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第20週目 / 三菱重工の国産ジェット機開発撤退を掘り下げる / 近況報告 / (20/10/18-20/10/25)

こんにちは。今週末は秋晴れですね。

★★

■近況報告

黒澤進監督の「スパイの妻」を鑑賞しました。素晴らしいサスペンス映画でした(あらすじは公式ページを見てください)。
1940年から終戦にかけての戦争に抗えない雰囲気の中で、正義や幸福などの自分の信条に迷うことなく、自らの考えに忠実に突き進むストーリーは痛快でした。
映像も素晴らしく対象をはっきり中心の置く描写は気持ち良かったです。また、光と影をはっきりした描写が多く、写真を見ているような感覚になりました。
また戦後間もない邦画特有の、文語体の台詞回しは好みが別れるところではありますが、とても良かったです。特に蒼井優の演技が印象に残りました。

画面から当時の雰囲気を伝えるこだわりも見て取れるので、ディテールが好きなかたは、映画館の大画面で観ることをお勧めします。


それでは今週はよろしくお願いします。

★★

■三菱重工の国産ジェット機撤退

新型コロナウイルスの影響により、航空需要が激減したことを主因として、2006年から国産ジェット機開発を進めていた、三菱重工が事実上の撤退を発表した。

三菱重工 / 2020年度第1四半期 決算説明資料
https://www.mhi.com/jp/finance/library/result/pdf/fy20201q/presentation.pdf

決算資料を確認すると、利益を生んでいる事業が悪化している上に、スペースジェット事業が更に影響して、2020年度 第1四半期で713億円の赤字を計上していることがわかる。このような状況から、撤退発表後には三菱重工の株価は上昇した。

日本の国産ジェット開発の歴史を簡単に振り返ってみる。

日本の航空産業は大正時代から続いている。その後、航空機の有用性が第一次世界大戦で示されたことで、軍は国内の造船メーカーや内燃機関メーカーに生産を依頼するようになった。当時は軍も企業も製造ライセンスの知識が不足していたために、海外メーカーとの間で度々問題が起きていたようだ。

その後戦争が続き、政府はメーカーに対して厳しい、仕様要求を続けた。結果、各社技術力が向上し、有名な零式艦上戦闘機の開発につながる。
戦局悪化の中でも、試作機を含めた機体は後に傑作と呼ばれるものとなった。日本は1910年から、終戦の1945年の35年で独自で国産できるまでに至った。

しかし戦争が終わり、GHQの要請もあり占領中の7年間で、当時の航空事業は解体、そして他事業のへの転換を余儀なくされ、その間技術開発が止まり、日本の航空技術が遅れるきっかけとなった。

その後の日本は朝鮮戦争などの、周辺国の戦争に影響による製造特需が起こる。それは日本の航空産業も同様であった。
ただ、国内航空メーカーは、米国のボーイング社の最先端の技術を使った製造を要請された。
既に航空技術で遅れをとっていたこともあり、他国技術を使った製造により、経済的にも利益をもたらすために受注生産の製造に徹した。これは経済的な成功と引き換えにして、国内技術を高める機会を失った原因とも言われている。

一方、同様な敗戦国のドイツでも、戦後は航空機の研究開発や製造が禁止されていた。
しかし、現在は日本と対象的に現在はで旅客機の主要生産国となっている。その差はどこにあったのか?

原因は2つあると言われているようだ

1)そもそも第二次大戦前からドイツは航空宇宙技術はずば抜けて進んでいた(米国が、戦前から国費を投入して航空技術研究を強化するきっかけにもなった)

2)戦後のドイツは、無動力のグライダーに限り早期の開発解禁にもちこんだ。そのことにより、次世代エンジニアの早期育成に成功した。

つまりグライダー開発が早期で進められることで、航空エンジニアの離散を防ぐことができた(戦後、日本の航空エンジニアは、自動車や電気産業に散ってしまった)。

また、そもそもドイツは第一次世界大戦後から、戦略的に航空教育を大変重視しており、小学生に対しても既にグライダー教育が行われていた。日本とは航空教育の土壌に大きな違いがあった。

ドイツはグライダーを学ぶ多くの子供達が、自分の手を動かして、自分の力でグライダーを飛ばす喜びも含めた、素敵な経験を得ていたことが想像できる。

そのような時代背景や、国外と比較して技術開発の遅れを取っている中で、三菱重工は2006年に国産ジェット機開発を再開をした。
しかし、先述の通り、2020年10月に事実上の生産停止を発表した。

原因は3点あると言われている。

1)開発設計のノウハウ不足
三菱重工は、当初は民間機開発の自信があったようだ。それは軍用機においての完成品開発と、民間機の部品開発を行っていた実績からであった。
しかし、実態は軍用機開発では求められない、安全性基準(型式証明=車検のようなもの)や、100万点以上の部品を組み合わせる設計技術は、全く別のものであった。

「製造することと創造することは、全く異なるノウハウだった」ということだったと思われる。

2)部品調達の問題
航空機業界では部品メーカーが世界的に少数に絞られているために、メガサプライヤー化が進んでいる。そのことはサプライヤーが新規参入者へは注力への優先度は下がる問題を引き起こし、結果、品質低下や納期遅延につながる。

3)型式証明をする国も見地がない
安全性を審査をする国も、新規開発の航空機に対しての見地がないために、初心者同士の議論が行われていいた可能性があった。この事実を理解して、海外の専門家から教えてもらうまでに8年かかったのこと。

受発注同士が、経験も知識も浅い状態で進むプロジェクトのような状態だったの想像できる。

もし、国内でより簡単な許認可で、小さな試作機を飛ばせるチャレンジできる環境が整っていれば、小さな失敗からノウハウが蓄積することもできただろうから、状況は変わっていたのかもしれない。

ブラジルでは1969年に国営の航空メーカーとしてスタートしたエンブラエルが、1996年の民営化を経て、2000年には長年の赤字経営から脱却し、現在は世界三位の航空機製造メーカーとなった。

「航空分野のイノベーションは一夜にして実現できるものではない。しかし、当社の飛行機は初期段階では人間のパイロットが必要だが、テストを重ねた後、自律飛行できるようになる。そこから、本当の技術革新がはじまる」

三菱重工の国産ジェット機中止は残念なニュースだが、国内ではホンダのような小型ジェットなど国産ジェット機は存在する。
苦境が標準の業界なのかもしれないが、国内の航空技術開発には期待したい。

自分なりのまとめ

・高い製造力と、総合的な製品開発力は異なる。
・誰もが見地がない状態から成功するまでは時間がかかることを覚悟する。長い苦境に耐え続ける力が必要。
・産業育成には教育が必要で結果が現れるまでには長い年月がかかる。一方で、それが確固たる技術文化となり、そして積み上げた技術はいずれは花が開き、国益につながる。
・ゼロからリリースまで個人でも組織でも小規模でも構わないので、貫徹させることへ集中する。小さなプロジェクト(試作)積み重ねが大規模な製品開発が可能なる体制につながる。

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ここまで読んでいただきありがとうございました。
来週もよろしくお願いいたします。

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