照明デザインが目指すもの

前回は「舞台照明の評価基準」と題して、一般的に「良い照明」とされるのは、いったいどんな照明なんだろう、ということについて考えました。

前回の記事

この前回の記事の中で、「主観的」「客観的」という言葉を何度も使いました。「主観的」な言葉として「好き/嫌い」などを、そして「客観的」な言葉として「良い/悪い」などを例にあげました。そうした具体的な言葉の例によって「主観的」と「客観的」をおおまかに分けてはみたものの、「主観的」「客観的」というこれら二つの言葉が、そもそもどういう意味なのかっていうことには、あまり触れませんでした。今回はそこを、もうちょっと突っ込んでみるところから始めたいと思います。

といっても、言葉の厳密な定義をしたい(あるいは知りたい)のではありません。考えたいのはむしろ「厳密」とは逆の方向で、普段の僕たちが、なかば反射的に「主観的」とか「客観的」とか言う時に、おおむねどういう意味で使っているか、というようなレベルのことを考えたいと思います。

主観的と客観的

まず「主観的」について。前回の記事の中で、「主観的な感想」という言葉をたくさん使いました。ではその「主観的な感想」とは、いったい何か。それはズバリ、その人の心がどう反応したかを言葉にしたものです。ある人が作品を鑑賞したとき、その人の心の中に起こった反応、それを言葉にしたものが「その人の主観的な感想」です。心の中の反応ですから、本人にしか言えません。ある人がどんな「主観的な感想」を持つかは、その本人にしかわかりません。また、自分の主観的な感想は、黙っている限り、他人に知られることは絶対にありません。逆に、他人の「主観的な感想」は、言葉で説明してもらわない限り、絶対に知ることはできません

次に「客観的な批評」という言葉を考えてみましょう。この言葉も前回の記事でたくさん使いました。「客観的」って何でしょう。「客観的」っていうのは、様々な場面で使う言葉ですけど、前回から話題にしているような「何かを評価する」という局面で使われる「客観的」という言葉は、ズバリ、「評価される対象とは無関係の人から見て」っていう意味になります。たとえば何かの芸術作品を評価するとして、その作品を「作る側」とは無関係の人、たとえば作る側のメンバーの友人とかではない、家族でもない、作品作りに資金提供とかもしていない、作品を作る過程に何も関係していないの人の評価、これが「客観的な評価」という言葉の意味するところです。ちなみに前回、「この音楽はダメだ」という例をあげて、客観的な評価は上から目線に感じられるという説明をしましたが、これは、その音楽を作る側と無関係な人が言うから上から目線に感じるわけで、その音楽を作っている関係者が、「この音楽はダメだ」と言ったとすると、どうですか。上から目線とかのレベルではなく、ぜんぜん違う意味になりますよね。なぜ違う意味になるかと言うと、作る側の関係者が言う場合は、たとえ「ダメ」という言葉を使ったとしても、それは客観的な評価ではないからです。まったく同一の言葉であっても、その言葉を発した人が客観的な立場であるかないかによって、意味が違ってしまうことがわかります。

こうして考えてくると、「主観的」と「客観的」は、この場合、実は対義語ではないということがわかります。普通、この二つの言葉は対義語であり「逆の意味」だとされますが、「評価の言葉」としての「主観的」と「客観的」は対義語の関係ではありません。「主観的な感想」とは、誰かの心の中の反応を言葉にしたものです。いっぽう「客観的な批評」とは、評価対象と無関係の人が発している批評という意味に過ぎないのであって、それがその人の「主観的な感想」であっても「客観的な批評」と言っていいケースが多いのです。たとえば、演劇のプロの批評家Cさんという人がいたとして、Cさんがある演劇作品を観てとても感動したとします。そしてその自分の感動体験を演劇雑誌とかに批評文として書いたとします。その文の内容はCさんの感動体験、つまりCさんの心の反応を表現したものですから、「主観的な感想」であることに間違いないわけですが、同時にそれを「客観的な批評文」と言っても、基本的に問題ありません。Cさんはその演劇の創作には関係していない人(のはず)だからです。実際、プロの批評家の書く批評文に、主観的な感想が含まれていることはしばしばあります。

主観がつながるとき

さて、そのCさんの「主観的な感想」に満ちた「客観的な批評文」を読んだ人がいるとします。仮にその読者をAさんとしましょう。そのAさんが、同じその演劇作品を観に行ったら、Cさんが感動的だと書いているポイントで、やはりすごく感動しました。当然、Cさんが批評文に書いた意図を、Aさんは深く理解しました。そのときAさんは、Cさんの「批評文に対して」どう考えるでしょうか。ちょっと話が飛躍しているので気をつけてください。Aさんによる「Cさんの批評文に対しての評価」はどうなるか、という問いです。Aさんは、Cさんの「批評文に対して」、たとえば、

Cっていう人の批評、たぶんこの人の主観的な感想だと思うんだけど、自分も同じように感じた

のように思うんじゃないでしょうか。「主観的な感想」とは、前に述べたように「心の反応」ですから、本来は人によって異なって当然です。だけど、なぜかAさんはCさんと同じように感じた。Aさんにとっては、自分の心と他人の心が、同じように反応した、そこに、驚きや喜びを見出したとしても不思議ではありませんね。

では仮に、AさんがCさんの批評文を読んでなかったとしたら、Aさんはその演劇を観てどう感じたでしょうか。これはわかりませんね。Cさんの批評を読んでなくてもやっぱり感動していたかも知れないし、Cさんの批評を読んでいればこそ観るべきポイントが定まって感動に至ったのかもしれません。それはわかりません。とにかくAさんは、Cさんの批評が前提としてある状態で作品を観ました。それを無かったことには出来ません。

いっぽう、別の読者Bさんがいたとしましょう。そのBさんも事前にCさんの批評文を読み、同じその演劇作品を観に行ったとします。ところがBさんは、Cさん(およびAさん)とは違い、Cさんが書いているポイントでは、ぜんぜん何も心が反応しませんでした。しかし、演劇作品そのものは、良かったと感じたとします。そしたらBさんは、Cさんの「批評文に対して」、どう考えるでしょうか。たとえば、

なんだこのCっていう人、批評文に主観的な感想を書いてただけじゃん

とか感じるかもしれませんね。Bさんは、演劇作品そのものについては良かったと感じましたが、Cさんが書いていることには合意できていません。つまりBさんは、Cさんの批評文に対して否定的な評価を下す、ということになりますよね。

先ほども述べたように、批評家が、「客観的な批評」を書くべき場に「主観的な感想」を書くことは、実際によくあり、そのこと自体は問題ありません。しかし、その「主観的な感想」に対して、読んだ人が「共感」するかどうかによって、批評文に対してどう思うかが、大きく異なってくる、ということがわかります。

はい、新しく「共感」という言葉が出てきました。この場合の「共感」とは、「共有された主観」という感じの意味で使っています。

ちょっと混乱してきた人もいるかもしれないので、またここで話を整理しましょう。ここまでの考察の中から、大事なことを抜き出して箇条書きにします。

主観的な感想とは、鑑賞者の心の反応(を言葉にしたもの)
客観的な評価とは、作品を作る側と無関係な人による評価のこと
・この場合「主観的」と「客観的」は対義語ではない
・客観的な批評文に、主観的な感想が書かれることも、あり得る
・しかし、主観的な感想で書かれた批評文は、共感しない人には、低く評価される

はい、大丈夫でしょうか。最初は「主観的」「客観的」の話から始まりましたが、途中から、話題が「批評文に対する評価」の話に飛躍していることに注意してください。

さて、ここまで読んで、ちょっと違和感を感じた方もいるかと思います。特に「批評文に対する評価」の話とか、ちょっと意味わかんない、と感じた人もいるかと思います。だって、批評文が良いか悪いかなんて、関係ねえよ、って思いますもんね。

ところが、関係おおありなんです。

実は、照明家は、この例のCさんと近い立場だと、僕は考えているんです。「照明家」を「批評家」に、「照明デザイン」を「批評文」にたとえたんです。

詳しいことは次回に回そうと思いますが、ひとまず上記の物語の、批評家Cさんを照明家Tさんに置き換えて、ざっくりと書き直してみます。

照明家Tさんは、その演劇作品の稽古を(稽古場で)観て、とても感動しました。
そして、稽古を観て得た感動(心の反応)を、光で表現することにしました。その演劇で、自分が感じた心の反応を、言葉ではなく、光で表現するのです。
ある観客Aさんは、その作品を(もちろん照明がある状態で)観て、照明家Tさんの意図をよく理解することができました。AさんはTさん(の照明)に「共感」を感じ、驚きや喜びを感じたかもしれません。そしてAさんは「照明もとても良かった」と感じました。
いっぽう別の観客Bさんもその作品を観ましたが、Tさんの照明が意図するポイントでは何も心が反応しませんでした。しかし、その演劇自体は良かったと感じました。でも照明については「何がしたいのかよくわからなかった」という感想を持ちました。

こう書き直されても、あんまり納得できない、という方も多いと思います。今回はそれでも別にかまいません。これはあくまで、話の導入のための、単なるたとえ話ですから。

ということで、説明は次回にするとして、先に結論を書いちゃいます。
観客の「共感」を呼び起こすこと。
これが、僕が考える「舞台照明デザインが目指すもの」です。

【予告編】
次回、照明デザインが「共感」されるとは、いったいどういう意味なのか。少し掘り下げて考えます。(予定)

この文章が面白かったという方、あるいは次回が楽しみという方、ぜひ「スキ」をお願いします。

では、また。

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