修士設計を終えて

カッターの刃を折る音がまだ耳の中に響く中、修士設計審査会の発表を終えた。ここ1ヶ月ほど、ろくに寝ずに作業していたが、発表自体は難なく終えることができた。無事卒業することができそうだ。大学から自宅までのいつもの帰り道を自転車で走る。冬の冷たい空気が肌を刺すが、今日はなんだか心地いい。ぴっちり第一ボタンまで閉めたワイシャツの襟が苦しい。信号を待っている間にボタンを外しネクタイを緩めると、そうか、大学院が終わったんだなと思った。

専門学校で3年間、大学院で2年間、建築のデザインを勉強した。高校から大学へは野球特待で進学したものの大学3年の春に腰をケガし、そのまま秋には野球部を辞めてしまった。手伝いとして大学の野球部に残ることも考えられた。そして就職活動をし、大学を卒業するというのが普通。でも、そうはしなかった。やはり手に職をつけて、自分自身の技術でモノを生み出し、その対価として報酬を得る仕事がしたかったのだ。それに、自分の今通っている大学ではいい企業に入れないのではないか、いわゆる学歴コンプレックスというものがあったのも確かだ。そして私は建築を選んだ。私が野球部を辞めた次の春、私なしの野球部は前年より充実したシーズンを過ごした。私は建築の専門学校に通い始めていた。

大学4年と夜間の専門学校に通い始めた私は、文字どおりスポンジのように知識を吸収していった。今まで本当に野球しかしてこなかった私ができるのかという不安と、自分の勉強したいことが思う存分勉強できるという高揚感が私を突き動かしていた。大学はたった週一回の授業だったので、昼間はバイトをし、夜は建築の勉強をした。夜間の専門学校であったため、昼間の専門学校とは違い、大学を出たり社会人経験のある学生が多かった。学生の平均年齢は30才。入学前から建築が好きで独学で勉強していたり、美術系の学校を出たという学生もおり、勢いだけで建築の門を叩いた私よりはるかに知識のある学生も多かった。また、早慶上智などの有名大学出身者もおり、彼らはきっと優秀なのだろう、彼らにだけは負けるわけにはいかないと、不毛な闘争心を燃やしていた。しかし、コンプレックスにまみれていた当時の自分には排除しがたい感情だった。
そんな心配をよそに、専門学校に入る前から建築が好きだったり、多少勉強したことのある同級生との差は最初の1年を終える頃にはすっかり埋まってしまっていた。建築家の名前なんて安藤忠雄しか知らなかったのに、自分の好きな建築家について熱く語ることができるようになっていた。なにより、先生方の指導が素晴らしかった。のちに大学院の担当教授になっていただいた校長を始め、知性と情熱に溢れた先生がたのおかげであった。

私の通っていた建築の専門学校は早稲田大学芸術学校といい、早稲田大学の組織の中にある専門学校である。なので、3年卒業時に成績優秀であると、そのまま推薦で早稲田大学の大学院に進学することができる。芸術学校の校長が大学院の教授でもあるために、その研究室に入ることができるのだ。これは私にとって一発逆転とも思えるチャンスであった。大学がFラン大学であったことをコンプレックスにしていた私にとって、是が非でも早稲田大学大学院の学歴は得たいものだった。
芸術学校の校長は大手ゼネコンの設計部長を務めたほどの超絶エリートであり、私が人生の中で出会った中で1番の天才だと思う。初めて出会ったのは芸術学校に入学し、環境デザインの授業である。その授業が本当に面白かった。教授が実際に行って撮ってきた建築写真を見ながらああだこうだとレクチャーをするのだが、1年生にもわかる言葉で開口のデザインがいかに重要かを叩き込まれた。当時すでに60台中盤くらいの年齢であったが、その情熱はほとばしり、教室全体を包み込んだ。教室の窓は熱気で曇り、教授が貧血になるくらいに熱心に教えていただいた。結局、大学院でこの教授の研究室に入ったので、みっちり5年間指導していただいたことになる。図面の描き方からプレゼンの仕方まで、そして何より建築に限らず美しいものを作るというのはどういうことなのかという本質的なことを叩き込まれた。

順調かと思われた建築学生生活であったが、芸術学校の3年ごろになると、急に自分が課題で作った建築の良さがわからなくなってきてしまった。それで何が1番困るかというと、発表の時である。自分がよくないと思っているものを売り込むというのは悲しいことだ。講評で例えいい評価をいただいたり、褒めてもらうことがあっても、心が晴れることはなかった。それは大学院に入ってコンペをやるようになっても変わらなかった。日が経つにつれて自分は才能がないんだろうなという思いがどんどん強くなっていき、ほとんどの時間を設計以外のことに使うようになってしまった。全然建築に関係のない本を読んだり、友達の芸人のネタを書いたり、ライブを手伝ったり、そして、写真を撮ったりして過ごした。

そんな中で、今住んでいる渋谷のシェアハウスに引っ越した。1年ほど前に一度住んだことのあるシェアハウスだったが、住民の入れ替わりが激しいため、数名以外は知らない人たちが住んでいた。春になり、修士の2年になった。相変わらずの日々を送りながらそろそろ修士設計を始めなくては、と思っていた頃、シェアハウスのメンバーからみんなでプロフィール写真を撮り合う会をやりたいから撮って欲しいと言われた。当時私は建築写真をよく撮っていたのでカメラを持っていた。それで頼まれたというわけだった。建築写真に比べたらポートレートなんて簡単だろう、と思っていた。ピントを合わせて笑顔の写真が撮れればいいだろう、と思っていたが、そんなに簡単ではなかった。どうしても固い表情になってしまったり、本人の魅力を引き出せていないなという写真になってしまった。何より、撮影自体が楽しいと思えるものではなかった。友人の写真をうまく撮れなかったということがなぜだか無性に悔しくて、そこからYoutubeなどでポートレートの技術を教えてくれているチャンネルを見漁った。幸い、今の時代にネットからアクセスできない情報を探す方が難しく、多分にもれずポートレートの基本技術もそうだった。たまたま、シェアハウスには女優、ミスコンファイナリスト、ヘアメイクなど、写真を必要とすることが何かと多い職業の人に囲まれていたため、度々撮影に駆り出されたし、練習させてほしいとお願いした。

そうこうしているうちに、撮影のなかで最初よりは自分の思い通りに撮影ができるようになり、撮影自体が楽しいと感じるようになった。人づてに撮影させていただける被写体の数も増えていき、ポートフォリオが作れるまでになった。ポートレートを撮影し始めてからわずか数ヶ月でのことであった。ポートレートを撮ることが自分にはあってるかもしれない。建築を始めたばかりの頃に感じていた手応えとは違ったものを確かに感じていた。

建築を設計することとは違い、写真、特にポートレートはよりスポーツに近いと感じた。すばらしい瞬間を待ち構え、逃さずシャッターを切る。写真は常に打席であり、試合であった。当然準備は必要でやればやるほど良いのだけれども、結局は打席で結果を出すということだ。ロケハンはいくらでもできるけれども、当日のコンディション、被写体のテンション、自分のテンションはその日その瞬間にならないとわからない。前もってやっておくということができない刹那的なパフォーマンスを求められるものだ。

コマーシャルフォトという雑誌の巻末には求人欄があり、個人のフォトグラファーから撮影スタジオのアシスタントまで様々な求人が載っていた。その中に「松濤スタジオ」という撮影スタジオのアシスタント募集が載っていた。場所を調べてみると私の住んでいるシェアハウスからなんと歩いて5分という好立地にあることがわかった。広告代理店の制作会社に入社することや写真家に直でアシスタントに付くことは写真学校やスタジオでの経験がないと厳しいということはなんとなく調べてみて分かっていたので、撮影スタジオのアシスタントに応募してみることにした。有名な写真家でも下積みをスタジオのアシスタントで経験したという人は結構いた。そしてコマーシャルフォトのフォトグラファー名鑑を数年分ヤフオクで落札し、データを取って、どのスタジオのアシスタントから独立してコマーシャルフォトのフォトグラファー名鑑に載るまでになったのかというのを調べた。そうすると、自ずと都内のスタジオで何回も名前が出てくるところがあったので、一通りそこを受けてみて、ダメだったら諦めて建築をやっていこうと考えていた。すでに募集を終了しているスタジオもあり、私は松濤スタジオを含む4社の選考に望むことにした。

コロナ禍での就職活動ということで厳しい状況であることは覚悟していたが、説明会で社長は「1人が2人しか取らない」と明言した。説明会が終わると履歴書を回収され、これをもって選考を受ける意思確認とされた。説明会は2回開催されたため、およそ30人が選考を受けていると予想できた。これだけの狭き門だと写真系の学校を出ていないは自分は厳しいだろうと思われた。しかし、結果は採用だった。採用を通知する電話では社長から「田村くん、おもしろかったから取っちゃったよ。よろしくね」と言われた。

卒業後の進路も決まり、いよいよ修士設計に取りかからなくてはいけない時期に差し掛かった。夏休みも終わり、修士設計のテーマや研究部分も固まってきて、デザインをするという段階に入った。しかし、どう考えてもいい建築にはなりそうな気がしなかった。いくらトレーシングペーパーを黒く汚しても、その暗闇からは光り輝くものは生まれてこなかった。鉛筆の芯が右手小指側を黒光りさせる。その手を見るたびに自分の才能の無さと、明らかに建築以外の進路に進むからという言い訳を自分にしていることがわかった。別に写真でやっていくなら建築の設計なんて適当にやってしまえばいいという気持ちに加え、大学院なんてやめてしまっても全く問題ないのではないかと考えていた。一言で表すなら「逃げたい!!!」ということだった。エヴァンゲリオンは大好きな作品だが、この時ばかりは逃げてもいいんじゃないかと思えて仕方がなかった。きっと碇シンジも修士設計の前では初号機には乗り込まずに逃げ帰ることだろう。その反面、こんな修士設計ができないようじゃ写真の仕事も結局つらくなったところで逃げ出すようになってしまうのではないか、だからちゃんとやり遂げなくてはダメだというおよそ目も当てられない本質的ではない理由で目の前の机になんとか座っていることができたのだった。

これだというアイディアも出ず、とうとう年末になってしまった。提出まで1ヶ月余りしかの凝っていないにも関わらず、私の選んだ敷地にはまだ一本の線も引かれていなかった。いや、無数に線を引いたはずなのだが、それが一筋の光となる線は一本もなかったというだけだ。もしくはそれが光であることに気がつかないほど私が盲目であるのかもしれなかった。もう、流石にダメかもしれない。そう思うには十分だった。今から仮に提出できたとしてもどうしようもないものしかできない。だったらそんな恥ずかしい作品を出すくらいなら潔くやめてしまった方が男らしいのではないかと思った。そんな口に出すのも憚れるような情けない思いも、自分の胸のうちに秘めておくこともできないくらい追い込まれていたのだろう、私は周りの友達という友達にその旨をぶちまけまくってしまっていた。よくこんな情けない大男を皆は見捨てなかったなと振り返ってみて思うが、私の顔は完全に参っていたのだろう、口を揃えて「あとちょっとなんだから卒業しなよ」と優しく言うのであった。

しかし当然「あとちょっとだから」と言われて「よし頑張ろう」なんて思えるはずもなく、そもそもそう思えるんだったらこんな有様にもなってないのであって、私はますますひねくれていった。何より、あとちょっとだから辛いんだよ、提出が近くてこんな有様だから嫌なんだよと思っていた。しかし、こんなニトログリセリン並みに取り扱いがややこしくなってしまった私に天啓とも言える言葉を授けてくれた友人がいた。その友人がいった一言は「卒業した方がなんかおもろいよ」だった。なるほど、確かにそうだと思った。わざわざ建築の大学院を卒業してるのにカメラやってるっておもしろいな。なんか、真性の阿呆のようなただならぬ気配を漂わせることができるのではないか。卒業した方がおもろいからなんて理由で修士計画にのぞむ奴なんて他にいるだろうか。しかし、少なくとも私にとって1番しっくりきた理由が「おもろいやつになりたいから」という理由だったのだ。

思えば、いつだっておもろいと思われたくてどうしようもなかった人生だったかもしれない。結構イタいやつだと自分でも思う。けれど「おもろ」が私の原動力なのは何よりも確かであることがこの一件でわかった。私はおもろいやつになるために修士設計の最後の1ヶ月間をやりきった。本当に寝る時間がなくて、つらくて大変で困難で泣きそうだったけれども、このモチベーションとモンスターエナジードリンクの力で乗り切った。手伝いにもたくさんきてくれた。芸術学校の先輩や同級生、大学院の研究室の違う同期、そして建築をやったことない人もなぜか結構きてくれた。その時は模型ではなくご飯を作ってもらった。本当にありがたかった。

修士設計を終え、大学院でやることももうなくなった。終わってしまった今、振り返ると本当にあっけなかったように思う。タスクから解放されたが、解放感は数日で消え失せ、ぼうっと世界との間に一枚半透明の薄い膜があるかのような感覚の中、日々を過ごしている。
あれだけ気にしていた学歴のことも、手にしてしまうとあっけないというか、これで飯が食えるわけではないということがよくわかった。こんなことに固執していた自分が心底恥ずかしいと思った。でも、それ以上に本質的に学ぶことが何よりも自分の財産になる。結局建築をやるということはこれで一旦は修了し、Vector worksはアンインストールすることにする。でも、建築を学んでいなかったら、多分写真も何もやらずにいたと思う。

そして、大学院を修了した今、これでどのくらい私の人生がおもろくなったかはわからない。が、ただ一つだけ確かなことがある。今めっちゃ人生おもろい。

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