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最大の解放の力

Chihiro Sato-SchuhさんFacebookより

【最大の解放の力】

政府のパンデミック対策の危険を警告していた生物学者のクレメンス・アーヴァイが自ら命を断つ決断をしたことで、そういう選択を推奨することになるのじゃないかというような懸念も出てきた。多くの人に慕われていた有名人が自殺したあとで、自殺が流行るというようなことは、今までもよくあった。しかし、他に何も問題がなかったら、やはり人間は自分から死んだりするものではないと思う。何かしらすでに、もうこの世に生きていたくないというような状況があったからこそ、自分が慕っている有名人が自殺したことが、同じ選択をするきっかけになりもするのだと思う。

死にたいと思うことは、ある意味最大のタブーになっていて、そういうことを言う人がいると、多くの場合、まわりの人はヒステリックになって、そんなことを思ってはいけないと叱りつけたりすることになる。しかし、死にたいという思いがあるときに、それを抑圧するのは、逆にその人を追い詰めてしまうこともある。実際に自殺しそうになっている人がいるときは、それはその人に対して一番言ってはいけないことかもしれないくらいだ。

どんな感情でもそうなのだけれど、死にたいと思う感情もまた、人生の設定の何かを変えるべきときが来ていることを示している。だからある意味、それは重要な転換のきっかけなのだ。だけど、それをただ「死んではいけない」「そんなことを考えてはいけない」と排除したら、転換のきっかけを逸してしまうことになる。

その結果、もう嫌になっている状況を変えないで、そこで何とかがんばらなくてはいけないと自分を追い詰めていくことになる。それができない自分は、意志が弱くて、自分勝手で、無責任な人間なのだというような劣等感や罪の意識まで抱えることになる。この状態になっていたら、何かの拍子に衝動的に死んでしまったりするかもしれないし、自分で死ななくても、事故で死んだり、病気にかかったりすることもある。「こうしなくてはいけない」と選択肢を絞ってしまうことが、実は一番、もう死ぬしかないというところまで人を追い詰めてしまうことだったりするのだ。

人生をやめたいということを、たとえば会社をやめたいとか、部活をやめたいということに入れ替えてみると、よくわかるのじゃないかと思う。やめてはいけない、やめたいと思ったりしてはいけない、と思っていたら、ごく狭い選択肢の中に押し込めてしまうことになり、本当には何が嫌なのか、何を変えるべきなのかが見えてこない。それで、自分を追い詰めることになり、会社をやめるどころか人生をやめることになってしまうこともある。だけど、やめるという選択肢もありだと思えたとき、それが本当に解決になるのかどうかについて考えることもできるようになる。実は、会社自体が問題なのじゃなくて、同じ職場の誰かとの関係が問題なだけで、その人と話すとか上司に言って部署を変えてもらうとかすればいいだけの話だったりすることもある。

「死ぬ瞬間」という死のプロセスについての本を書いた精神科医エリザベス・キューブラー・ロスは、死んでいく人たちが死を受容していくプロセスは、何かを喪失したときに、喪失したことを受容するプロセスと同じだということを言っている。それは、親しい人が亡くなったとか、受験に落ちたとか、事業に失敗したというようなことでもそうだし、あるいはもっと日常的に、コンタクトレンズを失くしたとか、財布を落としてしまったとかいうことでも、まったく同じプロセスをたどるのだと。最初は、そんなはずがないと思って、事実を否定しようとしたり、そういう事態になってしまったことに怒ったり、悲しんだりするプロセスがある。そのあとで、最後には起こったことを受け入れて、調和するステージがくる。どんな状況で死ぬ人でも、必ずそうしたプロセスを経て、亡くなっていくものなのだそうだ。

ところで、この受容のプロセスはまた、解放のプロセスでもある。何かを喪失したという事実をなかなか受け入れることができないのは、それに依存しているからなわけだけれど、失くしたことを受け入れるプロセスを経ることによって、私たちはそこから解放されて、自立していくことを学ぶのだ。

何かの理由で死にたいという人も、病気で死にそうになる人も、実はそうした解放のプロセスを必要としているために、死に直面していることもある。死には最大の力があるというのは、実はまさにそうしたことを言っている。私たちは死に直面したときに、どんなものからでも、自分を解放してしまえるような力が出るのだ。臨死体験をした人や、何かの原因で死ぬかもしれないというような思いをして助かった人が、それまでの人生をすっかり変えてしまうようなことがよくあるけれど、それこそは、死というものが持つ解放の力だ。

もう嫌だ、もう生きていたくないという気持ちになったら、「そう思ってもいい」と自分に許してみると、たぶんそのことがよくわかると思う。そう思ってもいいのだ、と思うことは、それほどまでに辛い思いをしている自分にまずは寄り添うことになる。実はそれだけでも、ものすごい力が出てくるのがわかると思う。もう生きていたくないと思うからには、それなりの体験をしているわけなので、「そう思っても当然なんだ」と自分に言ってみると、それだけでも解放される。

実のところ、もう生きていたくないと思うとき、ほとんどの場合は、本当に死にたいわけではなくて、ただ今のような状況で生きていくのはもう嫌だということにすぎなかったりする。だから、状況を変えることができるのならば、それで問題は片づくのだ。だけど多くの場合、私たちは状況を変えることはできないように思い込んでいる。そうでなくては生きていけないと固く思い込んでいることが多いのだ。それは、現実にそう思えるような状況であることもあるけれど、第三者から見たら、何でもないことのように思えることも多い。たとえば、嫌なら上司にそう言えばいいとか、会社をやめればいいとか、そういうことだったりすることもある。だけど、当人にとっては、そうした選択肢はないように思えている。それで、何とかがんばらなくてはと、自分を追い詰めていることが多い。

だけど、そうしたときに、自分がもうこの状態で生きていたくないと思っていることに気づいたら、死ぬくらいだったら会社をやめて生きていこうというような選択肢も、ありになるわけなのだ。病気とか事故とかで自分が死ぬかもしれないというような状態を体験するのも、実はそうでなかったら見えてこない選択肢が、それで見えてくるようになるからだったりする。

たとえば今、ジャーナリストたちは真実を伝えたいと思ったら、主流メディアでは働けなくないようなことになっている。主流テレビ局のニュースキャスターであることにこだわっていたら、もう死ぬしかないというようなところまで追い詰められてしまうかもしれない。だけど、死んでもいいと思えたら、それくらいならロシアにでも逃げていって、そこからネットニュースでもやろうかというような発想も生まれてくる。実際、今モスクワやサンクトペテルブルクには、そういうジャーナリストたちが世界中から集まってきていたりする。

自分が死にたいと思っていることを受け入れると、そのような転換をなしとげてしまうような力が出るのだ。私たちは、現実に何がすべて可能なのか、本当にごくわずかのことしか知ってはいない。だけど、死んでもいいから自由に生きようと思えたら、それまでは絶対にあり得ないと思っていたようなことも、可能になってしまうような力が動き出すのだ。これは、波乱な人生を歩んできた人なら、知っていると思う。まるで導かれるように、あらゆる引き寄せが起こって、流れに乗るように運ばれていったりする。

それは単に、死という考えを受け入れることで、発想の制限が外れてしまうからにすぎない。私たちは、生きていくためにはこうしなければ、とか、こうでなくては、というような制限を設けて、その中で生きようとしている。だから窮屈にもなるし、行き詰まってきたりもするのだけれど、死んでもいいやと思ったときに、そのすべてがいっぺんに外れてしまうのだ。そして、こうでなければと思い込んでいたことなどは、まったく必要なかったことが見えてきたりもする。

意識の次元シフトとは、実はそうしたことだ。次元とは、私たちが現実を測る物差しの数のようなもので、次元が高ければ高いほど、いろいろな物差しを持っているということになる。つまり、現実を見る視野がいろいろな意味で広いのだ。これは不可能だろうと思うようなことが、それより一段次元が高いところから見ると、まったく可能だということがわかったりする。

鶏は、一次元の意識しか持っていないので、目の前に金網一枚置かれたら、もう餌にたどり着けなくなってしまうのだそうだ。だけど、二次元の意識を持っている犬ならば、右か左にまわって、餌にたどり着くことができる。私たちが、もうダメだ、もう死ぬしかないと思っているとき、実は金網を置かれた鶏のようなものだったりする。目の前にあるものを手に入れたいのに、そこに行き着けないので、気が狂いそうになっていたりする。だけどそういうときに、死にたくなっている自分に気がついて、死んでもいいのだと思えたら、とたんにそれまで見えていなかった可能性が見えてくるのだ。

だから、死という考えを自分に許すことは、あり得ないはずの可能性に自分を開くことを意味している。今、世界は大きく変わっていこうとしていて、これまでのような生き方にこだわっていたら、沈んでいく船とともに沈んでいってしまうようなことになっているのが現実だ。国連機関に従っている医療従事者も、マスメディアのジャーナリストも、政府に従っている政治家たちも、それまでの生き方を続けていこうと思ったら、重罪を犯すしかなくなっている。この人たちは、そうでなくては生きていけないと思い込んでいるから、しがみついているのかもしれない。ある意味、金網を目の前に置かれた鶏のようなものなのかもしれない。

世界が大きく転換していこうとしている今、いったいどうやってこれから生きていけるのかもわからないような状況なのだけれど、でも、生きていくことにこだわるのをやめて、「死ぬなら死んでもいい」と思ってみると、その瞬間に何か大きな力に導かれているのがわかるのじゃないかと思う。そしてそれこそは、死というものが持つ大きな解放の力なのだ。

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サンクトペテルブルクに住むドイツ人ジャーナリストのトーマス・レーパーと、ドンバスに行って人生を変えたロシア人通訳のマーシャさん。これからドンバスに人道援助に行くところだそうです。

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