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浅い呼吸のような


終わらしたい。やるべきことをなくしたい。命にかかわらない締切は娯楽の域を超えてはいけない。
(metaphor=命→好きだ)

車窓を眺めながら思いを巡らせるときのような感覚(時間や場所や自由度のこと)を保ったまま文章を書くことはできない。残念ながら!
書く用のあたまを用意する必要があるから。言葉を探すのでいっぱいで、景色を見ている暇はない。
弁解に弁解を重ねて、文章はできあがっていく。


経験は、思い出になった時点でフィクションになる。
大事なのは出来事をどれだけ正確に思い出せるかどうかより、それが自分だけのものかどうかとか、絵や文章に起こしたらどうなるのかとか、人にどんなふうに伝わるのかとか、もっと実用的なところにあると思うのだ。

改めて、演じると表現するに相応しい人間生活。インターネットの中でも、高速で人格を切り替えながら素早く演じている。たとえばリアルタイムでの驚きはもう冷めていても、「あ!」とか「え!」とか書いたりする。
当たり前だけど。(だって、なんのための感動詞。)言葉は人間の歯車のずっと先端にある道具のようだけど、それが動いたら全部が動くわけですので。


人は肉体を異常に重要視している
もはや崇拝しているまであるのでは
というより、重要視というより、そりゃそうか?写真や文字と、固有の質感を持った立体物とでは五感から入る情報があまりにも違うから。
ただただその差かもしれない。
ツイッターの中で生きていくことは十分可能で、肉体の世界に意識を向ける必要は必ずしもない。メリットはデメリットになりうるし、デメリットはメリットになりうるから。それでもやはり、メリットはメリットのままで、デメリットはメリットに変えていくという作業は大切かもしれない。☺️というフリをする


美容院に行った。
美容師はいつもなにか喋りかけてくるけれども、ドライヤーの音や周囲の話し声で聞こえなかったりする。
髪を整えることと会話することは全く関係ない気がするので僕は聞き返さない。そしたらなんとなく返事をするけど、美容師に私の声が聞こえるわけがない。美容師も、適当に返してくる。
このようなやりとりも、会話の一種なのか。
いや会話の一種というより、会話の極端な一例のような気もする。本来会話とはどうしたってそうなってしまうものかもしれない。
だから嫌なんだと言ってしまえばそれまで。


痛いことを自覚しつつも、ぞわぞわしながらあえてそうやっていくその精神が好きだ。痛さとは、周りからどう思われているかについての回答や、身勝手な自覚で、つまり自分自身の外側の捉え方だ。
あるいみ自分を抜け出せないという ことへの皮肉。


他者が決めるのは価値であって、正しさではない。正しさを決めているのは常に自分で、それも思いがけない状態で。
私はその時が来るのを楽しみにしている。




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