小学校の思い出 ~いじめ編~

小学校6年生の時、教頭先生に対して、かなりひどいことをした。教頭先生が学校を辞めるかもしれないレベルで。

教頭先生は社会の授業を担当していた。

私たちは、社会の授業で、教頭先生の変顔、悪口を紙切れに書いて、回してた。それも社会の授業の時だけ。先生は授業をしているのに、その裏で紙切れを回してた。

こっそりやってたつもりだったけど、バレた。だってクラスメイトは9人だったから。そんな少なかったら、そりゃバレるだろって(笑)

先生ごめんなさい。

恐らく先陣を切ったのは私。完全にお調子ものだった。

昨日のノートでは、私は「おとん、監督のため、彼らを喜ばすために習い事を頑張っていた青年」だった。

対照的に、学校ではめちゃくちゃ悪をしていた。小学校同級生の女子に卵投げつけたこともある。

「家族の前の私」と「学校にいるときの私」は人格が別だった。

仮説を考えられるとしたら2つ。どっちか考えたけど分かんない。。だからみなさんに考えていただきたいです。。。コメントください。。

  仮説1    どちらのコミュニティにも適応しようとしたから。

「家族に認められる私」 と 「小学校の友人に認められる私」 を作っていた。どっちにも適応しようとしていた。適応力がすごい。

家族の前では、私はまるで優等生のような人格である。おとんが厳しかったから、怒られないように振る舞う。

習い事をめちゃくちゃ頑張り、おとんの言うことに従うしかない。

一方、小学校の友人の前では、私はお調子者だ。友人がお調子者だったから、自分だけ優等生を気取っても、仲間外れになるだけ。だからお調子者な人格を作ってた。

あれ、本来の俺の人格はどっちなんだ。。。。

  仮説2    家族の前で我慢してた気持ちを、学校で爆発させていた

家族の前で、自分の想いを殺してた。だからこそ、学校では羽を広げていたのかも。

まるで、空気(我慢)でいっぱいになった風船が、学校にいる時に、パーンと割れた感覚。


もしくは純粋に家族の前では「偽りの私」で、小学校の前では「素の私」だったのか・・・・・・・


どっちなんだろう。。。。。。もう一度考えてみよう






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