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井上章一『京都まみれ』を読んだ

井上章一『京都まみれ』を読みました。タイトルが素敵すぎて…。京都嫌いと見せかけて、京都への愛があちこちに読める感じの本でした。歴史っておもしろいなあ。京都とか、近畿とか、関東とか、西京区とか、西京焼きとか、いろいろ全部関係しているのだなあ。あと、京都の洛中、洛外の話とか、詳しくいろいろ書かれていておもしろかったです。京都人、大変…

そのなかで、伊藤仁斎の名前が出てきました。堀川下立売あたりに生家があったそうです。高校2年生~3年生のときの担任の先生が、伊藤仁斎をとても好きだったな、ということを思い出しました。よく授業の中でも、伊藤仁斎の名前が出てきていたように記憶しています。

とうとつだが、ここで伊藤仁斎(1627~1705年)のことをとりあげる。江戸時代初期の儒者である。朱子学になびかない、いわゆる古義学の学風をきずいたことで、よく知られる。思想史上の重要人物である。高校でつかう日本史の教科書にも、たいていその名はのっている。
仁斎の生家である伊藤家は、今の堀川下立売あたりにあった。材木業をいとなむ、洛中の商家である。仁斎はその跡取り、長男であった。だが、学問に魅入られてからは、家業を弟にゆずっている。自らは私塾の学頭として、生涯をおえた。
伊藤家の兄と弟に、どのような葛藤があったのかを、私はよく知らない。仁斎の塾じたいは、伊藤邸の一画にかまえられた。その意味では、家族から見はなされていなかったような気もする。ひょっとしたら、弟は学問のできる兄をうやまっていたぐらいかもしれない。
しかし、たいていの画家は仁斎のような嫡男を、もてあましただろう。穀潰しのようにみなし、頭をかかえたのではないか。
さいわい、仁斎の学問は世評が高く、弟子もおおぜいあつまった。彼らからもらう謝礼で、生計がなりたった可能性はある。あるいは、伊藤家からも、いくばくかの補助はあったのかもしれない。(p.194-195)

堀川下立売のあたりか…。行ってみようかな。先生、「伊藤仁斎のお墓も行ってきました」って言っていたと思います。もっと話、聴いておけばよかったな…。

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