見出し画像

創造は勇気だ

【創造は勇気だ】

テンセグリティ構造を発明したバックミンスター・フラーの画像から、彼のエネルギーに皆でアクセスしてみたら、意外にも、お腹の真ん中から力が湧いてくるようなエネルギーを感じた人が多かった。お腹のあたり、第三チャクラのエネルギーだ。

第三チャクラというと、自己実現していく力で、戦って自分の意志を通すような力でもある。肚がすわっている人というのは、つまりこの力がある人だ。この力が弱い人は、自信がなくてビクビクしていたり、あるいは過剰に防衛的になって、攻撃的になったりする。エネルギッシュで情熱的な感じのタイプを思い浮かべるのだけれど、いかにも温厚なおじさんといった感じのバックミンスター・フラーのエネルギーが、第三チャクラのエネルギーだったのは意外だった。

第三チャクラは火の要素で、陽気さや笑いもまたそこに含まれる。バックミンスター・フラーのエネルギーは、むしろそっちの方かもしれない。面白いから作ってしまおうという、子供のような無邪気さだ。そして、まさにその力こそは、あのテンセグリティの球体を作り上げた力だったのだ。あれは、私たちの身体の真ん中、お腹のところにある太陽の光のような第三チャクラのエネルギーでできていたのだと思った。

バックミンスター・フラーは、エネルギッシュというよりは繊細な人だったようで、傷ついてアル中になりかけたり、自殺しそうになったこともあったらしい。しかしこの人は、面白いことを思いつくのが大好きで、思いついたらこしらえてみないではいられないのだ。その力こそは、第三チャクラの力だったのだと思った。創造性は喉のチャクラだと思っていたけれど、現実化する力は肚から出るのだ。常識と違っていようが、形式がちゃんとしてなかろうが、面白いから作ってしまうという創造力は。

そのエネルギーを感じたとき、私はアボリジニが描く絵のことを思い出した。ウィーン郊外にある美術館でアボリジニ・アートのコレクションを見たとき、この人たちは、自分が住む土地を、まるで自分の身体のようによく知っているのだと思った。その肌感覚のようなものを、彼らは絵に描いているのだけれど、そこには土地の手触りとか匂いとか、そういうものがすべて入っているように思えた。アボリジニたちは、目に見えるものを描いているのではなく、目に見えない世界を描き込んでいる。しかしそこには形式もなく、シンボルとか言語のようなものもない。それなのに、肌感覚のようなものとして、それが感じられるのだ。

それを見たとき、私もまた、こういう感覚を表現してもいいのだと思ったのだ。というより、表現してみたくてたまらなくなった。それで、作っていた花瓶のような器に、私が見ている見えない世界を描いてみた。私はそれまで、実用の器しか作っていなかった。当時の私にとって、実用でないものを作るのは、禁を犯すような感覚だった。アボリジニの描く絵に触発されて、私はその禁を犯したのだ。それが私の最初のオブジェ作品になった。それ以降、私はありとあるオブジェ作品を作り始めた。アイディアが次々と湧いてきて、作るのが面白くてたまらなかった。

どうしてそんなにどんどん作品が作れるのかと、あの頃よく人に聞かれた。私は陶芸も絵画も正式に習ったわけではない。「芸術は、勇気だけなんだよ」とよく私は答えていた。形式がちゃんとしてなかろうが、基礎ができてなかろうが、人が何と思おうが、そんなことは一切関係なく、ただ自分はこれがいいというものを作ってしまえというだけだった。自分にしかわからなくてもいい、と思って作ったら、人がそれを見て、面白いと言った。自分にしかわからないと思ったけれど、どこか深いレベルで人に通じているのがわかった。

バックミンスター・フラーのエネルギーに皆でアクセスしたときに、私はその創造の勇気の力とでもいうものを感じたのだ。第三チャクラのあたりに、太陽のように放射する暖かい光のようなエネルギーだ。あの同じ力で、アボリジニたちもまた絵を描いていたのだと気がついた。そして、私が作品を作っていたのも、やはり同じ力でだったのだと。

バックミンスター・フラーが作るものも、アボリジニの絵も、何かの特別な技術や技能が必要だというようなものではない。作ろうと思えば子供でも作れるようなものなのだけれど、それを、人が何と思おうがかまわない、と作ってしまう純粋さがあればこそ、それは世界を変えてしまうような力を持つのだと思う。そして、その創造の勇気とでもいうものは、まさに第三チャクラから出てくる力なのだ。

世界が実はずっとシンプルなものだったことが、これからは現実レベルでわかってくるようになるんじゃないかと、マヤ暦の新年とも言うべき260日のツォルキンの始まりの日に、そう思った。バックミンスター・フラーが考案したテンセグリティ構造みたいにだ。これまではずっと多くの時間と労力をかけて、重たい構造を積み上げてこしらえていたのに、テンセグリティ構造は、そんな労力などかけずに、特殊な技術も必要なく、巨大なものをこしらえてしまうことができる。これまでの常識とか、独占できる利権だとか、そういうことを考えるのをやめるならば、実は私たちは、ずっとシンプルなやり方で、労力もエネルギーもあまりかけずに、必要なものを作り出すことができてしまうのかもしれない。そうした技術やアイディアは、独占することができないために、これまで封じ込められたり、実用化されないできたりした。だけどこのツォルキンでは、それが現実レベルで表に出てくるのじゃないかと思った。

それから、テンセグリティ構造のエネルギーを世界に送るワークなどを皆でやっていたのだけれど、テンセグリティのエネルギーを光の玉に入れて、いろいろなところに送ってみると、これまでいかに面倒くさいやり方をしてきたのかが、まるで透けて見えるかのようだった。企業にしても政府にしても、ほとんどの人々は、コネだとか根回しだとか買収だとか、そういう関係性を固定するようなことにものすごい労力を使っていて、実際の仕事にはその10分の一も力を使っていないのかもしれない。だから、そういう立ち回りがうまい人たちばかりが、世の中でうまくやってきたわけなのだ。だけど、このすべてをテンセグリティ風にシンプルにしてしまうと、もうそういう関係性を固める能力も労力も必要なくなって、本当に仕事ができる人たちだけで、簡単に仕事を片づけることができてしまうのかもしれない。そうなったら、もうこれまでの4分の1ほども働けばいいということになるのかもしれない。何だかずいぶん大変で面倒に思えていた世界は、実はずっとシンプルにできていたことに気づくことになるのかもしれない。

今、ロシアでは、世界中から経済制裁をかけられ、戦争もしているというのに、人々の生活水準は西側ヨーロッパよりも高かったりする。西側メディアはそれと真逆なことを言っているけれど、ウクライナ東部の人たちが圧倒的多数でロシア併合に投票したのは、実はロシアの方が生活費が安くて社会保障もいいのを見ていたからだったというのもある。西側ヨーロッパが20年前からEUで搾取され始めて貧しくなっていったのに対し、ロシアは中央銀行からも西側NGOからも解放されて、豊かになっていった。この3年ほどで、西側諸国には、実に巧妙な搾取システムが機能していることが表に出てきたけれど、そのために、いくら生産性が上がっても、人々は生活に追われるような状態に意図的にされてきたことがわかってきた。それで私たちは、人生とは生活に追われることだと思い込んでいるようなところがあるのだけれど、その思い込みも、あるいはこのツォルキンで消えていくのじゃないかという気がした。

ツォルキンの始まりには、いつもこのツォルキンはどんな風になるだろうということを書いておくのだけれど、それはいつもだいたいその通りになっている。どういう風にして、それが現実になるのかはわからない。どういうふうにしてなっていくのかは、いつもあらゆる予想を越えている。それは、時間の力とか宇宙の導きというものなのかもしれないし、あるいは私たちの内にある現実化の力というものなのかもしれない。だけど、それが私たちの身体の真ん中のところにある第三チャクラの太陽の力なのだと思ったら、あるいはそうしたものなのかもしれないと思う。


https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=pfbid027dQRL8Pk3xvpXQvu6wHoFKjKzjqS1fKyeaggjWdX6V11B2BJLkiDsyBtwc8EB9Vml&id=100000165488492