舞台照明、私の流儀

このところ、照明家が舞台照明をやる動機について考えている。
なぜ私たち照明家は、舞台に照明をつけたいと思うのか、について。

その理由はいくつかある。まあ大きく分けて「他者による理由」と「自身による理由」があって、他者によるというのは、たとえば照明を頼まれたとか、報酬がもらえるとか、そういう(舞台から見ると)外部的な理由。それらはここでは考えない。ここで考えるのは「自身による理由」のほうだ。それがいくつかある。とりあえず3つ思いついたので書いてみる。

1.自分の好きな明かりを実現したい

これは若い人に多い。舞台照明を知らない人、あるいは始めたばかりの人は、その美しさと力強さに驚く。そして、舞台照明の手法の中に「自分の好み」の手法がいくつか生まれ、それらを実現したい、と望むようになる。これが「好きな明かりを実現したい」ということである。一つの作品の中で自分の好きな明かりがつく箇所、それがその照明家にとっての「お気に入りのシーン」ということになる。

2.舞台作品の一部になりたい

これはアート系のフリーランス照明家に多い動機で、とりわけダンス系のジャンルに多いように思う。あとほとんどのコンサート照明もここに入れて良いんじゃないだろうか。光そのものが、作品の一部となろうとする作り方。「作品の一部になりたい」とはすなわち、照明家も舞台作品のパフォーマーの一人として、「光として出演する」ということに意味を求める、アクティブな在り方である。

3.舞台上のものを、より美しく見せたい

私はもっぱらこれである。頼まれれば1や2もやるし、出来ると思うけど、自分的にはもう、この「3.舞台上のものを、より美しく見せ」ることだけやらせてもらえれば、満足である。「舞台上のものをより美しく」というと聞こえは良いが、逆に言えば「見づらいのをどうにかしたい」ということである。

ここに光をあてれば。あそこの光を無くせば。あの角度からこの色の光を差し込めば。あれをこんな光で優しく包んであげれば。そうすれば、舞台が、もっともっと美しくなるのに。という感覚。

で、私の場合ちょっと極端で、舞台上の「悪く見えるところ」は全て照明のせいだと、つい感じてしまう。おそらくそれが、私の照明の原動力になっている。

あの役者の表情が見えづらいのはもちろん、衣裳がダサく見えるのも、演技がわざとらしく見えるのも、台詞が聞き取れないのも、話がつまらないのも、選曲がセンス悪いのも、全部照明のせいだ

と感じる。少なくともそのように仮定して、照明を作ろうとする。

実際私は、演劇の照明を一番多くやっているくせに、普段から「別に演劇が好きなわけではない」と公言してはばからない。それは、演劇を特に好きではないという、そのことこそが、私の中で、照明を作る燃料となっているという事実があるからだ。稽古場で、あるいは作業灯で、十分に楽しめる作品として完成しているなら、それ以上に照明でもって何かする必要なんて、これっぽっちもない。何らかの「見づらさ」があるからこそ、照明が生きる。

他者が気づかない「見づらさ」を見つけ、それを「照明の欠点」に読み替える、これが、私の照明の作り方だと言って良いと思う。

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