ひとりブックカバーチャレンジday7/卒業文集

フェイスブックのタイムラインを見ていると「ブックカバーチャレンジ」というものが流れてきた。七日間毎日好きな本の表紙の写真をアップし、その度に友達をひとり巻き込んでいくというものらしい。面白い試みだなあと思って見ているが、一向にわたしにはお鉢が回ってこない。確かにわたしはそんなに友達が多くはないが、これだけの人数が毎日誰かしらを巻き込んでいっているのに一向に巻き込まれる気配がない。自分だけ台風の目の中に閉じ込められているかのようだ。そこでこの際「ブックカバーチャレンジ」をひとりで勝手に始めることにした。こういうチャレンジを勝手に一人で始めるというのは孤独の極地であり、恥ずべきことなのかもしれないが、この羞恥に打ち勝つことがわたしにとってチャレンジなのかもしれない。

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大抵の人は卒業文集というのを持っているだろう。ほとんどの人が持っていて、なおかつ中身が違っている本というのは奇特な存在だ。その中には少年時代の記憶とともに記録されるべきかされないべきかというこちら側の主張とは関係なしにインクの塊として光沢紙上に固定されている。久しぶりに卒業文集を開くと、小・中・高と平成の時代にそぐわない坊主頭の私が唯一の身体的優位点である美しい歯並びを露出させていた。それはほとんど笑顔の写真なのだが、体育祭の綱引きでおおきなかぶを引き抜いているとしか思えないような、信じられないほど力んでいる写真も含まれている。
また、懐かしい同級生の面々。卒業以来会っていない人たちは、今も卒業アルバムの中に真空保存されている。彼らはいまだに何が書いてあるかわからない英語のリバーシブルのロンTを着ているし、学ランをぴっちりと一番上のボタンで締めている。成人式で一通り挨拶を交わしただけでは真空保存が解かれない場合も多く、私の中では彼らの肖像は見開きで事務的に並べられたあの写真のままなのだ。誰かにとっての私も、きっとあの頃のままだ。

小・中の卒業アルバムに至っては、卒業文集なるものが付録でついている。誰があんな忌々しいものを発明したのかと思うが、きっとアルバムの方が後からついてくるようになったのだろう。文集は、アルバムという比較的、敵の少ない開けた草原に自ら埋めた地雷になりかねない。特に中学生の多感な時期————中二病という素晴らしい日本語も存在する————に書かれた作文というだけで、内容に関わらず誰にも見られたくないものだ。小学生の時から飛躍的に進歩した語彙能力は、受験に役に立つことは知っていても、未来の自分に痛手を負わせるということは、あの頃の私たちにはわからなかった。言葉という刃物の便利さと同時に扱い方を教えるというのも人生の先輩たる先生の役目ではなかったのか。リンゴをむくための刃物で自分の指を切ってしまっては仕方がない。
あの頃の私たちは自信に満ちた筆致でそれぞれの原稿用紙を埋めていた。山Pに対しての愛を語るもの。中学生活での過ちを懺悔するもの。実際、今叶っていない夢を熱っぽく語っているもの。無論それは私なのだが、恥ずかしくて読むことができない。私は例によって野球少年のテンプレートである「甲子園に行く」とか、「プロ野球選手になる」と書いてあった。まあ、小学生までは許そう。でも、中学の時に本気でそう思っていたか。本気でそう思っていたら、もっと努力をしろ!キッツイ練習で有名な高校へ行け!大学で腐るな!もし中学時代の卒業文集を書き直すことができるなら、私が登下校中に感じた通学路の3年間での変化について超ミクロ的な視点で考察した文章を書くだろう。いや、そんな中学生は気持ちが悪いか。

したがって、私たち中学生にはこの未来に発生する、各家に必ず一冊はあるということが知れ渡っている紙の束を、隠し通さなくてはいけないという事態を未然に防ぐことはできないのだ。なので、仮に一人暮らしをするあなたの家に恋人を連れ込むことに成功したとしても、この存在は隠し通さなくてはならない。アルバムの存在を知られたとしても、文集だけは絶対に極秘文書として扱わなくてはいけない。捨てるという選択肢は賢明かつもっとも迅速に問題を根本的に解決することができる。もし恋人に卒業にまつわる文書の所在を尋ねられたら、そんなものはとうに捨てたと過去にこだわらないクールな男を演出することができるし、何より本棚に若干の余裕が生まれる。そこに適当な厚さの哲学書を突っ込んでおけばさりげなく知性をアピールすることもできる。
しかしながら卒業文集を捨ててしまっては、同時に武器を捨てることになってしまうのだ!その卒業文集は自分自身の弱点でもあり、同時に同級生百人余りの弁慶の泣き所でもあるのだ。捨ててしまえば第三者からの攻撃にはひらりと身を交わすことができるのだが、万が一、自分の同級生があなたの文集に言及してきたとき————そんなことは一生あって欲しくないものだが————あなたは彼らに反撃する手段を失うことになる。縦は一方向しか身を守ることができない。完全な防衛法などはないのだ。捨てるのが躊躇われるのであれば、暗号化するなどの対策は各自考えるべきだ。自分の身は自分で守らなくてはならない。

卒業文集の役割とはどんなものなのだろうか。それはおそらく、誰にでも子ども時代があるという事実の確認だろうか。義経も牛若丸だったのだ。今の自分の基礎になっている部分を確認する場面。それは年に一度はあってもいいのかもしれない。ただし、それは必ずカーテンを閉め切った一人きりの部屋で粛々と行われるべきことだ。

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