「わたし」というモノがないと考える

オレはよく自分というものにがっかりしたり、うんざりしたり、残念に思ったりする

それはやさしくなかったり、理想とずれていたり、一貫性がなかたり、ありたい自分でなかったり、心が狭かったりしたときにあらわれる。

それらのほとんどが誰かと比べての自分への残念さだったりする。
あの人だったらこんなふうにはしないよな(オレにはできない)とか。

あとは、それとわかっていてもそうできない自分への不甲斐なさだ。
少しだけ寛容になればいいだけなのに、心の隅から「こうあるべきだ」という思いが湧き出てきて、思考と感情が走りまわる。表面上はすまし顔であったとしても。

そのとき「はぁ…」という心の中のため息と共に、胸の辺りに透明なものを感じる。
その透明なものを冷静に落ち着いた観察者のオレがただ見つめる。

自分ではどうしようもなくそうしてしまわずにはいられないとき、オレは人には意志というものがないと確信する。

そうありたいと思う自分はどこからあらわれているのだろうか。
そうできない自分はどこからあらわれているのだろうか。
そんな自分を残念に思う自分はどこからあらわれているのだろうか。
それらをただ見ている自分はどこにいるのだろうか。

オレにはビックバンの宇宙の誕生の瞬間から、この抗うことのできない残念な自分は存在していたように感じる。

それはときが来たからあらわれたのだと。
だからオレはそんなとき「そっか、そうだよね。それがキミの存在だよね」となる。

肉体があるから人は、わたしをわたしだと勘違いする。
ただの器である“わたし”を…。

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