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もうひとつの「とんがり帽子」

「とんがり帽子」は、1947年に発表されたずいぶん昔の歌なのですが、映画「ゴジラ-1.0(マイナスワン)」ファンにはおなじみでしょう。発声OKの応援上映(ゴジラマイナスワンでは応援乗船と呼ばれている)では、当時、生まれていない人たちばかりだっただろうと思われますが、一緒に歌う人もけっこういたりしましたね(私もそのひとりでしたが)。

映画の中ではラジオから聴こえてきます。そこでは一部しか流れないのですが(そのあと銀座がどえらいことになる)、とても切ない歌なんですよね。「鐘の鳴る丘」というラジオドラマの主題歌だったのが「とんがり帽子」。戦災孤児たちのための施設を作ろうとする青年がドラマの主人公です。(Wikipediaなどを参考にしました)

「とんがり帽子」の歌詞には「父さん母さんいないけど」というフレースがあります。なぜいないのかといえば、戦地で亡くなったり空襲で亡くなったりしたからです。さきほどの「ゴジラマイナスワン」でいうと、登場人物のひとりであり、主人公の敷島や典子とともに暮らす幼い明子の背景とも重なります。
明子は空襲で両親を亡くしているという設定ですが、明子を育てる典子も、敷島も、どちらも同じように空襲で両親を亡くしています。

それは映画の話なのですが、実際、当時、戦争や空襲で親を亡くした「戦災孤児」は社会問題となっていたそうです。12万人、それ以上にいたのだとか。

※戦争孤児と戦災孤児の違いは、Wikipediaによると、「戦災孤児とは、戦争の結果、保護者を失った子供(孤児)全般を指す「戦争孤児」のうち、特に軍の攻撃等により両親を失った者を指す」とのこと。

戦災孤児は銀座でも暮らしていたのだそう。映画と現実をごっちゃにしてはいけないけれど、「ゴジラマイナスワン」では銀座で、よそいきを着た女の子がお母さんと一緒にゴジラから逃げているところもありますね。でもそのとき銀座には、ひとりで、必死で生きていこうとしていた、自分たちを守ってくれるはずだった親を亡くした戦災孤児たちもいたのでしょう。

私は戦後生まれで、子どもの頃に傷痍軍人を見たことがあるくらいには戦争の痕跡にふれているけれど、親世代に起きたこと(つまり親と同じ世代の人々のなかには、戦災孤児も多数いたのだろうと)であるにも関わらず、戦災孤児については遠い世界のできごと、という印象を持っていました。親が戦争で死んでしまい、自分の力だけで生きていかなくてはならない子どもたちが、わずかな昔にたくさんいたことを、知ってはいたけれども自分に引き寄せて考えてみたことはなかった。

でもかつて実際に多くの戦災孤児がいて、悲しいことに世界に目を転じれば戦災孤児が今でもたくさんいるですよね。なんで人々は学ばないんだろうか。戦争をしたいなら戦争をしたい人だけをどこか孤島にでも集めてやればいいと思う。子どもたち(だけではないが)を犠牲にしてはいいけない。

さて、童謡「とんがり帽子」の話です。
「ゴジラマイナスワン」でも使われ、最も有名なのが童謡歌手の川田正子さんが歌ったものですね。YouTubeでも聴くことができます。

でも私にとって最も印象に残っている「とんがり帽子」は、小沢昭一さんの「とんがり帽子」なんです。小沢昭一さんは俳優やラジオパーソナリティ、俳人などとして活躍されていた昭和のマルチタレントです。

小沢昭一さんの歌う「とんがり帽子」を初めて聞いたのは10年以上前、NHK「ラジオ深夜便」で流れていたのでした。

小沢昭一さんは1929年生まれとのことなので、終戦のときには16歳。たくさんの戦災孤児たちが辛い状況下にあるのを目の当たりにしていたのでしょう。それらを「とんがり帽子」の収録時に思い出していたのか、声を詰まらせて歌っているのです。

CD「夢は今もめぐりて~小沢昭一がうたう童謡」(2001年発売)に収録されている「とんがり帽子」がそれだったのかと思って図書館で借りて聞いてみました。記憶に残るそれではなかったのですが、しみじみとした歌唱でした。

あの音源は何だったんだろう、ある種の思い出補正だったんだろうか。と思いながら検索をしていたら、小沢昭一さんが「徹子の部屋」に出演されて、「この歌を歌うと思い出すんですよ」と話をしている記録がありました。

戦時中に生まれ育った人たちにとって、戦争によるさまざまな経験は忘れたいものでもあり、忘れたくても忘れられないものでもあったのでしょうね。

日本に戦災孤児がいた時代があったということがこれからも記憶され続けなくてはならないのだろうなと思います。たとえそれを思い出させてくれたのが映画であれ何であれ。

ではまた。

トップ画像は写真ACより。

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