僕の舞台照明

前回、「舞台照明は何をすれば良いのか」ということについて考察をし、ちまたでよく言われる「舞台照明が(特に演劇で)やるべきことは、シーンの《場所》《季節》《天候》《時刻》といった設定の説明をすること」という説についての解説などをしました。

前回の記事:

この文章の中で、僕自身は照明で「設定の説明」をすることに今はまったく喜びを感じないし、仮に自分が観客だったら共感もしないだろう、ということを述べました。そして「設定の説明」でないとしたら僕は照明で何をしているか、それを次回ご説明しましょう、というのが前回の予告でした。

ということで、僕が照明で何をしているかのご説明をこれからしたいと思います。

「舞台照明は何をすべきか」という問いに対して、僕自身には明確な答えがあります。僕が考える、舞台照明の役割は次の通り:

舞台照明の役割は、舞台上で起きていることをクリアに見せること

これだけです。ただしこの「舞台上で起きている」という言葉は、必ずしも物理的に現実に起きているという意味ではありません。「舞台の作り手(≒演出家)が《起きていると思っている》こと」を指します。舞台上で《起こそうとしていること》という言い方でも良いと思います。

「舞台上で起きていることをクリアに見せる」ためには、照明家は、この作品に参加している自分たちが「この舞台上で何を起こしたいのか」ということを、しっかりと稽古やリハーサルの段階から見て、そして考える必要があります。

たとえば演劇の台本のト書きに「田舎の高校の校舎。夕日が差す教室」とか書かれていた時、そのシーンの照明として夕日の色の光を斜めから差し込もうとする照明家も少なくないでしょうが、本当にそれ(夕日の色の光が差し込む)が、「舞台上で起こそうとしていること」なのか、しっかりと自問する必要があると僕は考えます。この作品が「舞台上で起こそうとしていること」は、そんなト書きの最初の1行だけなんでしょうか。大抵の場合、違うと思います。そのあとに続くたくさんの台詞や演技によって繰り広げられる、「ドラマチックな出来事を起こしたい」、そのために作品は作られようとしているはずです。だとすれば、照明がすべきことは、その「ドラマチックな出来事を、クリアに見せること」だと僕は思います。少なくとも僕だったらそのように照明を作ります。

だからと言って、ト書きをすべて否定するわけではありません。「舞台上に夕日の色の光が差し込む」ということが、本当に作品にとって重要で、それが「舞台上に起こしたい」ことの一つなのだ、というケースもあり得ます。そういう場合は、僕も夕日の色の光を仕込むでしょう。

大事なのは、その作品が「舞台上に何を起こそうとしているか」です。作品が夕日の光を求めているなら、照明でそれを作るべきです。しかし、往々にしてありがちなのは、「作品が求めて」いるのではなく「照明家一人がやりたがって」なにがしかの光を作ってしまうケースです。それは照明の作り方としてズレていると僕は思います。

先ほどから「作品が求めている」という言い方をしていますが、それの意味するところは「作品の作り手たちがそれに共感している」ということです。作り手には照明家ももちろん含まれますから、照明家自身が望む光を作った結果がそのまま正しいケースも多くあるでしょう。しかし、もし、作品の作り手となっている他の人たち(例えば演出家や俳優たち)が、その光に対して共感を持っていないとすれば、それは作品が求める光とは言えません

僕自身は、「照明で舞台上に何かを起こす」ことには、今は全く興味がありません。照明で、高性能の機材や風変わりな色などを様々に駆使して、何か派手なこととか印象的なことをやっても、それは照明がドヤ顔で自慢してるだけだと僕は思います。そういうのには僕は全く興味がありませんし、他の照明さんがそういうのをやってるのを見ても「ふーん」ぐらいにしか思いません。

照明で色々やりたいことをやる行為を、完全に否定するつもりはありません。僕も、かつては、様々な効果的な照明を作ることに充実感を感じ、それが出来る自分の技術に喜びを感じた時期もありましたが、今の僕にとってはそれらは興味の対象ではありません。現在の僕の目には、そういうドヤ顔の自慢照明って、ほとんど「没個性的」で、はっきり言って、どれもありふれているように見えます。せいぜい機材が高くて高性能か安くて低性能かの違いがあるぐらい。逆に言うと、予算が高いと自動的に派手な照明になる。そんなのが「表現」だとは僕はまったく思いません。

例えるなら、ドヤ顔の自慢照明は、スポーツカーに乗って猛スピードを出して「すごい」「かっこいい」って言ってるようなもんです。乗ってる本人にとっては疾走感が気持ち良く、その素晴らしさを体感しているのかも知れないけれど、見てるほうは、まあたしかに「すごさ」や「かっこよさ」を理解することは出来るかもしれませんが、その感覚を共有してはいない。僕はそういう、スピード感みたいなエンジンの性能に頼るようなものではなく、たとえ性能が低くても多くの人に同乗してもらって、ゆっくりと進みながら物語の先へと案内することのほうに喜びを感じます。それが、「舞台上で起きていることをクリアに見せること」です。

これはジャンルを問いません。演劇はもちろん、コンサートでもダンスでも共通で、あらゆるジャンルにおいて、照明の役割は「舞台上で起きていることをクリアに見せること」だと僕は考えています。

「クリアに見せる」ためには、邪魔になるノイズを排除することも必要です。たとえば劇場で演劇を鑑賞する観客にとって、周囲にいる他の観客は、作品とは無関係のノイズを発しています。だからあまり目に入らないほうが良い。したがって、観客席は上演中は暗くします。上演中に「客電をダウンする」のは、僕にとっては、舞台上で起きていることを観客にクリアに見せるためです。

また、ロックやポップスのコンサート、あるいはヒップホップ系のダンス等で、音楽のリズムに合わせて、チカチカと光を「あおる」演出がありますよね。ああいうのも、舞台上で起きていること(リズムによる高揚とか)を、客席空間にクリアに伝えるためにやっている、と捉えることができます。そう考えればやはりこれも、舞台上で起きていることをクリアに見せるということの一つのやり方です。ステージ上で楽曲が鳴っている時、それは単に音だけにとどまらず、空間全体をリズムに巻き込むようなことが起きている(起こそうとしている)ということを、照明の「あおり」によって観客に伝えることが出来るわけです。その意味で、それが効果的であるなら、僕も、多くの照明さんと同様「あおり」の手法を使います。

このように、舞台照明の役割は一見様々あるように見えるけれど、常にそれは、舞台上で起きている(起こそうとしている)ことをクリアに見せるという目的から少しも外れないと僕は考えています。

照明家が光をつければ、意図はどうあれ、舞台上に物理的に光がついてしまう=出来事が起きてしまいます。光によって起きてしまうその出来事が、舞台上で作品が起こしたいこと、なのか。常にその点に注意を払い、作品が起こす出来事の一部となり得ている光を採用し、それとは無関係の光(ノイズ)を排除する。これが、僕の照明の作り方です。

じゃあ、だとすると、照明の様々な手法、たとえば「SS」とか「単サス」などの技法は、この僕の照明の作り方と、いったいどのように関係するのでしょうか。次回はそのことについて書きたいと思います。

【予告編】
僕にとって、照明の技法とは何なのか、について述べます。(予定)

この文章が面白かったという方、あるいは次回が楽しみという方、ぜひ「スキ」をお願いします。

では、また。


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