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日米開戦を巡る黒い空気

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2023年6月の記事一覧

日米開戦をめぐる「黒い空気」 (菊澤研宗「指導者の不条理」から)

菊澤研宗「指導者の不条理」から そして日米開戦の場合に言及する。 ここで菊澤氏は不条理の説明に入る 日本にとって存亡の危機となった開戦の決定。 国として合理的な決定ができなかったことは、陸軍、海軍の損得計算に帰着するのは痛恨の極みである。 問題は、国の重大な決定の場に陸軍と海軍の意をくむ人間しかいなかったことだ。 いつの間にか、国の立場を第一に考えられる人物が、重要な場からいなくなってしまったことが敗因だ。

「そして、メディアは日本を戦争に導いた」半藤一利、保坂正康

戦前メディアが戦争にどう向き合ってきたか。 昭和史で有名な二人が対談している。 さらに軍部よりの記事が濃厚となるのは満州事変以降だともいう。 反戦の新聞もあった。 さらに世の中が物騒になり、それに対応するかのごく、統制がさらに進んでいく。 そして二・二六事件後になると日本の新聞ジャーナリズムは軍と官警(内務省と警察)の両方からの圧力で完全にペンを封じられる。 昭和初期にメディアがもう少し頑張っていたら、歴史はもっと違ったではないかという。 しかし新聞が売れない事態も

「昭和戦前期の政党政治 筒井清忠

戦前の政党政治はなぜ短命に終わったのか。 関東軍が進める満州国建国に反対であった犬養首相が、海軍青年将校 に撃たれ死去し、犬養内閣は倒れた。 その後、斎藤実首相の挙国一致内閣ができ、この時点で政党内閣は終わってしまう。 この時期政党内閣が続いたのは1924年から1932年までの約8年間だった。 この時期は25歳の男子全員に選挙権が与えられた普通選挙が実施された時期である。 大衆デモクラシー段階に突入した時の日本社会は、人口構成から見るとまだ農村的色彩も色濃く残っているが、新聞

「山県有朋」半藤一利

昭和陸軍をつくったとされる山県有朋。 かれは政党政治から影響を受けないようするという明確な意図をもっていた。 半藤氏は昭和に遺したものをつぎのように言っている。 そして山県有朋が、自由民権運動を毛嫌いしたのは、つぎのような体験からでている。 山県の目指したのは軍人が主導する天皇国家なのである。 そこには国民の声を聴く政治はなかった。 日米開戦を決定する場に、国民を第一に考える政治家がいなかったのは、山県の考えたビジョンそのものだったのかもしれない。

「日本陸軍と日中戦争への道」        森靖夫 

なぜ日米開戦につながる決定の場には、陸・海軍の意をくむ人だけになったのか。 どのように国民のことを第一に考える人が排除されてきたのか。 まず、軍部が暴走して誰も止められなくなった経緯を調べることにした。 森靖夫氏の「日本陸軍と日中戦争への道」(ミネルヴァ書房)には、1920年代から1930年代にかけて、日本政治が「政党から軍部へ」と主役が交代した経緯が詳細に分析されている。 それによると、満州事変からが問題のようだ。 そしてその結果として さらに付け加えると、 陸軍が政