雨乞い

私は、何度も雨乞いをしたことがある。

野球は屋外で行われるスポーツのため、雨が降ったら当然グラウンドでの練習ができない。屋根付きのブルペンや室内練習場、校舎の階段でできることは限られているため、軽い練習で終わるのがお決まりだった。なので、野球部員と言う生き物はわずかな空や風の変化を見逃すことはない。あ、これ雨降るな、と勘の悪い一部の部員をのぞきほぼ全員が同時に降雨の気配を予感する。
しかしながら雨の中でも野球はできないことはない。プロ野球や甲子園の中継で選手が雨の中泥だらけになりながら試合をしている様を見たことがある人は多いだろう。でも内心みんな仕方ないなあと思いながらプレーしている事を野球経験者は知っている。

高校時代は部員が皆雨乞いに積極的だった。私の高校の野球部員は3学年で合わせると150人近くの部員を擁しており、コーチの目の行き届くグラウンドから溢れかえった選手たちがグラウンド外の小さな空き地のようなところで基礎練習を延々と繰り返していた。賽の河原の石を積むが如き所業だ。中でもブルペンはグラウンドのコーチからは決して見えない死角に位置しており、格好の雨乞いスポットであった。私はキャッチャーだったので、よくブルペンにいた。しかも、当時のピッチングコーチはその指導的立場でありながらも、雨乞いを許し、むしろ促し、さながら司祭のようなありさまだった。ブルペンにあるマウンドのてっぺんにコーチが仁王立ちし、選手たちはマウンドの麓でその時のコーチの気分に合わせた珍妙な踊りを踊らされる。祭壇と教徒の高低差。大抵、雨が降った。育てる農作物も特段ないのに、我々は歓喜した。そして雨乞いをして雨が降るたびにそのコーチの宗教的説得力が増していくように思えた。

入部して一年ほど経った頃、私は徐々に野球部内での地位が上がっていき、グラウンド内で練習することが増えていった。なので、雨乞いをする機会がめっきり減った。そのころに、コーチが練習中にスマートフォンで雨雲レーダーを見ていたことがわかった。私たちが信じていた神は雨雲レーダーだったのか、と若干の落胆はあったものの、そもそもコーチ主導で雨乞いをするなんておかしいので、ずるいとは思わなかった。そう思って練習していると雨が降り出してきた。たちまち選手たちはダッグアウトに避難し、雨天練習に切り替わった。

私はきっとこの雨を降らせたであろう、ブルペンにいた同級生の控えキャッチャーと無言でハイタッチを交わした。

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