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肉体からくる感覚からすべてははじまる。オレはそれを言葉にするために文章を書く。書くことで生み出されていく自分。

オレの口から発せられる音声としての言葉と、頭の中で思考している言葉が違うことが多い。音声の言葉と頭の中の言葉が同じ方向性なら問題はないが…。

人と話していて、自分が声にした言葉が“自分のものでない”と感じるときがある。ぽろっとオレの口からこぼれ落ちたその何気ない言葉に対して、“誰が喋っているんだろう”と思うときがある。

肉体の外で起こった出来事を五感が感知して、その情報が脳に送られる。その情報を無意識が処理する。脳は危険か安全か、快か不快か、損か得か、好きか嫌いかなどを、
過去の経験の記憶、動物としての本能、人間としての習性、遺伝的な気質をもとに複雑な計算を瞬時に行う。

その複雑に計算されたもの、ときに言葉が意識のチェックを受けずに肉体から発せられる。そんなとき“誰が喋っているんだろう”となる。そんなことを言いたかったわけでははないのに、オレの口が、肉体がそう発する。

そんな自分に気づいたとき、ちょっとだけ変な感覚にになる。自分が自分でないような、そもそも自分てなんなんだ?
オレたちは自分が自分であると思っているけど、確認したことはあるのか?
というか確認することはできるのか?

自分が自分であるとはどういうことなのか。ちゃんと考えたこともなければ、しっかりと説明することすらできない。

自分がない、そもそもない、ということが気持ち悪いんじゃなくて、自分があると思い込んで疑わないことの方が気持ち悪いことなのかもしれない。

はじめから自分なんてないと思っていた方が、健全に生きることができるように思う。
自分は言葉によって生み出される幻想に過ぎない。

肉体の感覚はあるが、それはあくまでも感覚なんだと、でもそれは自分ではない。

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