しょくざい

大体の食材は四人で食うのにちょうどいい形をしている。もしくはそういう分量に小分けされて売られているというように感じる。
例えばカレーを作ったら、玉ねぎ一個を軸にしたら大体4人前くらいできる。豚肉と白滝の旨煮もネギ2本を基準にしたら大体4人前くらいできる。一人家計の自分はそれを一度に食ってしまうか、タッパーなどの石油の残り滓を固めた容器に入れて冷蔵庫に放り込んでおく。腐らせないためだ。
冷蔵庫に放り込まれたおかずに含まれる不飽和脂肪酸は翌日にはすっかり冷えて、白く濁った塊となってそれらの上に表出してくる。温めるとまた透明になって料理のどこかに行ってしまう。500ワットで150秒温めている間にそこに白く濁ったものがあったことはすっかり忘れてしまう。

四人で暮らすのが1番合理的だということだ。親二人と子供二人。そうすれば一度エネルギーを与えて温めたものをまたエネルギーを費やして冷やすなどということはしなくて良くなる。食べ過ぎることもない。四人というのはあまりがないということだ。人間が増えもしないし、減りもしない。影響がないということだ。それでも人間はどんどん増えていく。食材が足りなくなるのは当然のことのように思う。

人間が余ってしまうから、誰かが食い扶持を稼がなくてはいけない。拡大を前提としたビジネスモデルは癌細胞のように自らを持ってしてもその拡大を止めることはできなくなってしまう。金さえあればなんでもできるが、なければ生きることもできない。俺の二万円とお前の二万円。同じ形、同じ重さ、同じ柄の紙2枚のことだが、決して同じ価値ではない。

仕事だったらなんでもするのか。仕事じゃなかったらなんにもしないのか。中央分離帯に投げ捨てられた空になったペットボトルを拾う人がいる。
社会に与えられた役割を全うすることこそが生なのか。真っ当な生き方とはなんぞやと自信に問うてみる。普通を誰も教えてくれない。普通の幸せを掴むことの困難さよ。自分の普通が通用しない普通の社会で、無垢な眼差しを持ち続けることの息苦しさを嘆きながら、今日も真っ当な仕事をしている。

俺の二万円とお前の二万円は決して同じ価値ではない。俺にとっては500円でも高いと思うことに二万円を払ってくれる人に今日も生かされた。

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