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竹田青嗣『哲学とは何か』を読んだ

竹田青嗣先生の『哲学とは何か』を読みました。おもしろい。竹田青嗣先生の本は、ただの紹介や情報整理じゃなくて、一緒に考えようという気にさせてくれるタイプの哲学の本だと思っています。

最近、いろんなところで読んだり聴いたりしていることにだいたい入っているキーワードは、「言語ゲーム」。

語り手と聞き手は、言葉を介して、受けとって欲しい、あるいは受けとりたい「意」をやりとりしている。言語ゲームにおいて生じているこの「意味」を、「一般意味」と区別して「企投的意味」と呼ぶことにしよう(企投は、投げかけの意味)。つまり、言語ゲームにおいて成立しているのは、「一般意味」を媒介とした「企投的意味」の間主観的な信憑-了解ということである。ここに、言語ゲームとしての「言語」の本質構造が示されている。(p.126)

コロナ禍で、学校が休校になり、オンライン授業が進み、教育関係のいろいろな言説が出ていますが、自分の言いたいことの「意」と受けとりたい「意」のズレを感じる。間主観。大きな話題であればあるほど、ここのズレが埋められない…。お互い良かれと思っているけれど、すれ違う。

このあたり、「じゃあ、どうすればいいんだよ…」と気持ちが萎えそうにもなるのですが、それでは何も解決しないわけで、必死に「じゃあ、どうする?」「自分で何ができる?」「どうなったらいい?」と考え続ける毎日です。自分なりにやれることをやる以外には、できることなどない。

社会の思想は、当為の理念、あるいは「理想」の提示であってはならず、どこまでも普遍的な理論(思想)として提示されねばならない、ということである。
なぜなら、普遍性を求めない思想は、まず理想理念の多様性の前で挫折し、ついで普遍的な思想など存在しないという相対主義の前に屈するほかはない。このことは何を意味するか。これも一言でいえる。哲学や思想の営みは、結局のところ、人々の心のうちに拡がるあのシニシズムの「声」、「あれこれいっても所詮は理屈にすぎず、現実には力がすべてである」という声に対抗することができないからだ。もしそうだとすれば、つまり思想や哲学が「現実への対抗」という本質をもてないのであれば、哲学や思想にいったい何の意味があるだろうか。(p.276)

シニシズムに落ちてはいけない。僕は、「日本の教育は…」みたいな大きな主語を使わずに、ひとつひとつの教室での先生と子どもたちの間にある実践を並立的に作っていくことしかないと思っています。それぞれの教室での実践も間主観的で、言語ゲームと同じ。ゲーム間の通訳できるような自分でありたい。

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