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與那覇潤『知性は死なない 平成の鬱をこえて』を読んだ

 與那覇潤『知性は死なない 平成の鬱をこえて』を読みました。与那覇さんの本は、『中国化する日本』がとても好きで、メディアに登場するときにはできるだけ読んだり聴いたりとしてきたのですが、鬱になって大学をお辞めになっていたのを知ったのはけっこうたってからでした。うつ病についての説明などもありながら、そもそも「知とはなんのためにあるのか」ということが書かれている本でした。

 与那覇先生の人柄が知れる、とても素敵な本だったと思っています。関心があった部分をメモとして残します。

 大学教授をはじめとする知識人が社会を変えられないのはなぜか、ということが書かれています。

なぜ、知識人とよばれる人びとは、社会を変えられなかったのか。どうして、変革の時代であったはずの平成が、このような形でおわろうとしているのか。
それはけっして、日本の一般国民の「民度が低い」からではありません。ましてや、あまり知的ではない一連の書籍に書かれているような、「外国の陰謀」によるものでもありません。
病気を体験する前の私自身をふくめて、知識人であるか否かをとわず、多くの人々が考える「知性」のイメージや、それを動かす「能力」を把握する方法自体に、大きな見落としがあったのではないか。逆にいえば、知性というもののとらえかた、能力のあつかいかたを更新することで、私たちはもう一度、達成しそこねた変革をやりなおせるのではないか――。(p.17-18)

 「知性」とはどういうものなのか、ということについて、本のなかで説明がされていますが、そのなかで興味があったのは、ある大学で行われているという「読書を通じた知性の磨き方の第一歩」とも言えるような活動です。これは学校で取り入れられそうなところがありそうだと感じました。

大学教員として編集者の方と話していたときに、さる女子大の先生がおこなわれている、初年次教育の内容をきいたことがあります。
参加した学生全員に、毎週1冊、新書を紹介してもらう。しかし、それでは毎週1冊ずつ読破しなくてはいけないのかというと、そうではない。
なんでもよいから、自分が「いま、読んでみたいと思った新書」を1冊持参して、「どうして、その本を選んだのか」を説明すればよいというのです。
そうすると、かりにまだ1ページも読んでいなくても、「著者はだれか」「どういう履歴の人物か」「なぜ信用に値すると考えたか」「どんな知見がえられると期待されるか」……といったことを、学生が自分で吟味するようになります。もちろん意欲がある学生は、じっさいに内容を読んで「まだ何章しか読んでいませんが、こんなことが書いてありました」という報告をしてもよい。
重要なのは、それが連鎖していくことだというのです。
1年間もこれをくり返していくと、自身の関心にそくして良書を読み、かつ他人のことばのコピーではなく自分なりに咀嚼して語れる学生が、クラスのなかでかがやいてくる。
テストでいい点をもらいたいから、他人の書いたことばをコピーするというのではないのです。いっしょに学ぶ仲間たちの視線の前で、自分が敬意をはらわれる、自尊心を持ちうる存在でありたい。そういう身体的な欲求の部分にうったえかけているのが、この授業のミソなのだろうと思います。(p.184)

 最後に、「知性」をどう働かせればいいのか、ということについてのメッセージもとてもよかったです。身体と言語とを使って「なぜ」を突き詰めていくことが大事だというものでした。

あなたがもし、いまの社会で傷ついていると感じているなら、それはあなたにいま、知性をはたらかせる最大のチャンスが訪れているのだと、つたえたいと思います。
あなたにはいま、これまであたりまえだと思ってきたことが、「なぜこうなっているのだろう」というふうにみえています。これまで存在を意識すらしなかったものごとが、「なぜ存在するのだろう」と感じられているし、逆に思いつきもしなかったアイデアについて、「なぜ実現しないのだろう」という気持ちがしています。
3章のことばをつかえば、この「なぜ」という疑問を駆動させるのが、身体的な違和感。そしてその「なぜ」という問いを深め、そんな問いをはじめて聞いた人にもつたわるような説明へとみちびくのが、言語による思索です。
どうか、そのふたつの双方を、大事にしてください。
言語にばかりかたよっては、せっかくの知性がもういちど、せまい大学や書物の世界に閉じてしまうと、かつての私自身にたいする反省として、おつたえしたいと思います。(p.279)

 これからの与那覇先生の書くもの、活動も、ずっと追いかけていきたいと思いました。

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