舞台照明と演色性

 はじめに「演色性」という言葉を解説しておきましょう。
 演色性とは、いわば「色彩面に着目した時の光の良悪」を示す指標のことです。例えば、屋外の光で見た時と室内の光で見た時に、物の色が違って見えた、といった経験はありませんか? 物の色の見え方は、その物にあたっている「光」がどんな光であるかによって影響を受けます。
 あてられた光によって、物の色が「元の色」からどれぐらいズレて見えるかの度合いを、その光の「演色性」と言います。元の色から大きくズレて見えてしまう光を「演色性が悪い(低い)」と言い、逆に元の色の再現性が高い光を「演色性が良い(高い)」と言います。じゃあその「元の色」というのは何かというと「太陽光が当たった時に見える色味」のことです。
 「演色性」は、厳密にはもっと細かく定義されているのですが、今回の話をお読みいただく上ではこれくらいの理解で十分です。

 さて、この「演色性」に関連して、先日、下記のツイートをしました。

 これはなかなか挑発的なツイートだと言えます。舞台に限らない、一般の照明設計においては、光源の「演色性」はとても重要です。色味が重要な価値の指標となるような物、例えば衣服、絵画、食材などにあたる光は、演色性が重視されなければなりません。ですから、衣料店、美術館、レストランなどでは特に、演色性を重視して照明設計が行われます。

 しかし、僕は上記ツイートで、あくまで【仮説】としてですが、舞台照明においては光の演色性は考慮の対象ではないと言っています。

 なぜそんな仮説を立てたかというと、つい最近まで、そもそも一般論として、舞台照明はあらゆる人口光の中で最も演色性が高い光だった、と僕が考えるからです。舞台セットやメイクや衣装など、色が重視される要素は、本番の舞台照明に照らされたときに最も「映える」(ハエルと読んで下さい、バエルではありません)、これが今までの常識でした。舞台照明では、その光源として、主にタングステン(多くはハロゲン)、時にクセノンといった、きわめて演色性の高いものがずっと使われてきたからです。

 だから、舞台照明家にとっては「演色性」というのはほとんど気にする必要のない要素だったということが言えるのです。照明家が光に何か手を加えれば加えるほど、例えば色をつけるとか陰影を出すとかすればするほど、舞台上の物の色の再現性は下がります(つまり演色性が悪くなります)。つまり、元々の演色性が高い光源を使っていれば、舞台上に現れる光の演色性はマイナス方向にはいくらでもコントロール可能な要素である(あった)ということが言えます。したがって、例えば冒頭のシーンでは意図的に演色性を下げた光を使い、衣装の元の色をわざと観客にわからないようにしておいて、特定のシーンに来たら光の演色性をぐっと高めてその色を鮮やかに魅せる、というような手法も使えるし、実際に(大抵は無自覚に)使われてきました。

 人工光源には演色性の悪い光源も当然あります。タングステンに比べれば蛍光灯は演色性が劣りますし、水銀灯やナトリウム灯はもっと落ちます。それらは、演色性を犠牲にしている分、エネルギー効率や経済効率は良いので、色の再現性があまり求められない場で積極的に使われています。たとえば道路などです。
 しかし、それら演色性の低い光源は、舞台においては「使い物にならない」ものとして、原則として排除されてきました。使用するとしても、意図的な効果として「低い演色性を演出的に使いたい場合」などに限られていました。

 ところが今世紀に入り、演色性がかなり低いにもかかわらず、大きな顔をして舞台照明に進出してきた光源があります。「LED」です。

 LED光源の舞台照明機材は、製品にもよりますが、その多くは演色性がかなり悪いです。今までのタングステン光源なら、元の光源の光を何も加工せずに出せば、基本的に高い演色性が得られました。しかしLEDはそうは行きません。単純に点灯しただけでは演色性がひどく悪い光が出てしまう(ことが多い)のです。

 そんなわけで、今世紀、舞台照明家は史上初めて、光源の「演色性」を気にしなければならない時代を迎えることになりました。今現在の舞台照明において、LED光源を排除しないのであれば、光の演色性を抜きに照明デザインを考えることはできません。

ですから、僕がツイートした仮説
舞台照明においては、扱う光の「演色性」は考慮の対象ではない
は、現在は誤りということになります。

それが「悪い」とか「良い」とかいう話ではなく、事実としてそうなっているということです。事実がそうであるなら、照明家にもその自覚が求められることは言うまでもありません。

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