆が生まれる……
リチアが陥落する落日の時は、独立以前から関係し続けたレグネジィとカーテにとっての終わりの日。その瞬間にハルゲントは立ち会い、人間と竜族の間に生まれる絆を(存在に心当たりがあっても受け入れられないでいる絆を)目の当たりにします。
否定する言葉をどこかで願うようにしてカーテへと言葉を投げ続けますが、窮地に現れたアルスが決着を付け、ついにその言葉を聞くことなく全ては沈黙の中へ。繋がれた手と混じり合う血だけが残されました。
遠い鉤爪のユノが仕掛けたかち合いも良かったです。絶対的強者の驕りというか無関心に怒りを煮えたぎらせているユノは、ソウジロウと同じ言葉をダカイが口にしたのを聞いてその死を望みます。強者の自由には、弱者の人生を矮小化することや弱者が否定する言葉をねじ伏せることなどほとんど全ての事柄が弱者の自由を奪う形で含まれています。強者の自由に対して、ユノは別の強者の自由をかち合わせることで復讐を遂げようと画策しました。
世界逸脱の剣技+殺戮直感と絶対先手の魔剣+挙動の起こりを見通す観察眼の衝突。その最強同士の争いの描写が非常に面白かったです。最強が組み立てた絶命に至る手順は、観察眼が把握して繰り出す先手をも含みますよ、と"わからせる"戦闘描写の設計とその美しい流れ。弱者の自由の剥奪を含む形で成る強者の自由への対抗としての最強の屈伏を可能にする最強の存在の証明。ダカイがユノを見たときそこにある表情が、ダカイたち強者の無関心の果ての戦禍で修羅に墜ちた"この世界"を体現しているように思われました。素晴らしいカット(表情)だったと感じます。上覧試合映像化への期待がすごい高まる……
弱キャラ友崎くん 2nd STAGE Lv.5「初期装備を鍛え続けたら、だいたい最強の剣になる」
たまちゃん編。友崎は日南から、たまちゃんはみみみから離れた場所で行動します。その距離感のなかで、友崎にとって日南はどういう存在であるか、たまちゃんにとってみみみの存在がどれほど大きいか、浮き彫りになっていく面白い展開だったと思います。
例えば、たまちゃんが鞄に付けた"はにわ"のストラップを見るシーン。そこに数多くのみみみエピソードが繋がれているように感じられるのは、みみみがその場にいなくてもみみみの存在がたまちゃんの支えになっていると思うからです。ストラップを壊されることはその絆を蔑ろにされること。何よりもみみみの悲しみに繋がることにたまちゃんは傷つきます。
友崎にとって日南は、人生というゲームに色を付けた存在。誰よりも上手くプレイしている日南の様子がいつもと異なるのを離れた場所から観察していました。ゲームに臨む信条を曲げ、理論ではなく感情で結論付けたゴールに向かって頑なに進む姿にこれまでみたことのない日南の一面をみます。
たまちゃんとみみみの間、友崎と日南の間にある見えない思いと平行して描かれるのは、みんなの間に漂う見えない"空気"でした。言葉にされない空気の動きのなかでは、誰かを傷つける行為も流れによっては罰として共有され、非難されることなく流れ去っていきます。そんな空気の流れを前にしてどう振る舞うかに、日南とたまちゃんのキャラクターが描写されていたと思います。
紺野の誤解を誘発してその誤解を諭すことによって辱めるために日南は空気をコントロールしました。たまちゃんは空気の中で非難されることなく流れ去っていくみんなの行為を芯の部分で感じている正しさの基準で叱咤し空気そのものを変えます。自分の正しさの基準を変えずに持ち続けていたたまちゃんと、たまちゃんが変わることを拒み、歪なものへと変わっていく仮面に身を潜めた日南という存在。たまちゃんが持ち前の真っ直ぐさで日南を見つめる姿が印象に残ります。その光が照らす先にくっきりと見えたのは、友崎が理解したいと強く思う日南の影でもありました。
"間"をどう捉え"間"に向かってどのように詰めていくか。一見強キャラが有利に思えるそうした場の流れや人の間に漂う空気といったものを多様に描いていく展開が面白かったですね。あえて表情をみせないコンテの魅力。
弱キャラ友崎くんは、キャラクター同士の"間"の描写が魅力的だなぁと感じます。水沢が時々友崎にもらす抽象的な感想に友崎が「?」となるシーンとか、友崎とみみみの間に流れている夫婦漫才で隠された矢印とか。みみみが仲のいいクラスメート一人ひとりへの思いを語ったときたまちゃんが打ちのめされたエピソードや菊池さんが「なにも考えてない人なんて、きっと一人もいません」と語ったときに水沢が驚いたシーン。誰かと誰かの間で言葉にされずみえないまま漂っていた思いが声になったとき、それを自分なりに精一杯受け止めようとする他者の存在ってすごい貴重だと思います。
僕の心のヤバイやつ karte18「山田は僕が好き」
半年前には想像していなかった教室の風景の中にいる現在の市川と市川を取り巻く山田たち、を前田先生が見守るコマ(原作第6巻 karte.82)を見て何か込み上げるものがありました。
気持ちが伝わりそうになることや自分を知られることを怖いと感じている市川にとって、自分の心の声は、ときどき本心とは違う感情をささやくものでした。本心とは違う心の声をきき、心の声とも違う言葉を口にする、わからない自分の心(厄介な胸の内)を抱えたキャラクターとしてこれまで描かれてきたと思います。
スクールカーストの最上位の存在とだけ認識していた陽キャ山田の光に、わからない自分の心の影を濃くするように陰キャしていた市川は、山田の意外な一面を度々目にするようになり、不本意にも心を乱されていく内に、山田もまた、わからない存在であると知ります。山田のつぶやく言葉や山田のみせる表情といった何よりも目の前に実在していて"わかる"事実に直面した市川は、山田とは何なのかわからない自分の心の内で考えようとします。
山田と関係することが、自分の本当の気持ちと向き合うこととして描かれ、自らの心の影をただ濃くするだけだと思っていた山田の光は、市川の心を照らす光として読み替えられていきます。その光に照らして自分を知ること(好きになること)が、相手を知ること(好意に気づく、好きになること)に繋がるというテーマが描かれてきました。
山田と関係することと同時に描かれてきたのが、市川を取り巻く人々と過去の市川についてです。山田以外の他者もわからない存在であり、今の自分と過去の自分との距離(や変化)もわからないもの。山田と向き合い変わっていく市川から切り離されず描写されていたのが、このエピソードにおける"ナンパイ"こと南条先輩と小学生の頃の自分でした。
山田との関係性と平行して、南条先輩と小学生の頃の自分が同時に描かれたエピソードであるkarte9「僕は山田が嫌い」(原作第3巻 karte.42、43)が印象的です。山田と向き合う市川が、本心とは違う心の声や自身の言葉と相対するエピソードでした。本心とは違う心の声を別の言葉で口にする根っこには傷つきたくない思いがあり、市川自身、殻に閉じこもる弱さと捉える振る舞いではあるのですが、その弱さの中にあった、キライであるはずのナンパイの"あんな顔見たくなかった"と感じる市川や傷つかないように鎧をまとっていた過去の市川の姿も市川の持つ大きな魅力であると感じます。必死に感情を押し込めて自分を守っていたあの頃の市川の姿が、今に通じる道を歩むきっかけであったのは、山田が市川に手渡した言葉でもありました。
karte18では、"山田と会えなかったら見上げなかった景色"について描きながら、南条先輩の本気の声を聞き、過去の自分が立った舞台に再び立つ市川の姿を通して、自分自身の気持ちと向き合いながら歩いてきた景色についても同時に描かれていました。その景色から見えた言葉を正面から受け取る南条先輩の表情を通して、市川以外のキャラクターたちも市川と同じようにそれぞれのやり方で気持ちと向き合いながら市川とどこか"似ている"思春期を過ごしきた存在であることが描かれていたように思います。自分と他者との違いを踏まえた上で、自らの心の動きと似たものを他者に見出すとき、他者への理解が始まるというテーマはこれまで繰り返し描かれてきました。南条先輩に市川が向けた言葉でもあります。
舞台を去ったあと、過去の自分と同じ台詞を残す市川。ナンパイもまた以前と同じように"下手くそな罠"をはって舞台を去っていきます。自転車を川に投げることで初めて接点の出来た市川と南条先輩の関係性が、互いの言葉に触発され、それぞれのやり方で儀をとり行って過去の姿と重なるようにして舞台から下りる似た展開をなぞるまでに変化したのは何か良いなと思います。市川の周りの存在や過去をも包みこんで描く"僕ヤバ"の魅力がつまった素晴らしいエピソードだったと思います。市川の言葉がストレートに響く市川姉の良さ
ようこそ実力至上主義の教室へ 3rd Season 第8話「過去を顧みぬ者はそれを繰り返し、裁かれる。」
退学者を決めるクラス内投票。生徒たちの思惑が交錯します。そうした想いを知ってか知らずか、綾小路は戦略上得策かどうかの視点で相談を持ちかけてきたクラスメートたちに接していましたし、坂柳にいたってはクラス内投票を盤上にみたてて軽くチェスする感じで票を抱えた生徒(駒)を動かして、綾小路との真剣勝負の前哨戦(小手調べ)を楽しんでました。誰と誰を引き合わせ、誰に対して誰をぶつけるか裏から糸を引く二人。後に行われる1年度最後の特別試験を前もってなぞるような展開です。
フィクサー二人の独壇場になりそうな話なのですが、例え二人以外が盤上の駒で、自らの行動が自分より大きな存在であるプレイヤーの一手をなぞるものでしかないとしても、その一手の動きの中にキャラクターたちの芯の部分というか面白さみたいなものが見えてくる、あるいは露呈する話数だったと思います。
自らの考えで戦おうとする堀北、迷う一之瀬や苦悩する石崎、身を引こうとする龍園や自分に何ができるかを考える伊吹、坂柳が執着する綾小路の実力に懐疑的な神室、龍園の下にいて手を出せなかった伊吹に対する鬱憤を晴らそうとする真鍋、中立の立場を捨て計算尽くで利用される側にまわって暗躍する櫛田に、平穏なクラスを守ろうとする平田、この状況をどう乗り切るか話し合いを重ねる幸村や佐倉たち綾小路グループの面々、情報を収集する軽井沢、右往左往する池や須藤、そして山内……
大枠のストーリー展開(運命)は、綾小路や坂柳の手のひらの上で、綾小路や坂柳の一手に感情の行く先が操作されているだけかもしれないのですが、例えメジャーピースではない小さな存在であってもそのなかで過去と対峙したり自分という人間を突きつけられたり成長したりプレイヤーの一手を全力で駆け抜けるところ……行動が最終的に一手の枠内に収束されつつも各々の人間性の魅力や愚かさがその一手の枠内をこえてくるところが、現実の縮図であるクラスルームを舞台にした"よう実"の魅力であるなぁと改めて感じましたね。オープニングテーマ「マイナーピース」の歌詞がしみます。
この回のMVPは多くて決められないくらいみんな魅力的でした。堀北なりの戦い方に、ほぉ…となる高円寺や茶柱のようなキャラクターのここぞというときの台詞も良かったですね。憎まれ役を一手に引き受けるようにもみえる高円寺の執拗な煽り。山内にとって彼女を作ることが学園での最大目標であったことを思い出すのですが、そこのところをくすぐる坂柳を間近で見ている神室の立場に私がいたとしたら、相対してもその目は自分を見ておらず、常にその向こうにみえる綾小路という存在に眼差しを注ぐ坂柳に何を思うかちょっと想像してしまいます。坂柳とか伊吹とか手段を選ばないダーティーな一面を持つキャラって好きなのですよね。原作10巻だと龍園の部屋で行われるのですが、龍園が唐突に伊吹を押し付ける別れの挨拶シーンの描写も◎ この回の櫛田は喋り始めるだけでもう面白い。天使の仮面が剥がれるアニオリも非常に良かったです。
治癒魔法の間違った使い方 #09「終わりと始まり」
ローズが食卓を囲う部下たちを見るシーンで、テーブルに細かく付いた傷が描写されていました。日常生活を送るなかで、腕(鎧)を付いたり、食器を引いたりして付いたと思われる傷
確かコーマック・マッカーシーの小説だったと思うのですが、すり減った敷居(?)の描写が印象に残っています。その場所で躓いたりブーツを擦ったりした傷の一つひとつが、今となっては誰も覚えていない往来の名残(傷が忘れられた過去の時間をはらむもの)として描かれていました。
たくさんの時間を部下と過ごしたローズにとって、右目の傷以外の、家に残された傷の一つひとつにもアウルたちの記憶があったのではないかと想像します。ローズの涙は、傷だけが残されたテーブルの上に落ちます。
癒えない傷(癒やさない傷)をかかえたローズは、その家を拠点に、戦わず救うことを目的とした組織を作り上げることを決意しました。
印象的だったのが、敵キャラクターの描写です。人とそっくりな姿をした魔族は、人と同じように言葉を話し、師弟関係を持つ存在でした。決定的な違いは、人を倒すための手段として自ら傷を負うことを選ぶ、傷に対する躊躇のなさです。また魔族にとっての傷は、傷を残した人間たちへの復讐の目的を与える他、攻撃に反転できるものとして描かれてきました。癒える・癒やすという概念が抜け落ちた、身体から離れたところに傷を捉える存在として比較されていたように感じます。
刻まれた傷を罰と捉え、罪を忘れないため身体に残し続けるローズ(第6話)や傷つき倒れた魔族へのスズネの眼差しが印象的です(第11話)
人にとっての身体と傷が、切り離せないものとして描かれた上で、傷を癒やすための治癒魔法をどう捉え、どのように行使していくかについて描かれていました。
癒やしながら身体を鍛えられる治癒魔法は、人の域をこえた修練を可能にしますが、万能な力ではないことが語られます。癒せるものと癒せないものを知り、傷つくことの意味について誰よりも知るローズが何よりも嫌うのが、自己犠牲という自ら傷を負うこともいとわない精神でした。
魔族の傷の捉え方の決定的な違いとローズの根底にある精神が多様な傷の描写を通して描かれた過去編をベストエピソードに選びます。
ローズというキャラクターが好きなのも理由です。本作はローズがウサトに理想をたくす話でもあり、第1話からこの回にかけて覚悟を決めさせる話(特訓の話)だったのに驚いたというか。いざ魔族と対峙しても本作が描こうとしたのが戦闘ではなく傷の捉え方の違いだったり対話だったり。描くテーマが徹底されてる印象を持ちました。
ずっと魔族との戦争の危機が背景にあって、なかなか争いが起こらないとなると普通は展開に不満を持ちそうな気がするのですが、何でこんなにも面白かったのか考えてみたとき、やっぱり描こうとするテーマの柱が一本通ってたからなのかなと。その柱は第9話で描かれたローズの強い決意によって作られたもの。ローズの精神が作品全体に流れていたので、安心(?)して視聴できました。
ローズをはじめ、それまでの居場所を失ったキャラクターたちが、もう一度自分の居場所を作り上げていく話でもあったと思います。ウサトやスズネが今ここにある居場所を守る覚悟を決め、ブルリンもウサトのそばを居場所と決めた第5話も印象的。ここが自分の居場所である、と改めてキャラクターが主張するときには、必ず誰かが隣にいるのですが、第5話のウサトとスズネや第7話のウサトとカズキ、第8話のローズとアウルの会話もすごい良かったのですよね。治癒魔法は、誰かと一緒に夜を過ごすときの会話も魅力です。私の原初の記憶はゲーム『テイルズ オブ エターニア』にまつわる記憶なのですが、何で戦い前夜のキャラクター同士の会話ってあんなに面白いんでしょう。
ダンジョン飯 第8話「木苺/焼き肉」
これ食べたら危なそう、触れたらダメなやつだ、といった直感というか、自分と死が結びつきそうなものから遠ざかるのは、自然淘汰の過程でそうするよう刷り込まれてきた死を恐れる人の世界観みたいなもので、あらかじめそういう注意点の書き込まれた説明書を無意識の内に参照しながら世界と向き合っているように感じることがあります。
腐敗したものは避けるけど、発酵したものは食べる……私の場合その区別の判断基準に微生物の生命活動への想像は含まれていなかったのですが、そういう無意識の区別が、有機化合物を分解し副産物を生み出す微生物の活動領域をいつの間にか腐敗と発酵で二分していたことを知りませんでした。
死への恐怖、生の特権に基づき、目を凝らせば見えるはずの世界の複雑性を意識の外(地下)へ追いやるようにして、見えるようにしか見えない世界を普段生きているのではないかと考えたというか。自分がまだ知らないだけで、私と世界との間で余白なく結びついていると思っていた場所には空白の頁があって、その空白には微生物の生命活動といった、別の頁が存在するのかもしれないと感じたのですよね。
迷宮が、世界を認識するときに無意識の内にすがる基準点(方向感覚)を喪失する場所であり、方向感覚の喪失を触媒にしてリミナリティへ誘う(死を避けるなかで、避けてきた世界を学びなおし、人が生まれなおす)場所であるというのは、ウィル・ハント『地下世界をめぐる冒険 闇に隠された人類史』が書いた視点でした。
『ダンジョン飯』のダンジョン(迷宮)は、死者が眠る"地下墓地の底が抜け"た先にありました。ダンジョンでの死は、地上における死とは違った意味合いで描かれています。
死を避けるようにして無意識の内に選り分けてきた世界は、死の概念のねじ曲げられたダンジョンに入ることで、死を避ける前提が覆り、無意識の内に選り分けてきた基準点が喪失して、世界が単純に二分できない場所として立ち上がってきます。例えば、食べられる・食べられない(食べる・食べない)の境界の変容。
お腹をこわしたくない(死にたくない)ので自然淘汰の過程で刷り込まれた「これ食べないほうがいい」に全力で従う"無意識の選り分けの世界観"をダンジョンに持ち込んだキャラクターがマルシルだったと思います。
マルシル視点で観る『ダンジョン飯』は、選り分けの世界観に当てはめたとき、余白なく結びついていたように思えた世界の結び目が解けて、世界が空白に満ちた複雑な場所として立ち上がってくる物語でもあったのかなと感じます。始まりにある第8話のエピソードが印象的でした。
魔法学校時代のマルシルにとって、自分と魔法にかかわることは特に、余白なく結びついているものだったのではないかと考えます。精霊の繁殖実験で、ファリンの瓶から噴き上がった炎を見て、その結びつきは少しだけ解けました。
抜け穴をくぐり自然の中を自由に駆け回るファリンを見て、いつもこんなことしてるのと呆れ「ファリン」と「落ちこぼれ」を何の疑問もなく結びつけるマルシルは、木苺を口に入れるファリンを見て「訳がわらないもの」と「口に入れる」を何の疑問もなく結びつけたその行動にドン引き。訳わからなくないよと言うファリンに不信感を募らせつつ後を追うマルシルが川を飛び越え「ダンジョン」と「危険な場所」の結びつきに不安を覚えながら手を引かれた先にあった理想的なダンジョン。
学校を抜け出す通り道でしかなかった抜け穴が、理想とするダンジョンへ通じている事実に、疑問なく結びついていたはずの世界には自分の知らない空白(無意識の内に埋めていた余白)が数多く存在することを知ったマルシル。その時に食べた木苺はどのような風味であったか。
自分とダンジョンとが空白を伴い緩やかに結ばれたマルシルのその後の運命は良い意味で予定外に狂っていくのですが、その始まりには複雑な木苺の味と、ファリンとの確かな結びつきが生まれた過去がありました。マルシルがファリンとの間に別なものを結びつけたことで、物語が展開してゆくのはもう少し後の話…
過去を語る過程で、マルシルが自分と才女とをサラッと結びつけていたことに疑問を呈するチルチャックのオチの付け方の妙。
ダンジョンが想像をこえた場所であると理解していても、その余白は思わぬ形で牙を向きます(ex.ふせっているライオス)マンドレイク畑に都合がよいとマルシルが考えていた水辺も魔物にとっては大切な住処であったように、マルシルが熱湯を捨てた水場もまたそうでした。
どの部分がどのように他に影響していて、その作用がどういったものを形づくるかの総体がダンジョンであるならダンジョンとはこの世界の複雑性の縮図であると感じます。その世界は残酷にもファリンとレッドドラゴンの胃袋を結びつけた場所。マルシルはその間違った結びつきを解こうと、命すら投げ出す覚悟を持ってダンジョンそのもののあらわれであるウンディーネに立ち向かいます……
本作をマルシル視点で観たときの基準点の喪失、喪失の過程での変化(食べるはずのないものを食べるようになる変化)や世界が単純な結びつきで成り立つ場所ではないという複雑性のあらわれなど、興味深い視点がたくさんありました。
原作のコマとコマの間でも表現されているのですが、漫画の豊かな余白がこうした豊かなアニメーションで映像化されていると、私と作品との間にも見落としてしまっているたくさんの空白があるのだなぁと実感します。素晴らしいエピソードでした。
今後も自分なりにアニメと向き合いながら感想をメモしていけたらと思います。
その他の話数
『SYNDUALITY Noir』16話
『真の仲間じゃないと勇者のパーティーを追い出されたので、辺境でスローライフすることにしました2nd』第4話
『うる星やつら』第29話
『わんだふるぷりきゅあ!』第6話
『薬屋のひとりごと』#17
『姫様”拷問”の時間です』EPISODE #9
なども良かったです。
2023年の年間ベストエピソード10選についても書いてます ↓
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