自己実践としての語りなおし―『ランスへの帰郷』を読んで

 『ランスへの帰郷』はパリの知識人となったディディエ・エリボンによる自伝である。ランスは、フランス北東部の田舎町であり、エリボンの生まれの故郷だ。労働者階級出身の知識人であり、ゲイというセクシュアリティを持つ筆者は、社会的場面において度々自覚する自身の出自に対しての恥と、本書を通して向き合う。この自己対峙をエリボンは本題の通りに「帰郷」と名付けるのだが、「帰郷」には地理的な回帰と自己への観念的な回帰の二重の意味が込められている。父親の死を契機に、長らく離れていた故郷ランスへ帰郷することと同時に、その土地に染み付いた(階級及びセクシュアリティの)歴史性、また分裂した自己の、再編成としての語りなおしが並行して行われるからだ。本書の特徴は、回顧録的でありながら、極めて客観的に独白が行われる点にあり、そのなかで鋭い社会考察が行われる。
 さて、本書には数々の問いが散在しているが、一貫するのは、社会におけるあらゆるカテゴリーの対立、支配と服従の構造に対する強い疑念である。ゲイへの抑圧、右傾化する労働者階級たち、アカデミアにおける階級差別……。これらはすべてカテゴリー間の闘争である点で共通している。その格闘場から降りるために、「我々」は何者かであることを拒否することはできないだろうか。本書の中でエリボンは次のように語る。「『束縛からの解放』(émancipation)が存在しないのと同様、絶対的な「壊乱」も存在しない。私たちはある時点で何かを壊乱するのであり、少しだけ位置を移して、一歩だけ離れるという逸脱行為を達成する。[……]私たちにできるのは、せいぜい、歴史を通じて設置され、私たちの存在を閉じ込めているいくつかの境界を乗り越えることである」(pp.216)ここで注目すべきは「乗り越え」の可能性の示唆である。ヘーゲル的な弁証法の先にある可能性、それは空想的なイデオロギーではなく、確かな実践として行われるものであること、本書での筆者の「帰郷」はまさしくその逸脱行為と乗り越えの実践、いわば語りなおしであると考えられる。語りなおしとは、ベンヤミンのいう「星座的布置*」を築く実践であるように思う。彼の『哀悼劇論文』の規定によれば、「はかなきもの」がアクチュアルな輝きを放つのは、いったん「諸事物を解体して構成要素に分割」し、そこから生じた諸々の断片を収集し、たがいに組み合わせることで、ひとつの「星座的布置〔Konstellation/Konfiguration〕」を構成することによってである**。

 また、廃墟の歴史を再び輝かせるその実践を「私」という自分史において実践する意義について述べるならば、私は「語りなおし」の自己実践こそに、弁証法を乗り越える可能性があるのだと考える。『ランスへの帰郷』では社会的カテゴリー間の対立が主に取り上げられるが、そうした対立は道徳的地平や主体の歴史の中でも生じるものである。むしろ、主体という自分史(物語的自己同一性)の中での「私」の対立によって危機に立たされた「私」が、ルサンチマンのようにその空間をずらして闘争を試みようとする結果が社会的場面における「弱者」排除にもつながっているのではないだろうか。つまり、「私」のなかの他者の位置を移し、再編成を試みることで、支配と服従による主体の危機を乗り越えられないか、と考える。何者かであることを引き受けることは、同時に別の何者かであることを拒否することである。物語の語りなおしはその支配と服従の乗り越えの可能性を我々に見せてくれる。語りなおしの実践から「我々」はカテゴリーを乗り越えることはできないだろうか。『ランスへの帰郷』が私に与えてくれた示唆を手掛かりに、今後、乗り越えの先にある地平を見つめていきたい。


*ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』上巻(浅井健二郎訳、ちくま学芸文庫、1999年、pp.30-34)

**竹峰義和『<救済>のメーディウム−ベンヤミン、アドルノ、クルーゲ』(東京大学出版会、2016年、pp.3)

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