舞台照明の評価基準

少し前のことになりますが、Twitterで「舞台照明の『やりすぎ』問題」というのが話題になり、これについて、まとめ的な記事を書きました。

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これを書いている中で、新しい疑問が立ち上がってきました。それは、

・照明が「良い」とか「悪い」とかを、私達はどういう基準で評価しているのか
・そもそも照明に「良い」「悪い」は存在するのか

といった疑問です。本稿ではこの、舞台照明の評価基準という問題を考えてみたいと思います。

「良い」照明とは何か

これを読んでいる多くの方の関心は、「要するにどうすれば良い照明を作れるのか」という点にあるかと思います。しかし、それを考えるためには、その前に、そもそも「良い照明」ってどんな照明のことを言うのか、ということを検証しないといけません。

舞台照明というものは、舞台作品の構成要素であり、舞台作品というものは芸術の1ジャンルです。なので、考える糸口として、他の芸術との比較から考え始めてみたいと思います。

芸術の評価

まず、同じ芸術の1ジャンルである「絵画」について考えてみましょう。絵画の「良い」「悪い」って何でしょう。「良い絵画」ってどんな絵画のことを言うんでしょうか。超有名な画家が描いた絵は「良い絵画」なんでしょうか。たとえば、ピカソの絵が目の前にあったら、それがとても「値段が高い」ということは予想できますが、その絵は「良い」絵画でしょうか。仮にそれが「良い」絵画だとしても、僕たちに、その「良さ」が理解できるんでしょうか? 僕はちょっと自信ないです。でも、絵画の「良さ」は別として、その絵画を「好き」かどうかは、たぶん言える人も多いですよね。「この絵画が良いか悪いかはわからない、でも自分は好き」とか、そういうことは言えそうな感じがするんじゃないでしょうか。

この場合の、「良い/悪い」という言葉と、「好き/嫌い」という言葉は、いったい何が違うかというと、「良い/悪い」というのが客観的な評価の言葉であるのに対し、「好き/嫌い」というのは主観的な感想の言葉だということですね。上記の「この絵画が良いか悪いかはわからない、でも自分は好き」という言葉は、言い替えると、「この絵画が客観的な評価としてどうかはわからないけど、主観的な感想なら言える」ということになります。

では芸術の別のジャンル、「音楽」はどうでしょうか。音楽も同じようなことが言えて、「この音楽が良いか悪いかはわからないけど、自分としては好き(嫌い)」というのが、多くの人が音楽に接したときにしばしば持つ感覚だと思います。つまり、さっきの絵画と同様、「客観的な評価はわからないけど、主観的な感想なら言える」というケースが多いと思われます。そして、そうした個人的な感想、たとえば「この曲大好き」とか「この人の曲は私は好きになれない」とか、そういうことは、誰が言っても誰にも怒られませんし、その発言で誰かが傷つくということもそうそうはありません。では、客観的な言い方をした場合だとどうでしょうか。たとえば「この音楽はダメだ」という言い方をしたらどうでしょう。「ダメ」っていうのは、主観を排除して思いっきり客観的にdisる言葉です。「ダメ」なんていう言葉を使ったら、それによって傷つく(あるいは怒る)人がいるかも知れませんよね。っていうか、「ダメだ」とか、なに偉そうに言ってんの、っていう感じがしますよね。「この曲はいい」とか「この音楽はダメ」という言い方(客観的な言葉)は、「好き」「嫌い」(主観的な言葉)に比べて、なんとなく上から目線というか、偉そうな感じがします。

さっき考えた「絵画」についても、同じことが言えることに気づきます。主観的な感想を言っている限りは「一般の鑑賞者」の感想ですが、「この絵は優れてる」とか「この絵はクズだ」みたいなこと(客観的な評価)を言うと、ちょっと(orかなり)偉そうな感じに聞こえます。音楽の場合と同様、「良い」「悪い」という言い方=客観的な言葉は、上から目線の偉そうな感じに聞こえる、ということが言えますね。

これは芸術の他のジャンル(文学や映画など)についても同様に言えそうです。「この小説好き」とか「あのホラー映画は嫌い」みたいなことを言うのは、あくまで個人的な感想ですから誰でも言って良いわけですが、「このミステリーは駄作だ」とか「あのドキュメンタリー映画は優れてる」みたいな客観的な言い方をすると、とたんに偉そうな(あるいは専門的な)感じがします。

一般的に、芸術作品について主観的な感想(好き/嫌い)を言うのは、あくまで受け手(鑑賞者)の個人的な感情の範囲ですから、それは誰にとっても普通のことだし、それを自由に言う権利もある感じがします。いっぽう、「良い/悪い」といった客観的な言い方は、場合によっては作り手や、そのファン達の気持ちを傷つける(あるいは怒らせる)可能性があります。そういう客観的な言い方は、偉そうな、上から目線の言い方に聞こえますから、誰しもに許された言い方ではなく、たとえば批評家とか、そのジャンルで活動しているライバル芸術家など、そのジャンルの専門家にのみ許される言い方だということが言えるんじゃないかと思います。

では、舞台照明が評価されるときの言葉について考えてみましょう。

ここまで主観的な言葉(「好き/嫌い」など)と、客観的な言葉(「良い/悪い」など)の、二種類の評価の言葉について考察してきました。じゃあ舞台照明は、評価される際にどのような言葉が使われるでしょうか。僕自身の経験に基づいて言うと、「この作品の照明が好き」のような言い方をする人(主観的な言葉を使う人)は、実際のところ、ほぼいません。そもそも照明について評価をしてくれる人の絶対数がかなり少ないわけですが、その少ない中で、評価の言葉があるとすれば、「この作品の照明は良い」という言い方、つまり客観的な用語が使われることがほとんどだと思います。これは観客に限ったことではなくて、作る側の人が言う場合もそうです。僕ら照明家が、たとえば演出家から照明について何か言われるとすれば、「この照明はバッチリ」とか「このシーンの照明はちょっと違う」というような、客観的な観点での言われ方がほとんどで、「この照明、好みです」みたいな主観的な言い方は(よっぽど親しい演出家ならありますが)、普通はされません。

これはいったい、何を意味するでしょうか。舞台照明は、主観的な言葉で評価されることはほとんど無く、客観的な言葉で評価されることがほとんどである、これは事実です。だとすると、照明の評価をする人は、みんな上から目線なんでしょうか。

その結論は、ちょっと早すぎます。なぜなら、大前提に重大な疑問があるからです。その疑問とは:

舞台照明って、芸術なんでしょうか?

はい、そうです。今この文章を読んでる方ならきっとよくご存じのように、舞台照明は「芸術的な側面もあるが、技術的な側面もある」んです。これは舞台照明というジャンルがこの世に誕生して以来、ずっと言われ続けていることです。そして、舞台照明に携わっている実感としても、この命題は正しいです。舞台照明は「芸術」が100パーセントではなく、少なからず「専門技術」の面があります。いやむしろ、どちらかというと「技術」のほうが舞台照明の基幹であり、「芸術」的な部分は割合としては小さい、と言ってしまっても、間違いとは言えないかも知れません。

技術の評価

先ほどの考察で、「芸術」を評価するときの言葉としては、主観的な言葉は誰でも自由に使えるのに対し、客観的な言葉は、なんだか偉そうで、そのジャンルの専門家にしか使えないような感じがする、ということがわかりました。しかしそれはあくまで「芸術」を評価するときの話であって、「技術」を評価する場合にはあてはまらないかもしれません。では考えてみましょう。「専門技術」を評価するときには、僕たちはいったい、どのような言葉を選んでいるでしょうか。

たとえば外国語の通訳者のスキルを評価するときとか、バスの運転技術を評価するときとか、たこ焼きを焼く手さばきを評価するときとか、そういう、専門的な「技術」について評価するとき、主観的な言葉(好き/嫌い)を使いますか? それとも客観的な言葉(良い/悪い)を使いますか? 自分だったらどういう言葉を選ぶか、ちょっと考えてみてください。

はい、おわかりですね。たいていの場合、技術の評価には客観的な言葉が選ばれます。たとえば、「今回の通訳は良い」「あの運転は素晴らしい」「たこ焼き焼くワザすごい」などと言うと思います。あるいは「じょうず」「へた」といった言葉もよく使われると思います。「素晴らしい」「すごい」「じょうず」「へた」、どれも、主観的な感想ではなく、客観的な評価を表す言葉ですよね。いずれにしても、技術の評価をするときは客観的な言葉が選ばれるのです。

逆にたとえば、主観的な言葉を使って「今回の通訳は好き」「あの運転は嫌い」「たこ焼き焼くワザ、好みかも」などと言ったら、どういう意味になるでしょうか。感じ方にはもちろん個人差があるかとは思いますが、このような主観的な言い方をすると、「技術」そのものに対する評価というよりは、それを行う人への評価を含んでしまう感じがします。技術の評価をするときに主観的な言葉を使うと、それを扱う「技術者」を評価するニュアンスに聞こえる、ということがあるわけです。

これをもう少し掘り下げて考えると、面白いことに気づきます。「今回の通訳は好き」のように主観的に言える人って、どんな人でしょう。おそらく、通訳技術についてある程度知ってる人なんじゃないでしょうか。あるいは「あのバスの運転は嫌い」とかっていう感想は、バスの運転についてある程度は知ってる人じゃないと言えないと思いませんか。「たこ焼きのワザ、好み」っていうような主観的な言い方も、たこ焼き(あるいはそれに似た何かの技術)について、なにがしかの関心がある人でないと、なかなか出てこない言葉だと思います。

技術を評価するときに主観的な言葉を使うと、それを扱う「技術者」を評価するニュアンスに聞こえる、とさっき書きましたが、その「技術者(=人)」を評価するためには、評価する本人がその技術にある程度は詳しくないと無理ですよね。

つまり、「技術」を評価する場合、その技術に疎い人は客観的な言葉を使い、その技術に詳しい人は主観的な言葉を使う(かも)、ということが傾向として言えるのです。

最初の疑問への答え

ちょっと混乱してきた人もいるかもしれないので、話を整理しましょう。ここまでの考察の中から、大事なことを抜き出して箇条書きにします。

評価の言葉には、主観的な言葉(好き/嫌いなど)と、客観的な言葉(良い/悪いなど)の二種類がある
芸術に対しては、客観的な言葉は専門家にしか許されない感じがする
技術に対しては、逆に、その技術に疎い人客観的な言葉を使う
・舞台照明には、芸術と技術の両面がある
舞台照明が評価されるときは、客観的な言葉が使われる

では、最初の疑問文に戻りましょう。

「良い照明」って何でしょうか?

「良い照明」とは、「客観的に良い照明」のことを意味します。「良い」という言葉自体が客観的な言葉であり、「良い照明」とは、主観的にではなく、客観的に高く評価される照明のことを意味するからですね。そして、照明には芸術的側面と、技術的側面があるのでした。さらに、先ほど分析してわかったように、

芸術の評価の場合、客観的な言葉は専門家だけに許される言葉です。
技術の評価の場合、客観的な言葉は「その技術に疎い人」が使う言葉です。

ですから、「良い照明」と言った場合、芸術面での「良い」と技術面での「良い」の二つが考えられます。すなわち:

専門家によって芸術面を高く評価される:
「この明かりは、暖かみと鋭さのバランスが絶妙に素晴らしいと思う」
by 照明の専門家

照明技術に疎い人によって技術面を高く評価される:
「照明のこととか全くわかんないけど、すごい技術だっていう感じがする」
by 照明をぜんぜん知らない人

これらのどちらか、あるいは両方を満たす照明が、一般的な意味での「良い照明」の定義である、というのが、今回の結論です。はい、今回のお話は、これで終わりです。

実は話はまだ始まっていない

ですが、これはあくまで「一般的に良いとされる照明とは何か?」ということを考えたに過ぎないのであって、僕自身の考えとしては、「一般的に良いとされる照明が必ずしも良い照明だとは限らない」と考えています。

では、「一般的に良いとされる照明」ではなく、真の意味での「良い照明」、僕自身が目指している照明とは、いったいどんなものなのか?
「一般的に良いとされる照明」を、僕自身はなぜ目指そうとしないのか? 

これらのことについて、次回、考えてみたいと思います。

【予告編】
次回は「主観的」と「客観的」をさらに掘り下げ、それらの中間にある言葉を見つけて、話を進めます。(予定)

話が哲学っぽくて、ウンザリして来た人も多いですかね。
でも僕自身は、普段でもよくこういうことを考えています。

この文章が面白かったという方、あるいは次回が楽しみという方、ぜひ「スキ」をお願いします。

では、また。

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