長く曲がりくねった道

【小説】

※4回連載の第2回です。 マガジン『20年の不在』に収録しています。

 第1回「しなやかな腕」


予定していたレストランで彼は昼食を済ませ、再びコンバーチブルクーペを走らせた。西の空にうっすらと雲が霞むものの、ほぼ晴天と言っていい。見上げた空は紺碧の空間だ。真っ暗な宇宙の闇に、太陽光線のプリズムが惑星の大気中の青色を拡散させ、塵や埃など拡散を遮る不純物がない状態が、高純度の青を生成している。太陽の光は溢れるほどに降り注いでいるものの、紺碧を極めた空の色がふだんよりも辺りを暗く感じさせる。

遠くに白いハングライダーが音もなくゆれる。

ふたつめの峠を越え、目的地まではあと30分ほどで到着するはずだ。約束の時間まではまだ1時間ある。彼は頭の中の地図を検索し、およそ10キロ先にある車山山頂までのルートを思い浮かべた。ここから先は緩やかな美しいカーブが連続する。

(長く曲がりくねった道は君へと向かう)

ポールの美しくもの悲しいメロディが彼の脳内で直接再生された。

高校3年の冬、彼はビートルズの曲が詰まった3本のカセットテープを真理からプレゼントされた。選曲も曲順も真理が考え、LPやEPレコードから1曲ずつダビングされている。90分テープ2本と60分テープ1本の世界にひとつしかないベスト集には、1曲ごとに手書きで解説まで書かれていた。

レコード針をターンテーブルに落として、レコーダーの一時停止を解除する作業を何度繰り返しただろう。ライナーの丸写しではない真理独自の感性を綴るのに、どれだけ言葉を選んだだろう。彼は改めて、20年前に真理が費やした時間の膨大さに思いを馳せた。


目的地のリゾートホテルには、約束の時間に20分遅れて到着した。彼はクーペをエントランスの車寄せにつけ、ホテルスタッフの手を借りて荷物を降ろした。今日、このホテルで行われる友人の結婚式に出席し、そのまま一晩宿泊することになっている。

車を駐車場に入れ、フロントで宿泊の手続きを済ませていると、突然後ろから尻を蹴られた。振り返ると、渡邊が笑顔のまま今度はみぞおちに拳を入れてきた。

「"お嬢"はすでに落とした。予想通り昔から俺に惚れていたらしいぜ」
渡邊は不敵な笑みを浮かべている。

「遅れてすまない。車山を山頂まで歩いてきた。ナベが真理を口説いていると思って急いで歩いたから、大汗をかいた」彼はハンカチで大げさに顔や首を拭いた。

「嘘つけ。そんなことで焦る柄かよ」渡邊は笑みを深めた。

真顔の時は少し陰のある正統派な二枚目だが、笑うとクシャっと表情を崩し、まるで子どものような無邪気な印象を残す。それは高校の頃からまったく変わらず、外見ではずいぶんと得をしてきた。特に下級生からの人気は絶大で、文化祭では「ミスター」の称号を断トツの得票数で獲得したこともある。場を盛り上げなければいられない、ひとのよすぎる性分さえもう少し控えめであったなら、同級生にも十分にモテたはずだ、と彼は改めて渡邉の顔を見つめた。

「それで、ことは済ませたのかよ」

「済ませるも何も、"お嬢"も遅刻だよ。ここにはまだ来ていない。俺は、お前がどこかで"お嬢"と待ち合わせて、ことに至っているんじゃないかと思って、悶々としていたよ」

約束の時間よりもかなり早く着いたのであろう。渡邊はフォーマルスーツに着替えており、きっちりと締められたネクタイを少しだけ緩めた。

「そんなバカ話より、お前も早く着替えてこいよ。式が始まる前に一杯やれなくなるぜ」

「よし、バシっと着飾ってバーで本格的にバカ話をしよう」彼は渡邊のみぞおちに拳を入れた。

「どんなバカ話をしていたの?」

彼と渡邉は声のする方を振り向いた。

「あなたたちは17の歳からなんにも変わらないのね」

特大のキャリーバッグを携えて真理が腕組みをして微笑していた。


「お待たせ。時間あまりなくなってしまったね」

遅れてバーに入ってきた真理は、カウンターのストゥールに腰を掛けて言った。胸元の程よく開いたシルクの黒いドレスを着こなし、首もとには品の良いサイズのダイヤモンドのネックレスを付けている。

バーテンダーがよく冷えた新しいグラスを真理に差しだし、ワインクーラーから既に開けてあるボトルを持ち上げ、モエ・エ・シャンドンを注いだ。

「女が準備に時間がかかるのはしかたないが、問題はこいつだよ。ついさっきシャンパンを注いだばかりだ。俺はもう三杯目を飲み終わる」

ふたりの間に座るかたちとなった渡邊はバーテンダーにグラスを差し出した。

「渡邊くんは昔から几帳面で、堤くんは昔からマイペース。やっぱり何にも変わってないわよ」

「すまない。ネクタイとカフスの組み合わせがどうしても納得出来なくて、売店に行って3種類しか置いていないカフスを吟味して買ってきたが、結局、持ってきたものの中から選ぶことになった」

「それ、冗談のつもりなんだよね」真理は判断のつきかねる表情で彼に尋ねた。

「んん、7割方は盛られているかもしれないが、3割は紛れもない真実だ。世の中の真実の比率と同じくらいだな」

「やっぱりさっきの発言訂正。堤くんは変わった。とぼけ方が進化してる」

「まあ、どっちでもいいよ。堤が遅れたことを指摘した俺がバカだったということで」渡邊がグラスを持ち上げると、ふたりもグラスを手にした。

「そろそろ乾杯しよう。再会を祝して」

「変わったり変わらなかったりの人生に」

「20年の時の流れに」真理の声に合わせて、3人は杯を合わせた。


「ナベ、俺たちは致命的なミスを犯していることに気づいているか」

式の時間が近づき、真理が化粧直しのため席を外したタイミングで彼は訊いた。

「ん?」渡邊は赤ワインのグラスを飲み干しながら、何のことだ、と聞き返した。

「俺たちは今日、ここで真理に再会してから1時間以上になるが、その間に一度も真理をほめていない」彼はロックスタイルのぺルノーのグラスに口をつけて言った。

渡邊は「ああ、確かに」と頷いた。

「ロビーで会った時も、ダークブラウンのスキニーに白いYシャツをインして、ヒールサンダルを引っ掛けただけの実にシンプルな出で立ちなのに、あれだけの華を背負った38歳の女はそうそういるもんじゃない」

「うん、確かに素敵だった」

「バーに登場した時のインパクトはどうだ。お前は真理のドレス姿をかつて見たことがあったか」

「ない。ドキドキしたよ。黒いドレスの天使が舞い降りたかと思った」

「では、何故真理の素敵さについてほめないんだ」

「わからん、ぐうの音も出なかった。堤、お前はどうなんだ」

「俺か、俺は柄にもなく照れた。照れてほめるタイミングを逸した」彼は煙草に火をつけた。

「俺たちは真理に完敗したということだ」

「で、どうする?」

「ほめよう。真理が化粧を直してさらにキレイになった瞬間に。そして俺かお前のどちらかが真理と寝よう」

「ことを致すのか」

「そうだ、俺たちの"お嬢"である真理とことを致す」

「堤、お前はバツイチとはいえ独身だ。そして俺は家族持ちだ」渡邊は酔った赤ら顔で言った。

「なんだ。家では子どもたちがお腹を空かせてお前の帰りを待ちわびている。だが、そんなことはこの際関係ない」

「この際とはどの際だ?」

「この際とは、俺たちの予想を超えて遥かに素敵な真理が登場したことを指している。いやまて、お前は今日、俺が遅れたら真理を口説くと息巻いていただろ。あの勢いはどうした」

「う~ん、酔って勢いをなくした。歳をとったということか」

「歳のせいにするな」

「んん、じゃあ今回はお前に任せる。これは貸しだぜ」

彼は煙草の火を消しざまに、もう1本火をつけ、ふぅ、と長く煙をはいた。「わかった。これは借りだ。今日、俺はお前から真理を借りる。そしていつか返す。それでいいか?」

渡邊はほおづえをつきながら彼を見て、右手の親指を立てた。

真理が化粧直しから戻ってきてストゥールに腰を掛けた。

渡邊は真理の顔を真正面から見て「"お嬢"、いや橘真理さん、前よりももっとキレイになった。俺たちは完敗だ」と幾分ろれつの回らない口調で言った。

「渡邊くん、見事に酔っちゃったねぇ、式が始まる前に。でも、ありがとう。お世辞でも嬉しい」真理は渡邊の頭を撫でた。

「いや、お世辞ではなく、本当に真理は素敵だ。昔から素敵なのは変わらないが、素敵さに磨きがかかった」彼が渡邊に代わって応えた。

真理は彼に向き直り、一瞬間を空け、目を見開いて言った。
「あらっ、珍しい。堤くんからそんな言葉を聞けるなんて。驚いた。堤くんも大人の男になったんだ。でも嬉しい。ありがとう」

真理は渡邊の腕を掴んで時計を確認し、「さあ、ふたりとも、もう式が始まるから、続きは後でね」と言い、彼と渡邊に今日一番の素敵な笑顔を向けた。


結婚式は滞りなく終了し、高原のホテルの庭園では宴席の準備が整いつつある。親しい友人や知人を5~60人集めたブッフェスタイルのパーティだ。彼と渡邊と真理は、他の地元の同級生たちとともに小さな集団をつくり、新郎新婦の話やその場に不在の友人らの話も交え、それぞれの近況や噂話に花を咲かせた。

その中で真理は座の中心にあり、話題は拡散するたびに必ず真理の元に戻っていった。真理は巧みに話を自分のことから他者に向け、会話に参加している者には、話題が均等に回って心地よい状態がごく自然に起こっているように感じられているはずだ。

彼は真理が場の空気を絶妙にコントロールしている様子が手に取るようにわかり、ときどき投げかけられる彼女からのパスをノートラップで返し、鮮やかなゴールをアシストする役回りを楽しんだ。

高校時代のホームルームでクラス委員として話し合いを仕切る、まだ幼い真理の姿を彼は思い出した。

学園祭のクラスの催しを決めるに際し、真理のバランスの取れた進行で話はほぼ決しかけていたところ、突然、数人の女の子たちから反対意見が出た。それは話し合いの途中ですでにクリアされた課題で、理不尽な申し出と言えた。真理は積極派の発言を借りて、再度軌道修正を試みたが、無駄な努力だった。如才ない真理への嫉妬心が原因であることは、彼を含め何人かのクラスメイトが気づいていた。しかし、その話し合いのなかで、彼は真理が勝ち越しのゴールを決められるような有効なパスを打つことができなかった。その時の不甲斐なさは、何かの折に(例えば眠れぬ夜に思考があちらこちらに飛ぶときなど)、思い出すたびに彼を17歳の何もできない役立たずな少年へと引き戻す。

いま、また真理が酔った渡邊を舞台へ押し上げ、何度かの彼とのパスの末、華やかにゴールを決めた。

陽は西の空に傾き、徐々に広がりつつある雲を赤く染めぬいている。夕焼けが最も美しいタイミングで、新郎新婦がゲストの前に姿を現した。

(続く)


第3回「雨の記憶」


tamito

作品一覧

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?