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生きた思考

Chihiro Sato-SchuhさんFacebookより

【生きた思考】

封印は、一つ解けるたびに、世界が違って見えてくる。それまで当たり前だと思っていたことが、もう当たり前には思えなくなっている。そうしたものが、作られた形だけのもの、見せかけだけのものにしか思えなくなってくるのだ。そして、それまで影に隠れていた、つまらない価値のないものに思えていたものが、実は本当の力を持っていたことに気づいたりする。

封印とはつまるところ、本当の力を持っているものを、つまらない価値のないものだとか、邪悪で恐ろしいものだと見せかけることによる。そして、別なもの、本当には価値のないものを、代わりに見せるのだ。そうやって支配者たちは、人々の本当の力を奪い、その代わりに支配権力を拝ませていた。

だから、封印が解けると、その逆のことが起こる。それまで価値があると思い込んでいたものが、実はつまらない見せかけだけのものだったことに気づき、つまらないもの、悪いものに思えていたものに、本当の力があったことに気づくのだ。

この間から、頭の封印、思考力の封印を開けようといろいろ試しているのだけれど、それで思考というものについて、これまで見えていなかったことが見えてきている。オルタ・メジャー・チャクラから松果体のあるあたりを開いてみたり、頭頂チャクラを開けようとしてみたり、いろいろやってみていた。そうやってあれこれやっているうち、これまでの封印が解けてきたらしく、これまで思ってもみなかったような概念が浮かんできた。

私たちはこれまで、大脳でものを考えていると思っていた。だけど、本当の思考というものは、実は脳の真ん中のあたり、松果体があるあたり、原始的な感情とか生存本能とかを司っていると言われているあたりで行われているんじゃないかと思えてきた。松果体があるあたりというのは、脳と脊髄が繋がっている場所であり、つまり頭と身体の神経系を繋いでいる部分だ。そして、そのあたりに意識を向けていると、大脳のあたりで考えていることが、形だけのつまらない思考に思えてきてしまう。

大脳のあたりには、いろんなところで仕入れてきた情報が記憶されており、情報が組み合わされて、体系化しているようなものもある。理論だとか論理だとか、計算だとか、作り話だとか、いろいろな情報が入っている。大脳では、そうした理論が作られたり、作り話が作られたりもしている。しかしこうしたものは、それだけでは単にコンピューターのメモリーに保存されているデータのようなものにすぎない。これが生きた思考になるには、頭の中心のあたりと繋がる必要があるらしい。

頭の中心のところ、つまり松果体があるあたりで思考しているとき、それは身体感覚ともダイレクトに繋がった感覚になっている。その脳の部分が、大脳に記憶された情報のあるものを「これは役に立つ!」と感じると、脳のいろんなところにしまわれた記憶がパパッと繋がって、シナプスのようなネットワークができるのだ。そしてそれこそは、生きた思考であり、そうした思考は、現実に世界を変える力を持つ。新しく世界を創造してしまうような力を持つ。

まさにその力こそが、これまで封じ込められてきていたもののようだ。そしてその代わりに、大脳で思考するようなことばかりが、価値のあるものだと思われてきたのだ。学術研究のほとんども、こうした大脳の思考で作られたものだ。それは実証された論理とか理論とかで組み上げられていて、高度なものではあるけれど、現実的に役に立ちはしないものだったりする。大脳は、既存の情報を処理することができるだけなので、結局のところ新しい発想というものはそこには入ってこないようになっている。だから現実を変えるような力も持たないのだと思う。

私たちは、頭でものを考えているとき、これまでに経験したこと、知っていることからしか、考えることができない。それは、これまでに保存してきた情報を、これまでの経験に照らし合わせて処理しているだけだからだ。だから、過去に起こったことがいつも繰り返されるようにしか思えないし、これまで成功しなかったことは、これからも成功しないように思えたりする。

ところが、現実に起こることは、もっとずっと多様で不思議なことだったりするのだ。まったく思ってもみなかったようなことが起こることなんて、実はいくらでもある。変化の多い人生を送ってきた人なら、そんなことは何度も経験していると思う。現実というものは、私たちが頭で考え出せるものよりも、はるかに多様で、はるかに多くの可能性に満ちているのだ。

ところで、そういう現実の多様性、多様な可能性を感じ取る感性も私たちには備わっている。それが霊感とか宇宙意識とか言われるものだ。そしてその受容器とは、大脳ではなくて、頭の真ん中の松果体のあるあたりの脳であるように思える。

脳のその部分がピピっと反応して、大脳から役に立つ情報をパパッと集めてきて、ネットワークができる。つまりそれが思考というものなのだけれど、それは天才のひらめきのようなものだ。そして、そうした思考は、現実に世界を変える力を持つ。

ところが、そうした思考は、普通の人間にはできないもののように思われていることが多い。そして、そうした思考をする代わりに、大脳で処理するようなことばかりをやらされるのが、学校教育というものだったりする。そして、脳の真ん中のあたりでする天才的な思考をしていると、学校ではふざけているとか、不真面目だとか思われることになる。そればかりか、発達障害だとか頭がおかしいんじゃないかとか疑われることもある。

天才度を測るテストというのがあって、それは、一つの質問から、どれだけ多くのどれだけ幅広い答えが出せるかを測るというものなのだそうだ。たくさんのいろいろな答えを出せれば出せるほど、天才度が高い。このテストをいろいろな年齢の子供にやったところ、三才までの子供は、ほとんど100%が天才と言える成績だった。それが、学校に行き始めると、どんどん下がっていき、義務教育を終える頃には、ごくわずかな子供だけが天才のレベルに達する状態だった。

学校教育は、近代国家ができてから始まったので、日本では明治期からだ。近代の学校制度というものは、国民が兵役に行けたり、労働者として指示に従えるように教育することを目的としてできているわけなので、自分で考えるようなことは、そもそも目的にしていない。独自の思考をする力などは、むしろない方がいいのだ。自分で考えるのではなく、ただ言われたことを処理するように、教育されている。だから、独自の発想などをする子供は、しばしば問題児扱いされているし、大人ならば異端者扱いされていたりもする。

あるいは、まさにそれこそ頭のチャクラの封印だったのではないかと思う。それが頭頂チャクラなのか、松果体なのか、何なのかわからない。私にはまるで、頭頂チャクラが実は頭頂ではなく、松果体のところ、つまり頭の底の部分だったのではないかとさえ思えている。何と呼ぶのかはわからないけれど、とにかくそのあたりの脳こそは、宇宙意識を受け取って、天才的な思考、生きた思考をするセンターのように思える。

世界を変える発想、天才的な発想といわれるものは、窮地に陥ったようなときに、どこからともなく閃いてやってくることが多い。それは、学んできたことから積み上げていってできていくといったものではなく、必要にせまられたとき、ふっと湧いてくるように、やってくるのだ。すると、それまでに積み上げてきた技術や知識から、パパッと必要な情報が集めれれてきて、五感や身体の筋肉もピピっと繋がって動き出し、作品ができていく。そうした天才的な創造というものは、この頭の底のところにある思考のセンターが中心になって起こることなのじゃないかと思う。

こうした思考、天才的と言われる思考、脳の底の方を中心にしてなされていく思考こそは、生きた思考というものだ。それは頭で考えられたとはいえ、現実的な、身体的な感覚を持っていて、しかもワクワクするような全身の喜びがある。それを考えると、これまでずっと、すばらしいもの、高いもの、目指すべきものと思えていた高山のような学術体系や理論などが、何だか色あせたつまらないものに思えてきてしまう。それもまた必要なものかもしれないけれど、しょせんは脳の底の方でする生きた思考のツールでしかなく、それ自体に価値があるものではないように思えてくる。

それで、星座のように天高くあった知識の世界が、シューンと一気に存在感を失って、世界が平らになってしまったような気がした。しかしそのときに、この頭の底のところにある生きた思考、大地に根づいた、身体感覚のある思考というものが、一気に存在感を増してきたのだ。思考するとは、実はこれほどに楽しく、全身の力が湧くようなものだったのだ。これが今までずっと封じ込められていたものだったのだ。

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画像は、うちの庭から撮った今日の満月