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鶴ヶ城へ行ってきた(2016年8月28日)

会津若松への出張があったので、司馬遼太郎『街道をゆく 白河・会津・赤坂散歩』を持っていって、読みながら行った。たぶん3回か4回読んでいる本なのだけど、おもしろい。というか、会津の人たちの凄さを何度も何度も感じられるので、読み返す。

会津若松城へ行くと、蘆名氏→伊達氏→蒲生氏→上杉氏→保科氏→会津松平氏と、名門の流れがずらりと並んでいる看板があるのですが、このあたりの家臣団の作り方についても書かれています。こういう話、本当に好き。

かつて会津を領した蒲生氏郷は、家臣団をつくるにあたって、石高数千万石という大身の者を多くつくり、かれらにそれぞれの配下をひきいさせることで強力な蒲生軍団をつくった。
このやり方は氏郷のような統率力のある者が上にいる場合には有効だったが、そうでない場合は、家中不和のもとになりやすかった。げんに氏郷が死んだあと、蒲生家は扇の要をうしなったように自壊した。
正之は、正反対の組織をつくった。
わら束を切りそろえたように、中間層の多い家臣団をつくったのである。
最高の禄を四千石でおさえ、それも二人だけにした。
これに対し、百石から四百数十石までという中間層を全体の八五パーセントぐらいにした。百石以下の小禄者もわずか三パーセントにし、極度にすくなかったから、擬宝珠型といっていい。
このことは、藩士の自律性を高めた。たとえば近代社会において中産階級の多い社会が安定度が高く、よき文化(風儀)が醸成されやすいという法則とも一致している。
ともかくも会津藩は八五パーセントの中間層のおかげで密度高い藩風が確立したのである。さらには、教育水準を高めることにも役立ち、もう一つは結束力もつよくなった。(p.173-174)

それから、会津といえばやはり幕末、戊辰戦争です。会津藩士の幕末~明治にかけての人生はものすごい人が多いのですが、山川浩が書いた『京都守護職始末』は、原稿は明治35年にできあがり、山川健次郎は兄・浩と親交のあった土佐人谷干城と、おなじく長州人三浦梧楼にみせたそうです。でも、谷はけっこうではないかと言ったらしいが、三浦は難色を示した。その結果、健次郎は9年待って、ようやく明治44年、旧藩の者にだけ配るという形で、刊行された。

それから、石光真人『ある明治人の記録』も。副題は“会津人柴五郎の遺書”。柴五郎は、明治初年、斗南の地から飲まず食わずで上京、できたばかりの陸軍幼年学校に入学。大正12年には陸軍大将として予備役に。「この明治の軍人の人柄や言行をみると、昭和の軍人とはべつの民族ではないかと思えるほどである」と司馬さんが書いています。

そして、会津藩主 松平容保についてのこと。本当に切ないな、と思います。こんなことを読みながら、会津若松城を歩いてきました。

私は二十年ほど前、このような容保のことを、『王城の護衛者』という題のもとで書いた。
およそ非政治的な青年が、政治の風浪のなかで翻弄され、ついに砕かれてしまう話である。会津若松城の開城降伏後は、城地没収の処置に遭い、住むべき屋敷もとりあげられた。
明治二年十一月、松平の家名が再興され、家も、旧臣が奔走して内桜田の旧狭山藩邸が用意された。
容保はここで、壮齢ながら余生を送った。
明治二十六年十二月に病没するまで、この人は、京都守護職時代のことを語らなかった。ただ当時のうらみをのべた詩がある。慶喜に裏切られたときの詩である。「なんすれぞ大樹(将軍のこと)、連枝(一門、自分のこと)をなげうつ」からはじまる詩は絶唱というべきものだが、その詩でさえ、旧臣たちは世間に遠慮をし、門外に出さなかった。
容保は、篤実な性格のせいか、逸話というものがなかった。
ただ、肌身に、長さ一尺あまりの細い竹筒をつけていた。ひもをつけていた。ひもをつけて頸から胸に垂らし、その上から衣服をつけているのである。入浴の時だけは、脱衣場の棚においた。
家族のたれもがそれを不審におもったが、問うことをはばかるふんいきが、容保にあった。
その死が明治二十六年十二月であることはすでにのべた。十月に病み、十二月五日に死んだ。
死後、竹筒のなかみを一族・旧臣が検ためてみると、なんと孝明天皇の宸翰二通だった。この二通が、明治後、沈黙の人になった容保のささえだったのである。
それでもなお、会津人はつつましかった。この二通で、薩長という勝者によって書かれた維新史に大きな修正が入るはずだのに、公表せず、ようやく明治三十年代になって、『京都守護職始末』に掲載するのである。
いま、東京銀行の金庫のなかにおさめられている。(p.203-205)

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