エスカレーター

夜遅く、渋谷のツタヤを訪れたときだった。そのときに見た光景が忘れられない。私はDVDを借りるために昇りのエスカレーターに乗っていた。渋谷のツタヤのエスカレーターの壁は鏡ばりになっており、坊主で髭面の汚い男性がこちらを見ていると思ったら自分だった。家から至極近いということで、かなりだらしない格好をしている。ふと、向かい側にある下りのエスカレーターに目をやった。二階のカフェスペースにはエスカレーターのおり口付近まで席があっておそらく20代前半と思われる女性2人が談笑している。さしずめ話題は表参道で食べたパンケーキか渋谷で食べたお好み焼きか...と、いずれにせよ粉物の話でもしているのだろう。合法的であることを望む。

くだらないことを考えている間に3Fに着いた。目当てのDVDは4Fにあるはずなので、もう一度エスカレーターにのる。エスカレーターの降り口から次の登り口までのヘアピンカーブを最小半径でターンし、タイミングよくエスカレーターのステップに足をのせた。エスカレーターが急速に普及し始めた(と記憶している)小学生くらいの時は、エスカレーターにサンダルが巻き込まれるというような事故があったりして、エスカレーターには必ずと言っていいほどサンダルを履いている人に対しての警告があったように思うが、今はあまり見かけることも少なくなった。当時はあの問答無用で動き続ける機械に足を挟まれることに恐怖して、サンダルでエスカレーターには載らないようにしようと心の中で思っていた少年も、今やサンダルでツタヤのエスカレーターに乗っている髭面のスウェットだ。

よく、大学付属の中学校や高校などから大学に進学することを「エスカレーター」という言葉で表現することがあるが、時間が経てばその分だけ上の階に問答無用で連れていってくれるエスカレーターはぴったりの表現だろう。それは必ず昇りのエスカレーターであり、直線運動であり、一方通行だ。例えば就職するときも、会社を決めるというのはどういうエスカレーターに乗るのかを決めるのに近いものがあると思う。最も、今はいろんなエスカレーターに乗り変えることが一般的な時代であるとはいえ、ある組織に乗るということは、自分の力ではどうにもならない流れに身を任せる部分というのが必ずあるはずだ。時間の流れと行き先が決まったら後は乗るだけで、行き先もある程度知っている。ゴウンゴウンと音を立てて動くその機械はこちらのいうことなんて関係がない。乗ってしまったら最後、きっちりと目的階にたどり着く。そもそも乗ることが難しいエスカレーターだってたくさんあるので、そうやって着実に積み上げていける人というのは本当に頭が良くて、尊敬に値すると思う。

私は今、どんなエスカレーターに乗っているのだろうか。もしかして乗っていないかもしれない。空港にあるような動く歩道に乗っているだけで、いたずらに時間を空費しているだけのなのかもしれない。ただ、動いてはいるだろう。エスカレーターに乗るチャンスは幾度となくあったように思う。大学を卒業する時、専門学校を卒業する時、大学院に入って就職活動をする時。私はことごとくそのエスカレーターをスルーしてきた。なぜかはわからない。エスカレーターの先が見えてしまうたびにワクワクしなくなってしまって、それに乗る気がなくなってしまうようだった。
世の中には、エスカレーターではなく、自力で上の階に上がっていく人もたくさんいる。自力でコツコツ登山のような昇り方をする者、ひょんなことからエレベーターに乗っていつの間にか上の階にいるもの、そもそも上の階に生まれた者、スパイダーマンのようにとんでもないところからビルの壁をつたってくる者。そういった猛者たちの様子を見ていると、かっこいいなと思ってしまうのはなぜだろう。そして自分もそのプロセスを味わってみたいと思う。しかし、その眼下には足を滑らせ転がり落ちていった人々の屍の山があるのだろう。エスカレーターに乗っている限りは、サンダルを挟まれるようなことがない限り、その心配は少ない。

再度エスカレーターの鏡に映った顔は使い古されたキャッチャーミットのようだったが、過酷な山に挑もうとしている熟練の登山家のようにも見えた。そういう風に見たら、悪くない顔かな、と思ったりしてみた。このくらいの自己肯定はしてもバチは当たらないだろう。
ふと、昇りとは反対側の降りのエスカレーターに目をやった。エスカレーターは上りと下りがDNAの螺旋構造をトレースするように、昇りし者と降りし者を運んでいく。降りのエスカレーターの入り口で、老婆がエスカレーターのステップにタイミングを合わせていた。
なかなかタイミングが合わない老婆は、ついには私が上り切る間にはエスカレーターのステップに乗ることはできなかった。

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