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金峯山寺(吉野町)

〽吉野を出いでて討ち向かう… 古い唱歌「四条畷しじょうなわて」の冒頭にある吉野という場所に惹かれたのはいつ頃か覚えていない。

されど、幼い頃、石ノ森章太郎氏の『マンガ日本の歴史』を初めて母に買ってもらった時に読んだ巻が天智天皇と天武天皇の話で、壬申の乱の話が出てくる。その時、大海人皇子(天武天皇)がいったん吉野に隠れる話、そして何よりもその後、中世に足利尊氏の離反後、建武政権が吉野に移って南朝として抵抗する舞台となることを知った後、子どもの頃から私は吉野はぜひ一度は行きたいものだと思っていた。

中央での権力闘争からいったんの逃げ場として利用されがちな吉野とはいったいどのような場所なのであろうか。

そして、その中核たる金峯山の蔵王堂を見ることは私の長年の夢であった。

…なお、この旅は前の記事・高野山参詣の前日である。

この前の日、私たちは仕事場から直接、東京駅へ向かい新幹線で新大阪に出て当地で一泊。

翌日、天王寺(大阪阿部野橋駅)から近鉄線の特急で一気に吉野までやってきた。

吉野駅からロープウェイにのったが、交通系ICもキャッシュレスは一切使えなくて困った。しかし、なぜか奇跡的に9枚100円玉があった。

ロープウェイを降りて参道を歩いていく。鄙ひなびた、かなりいい感じの参道を進むと黒門があった。

黒門

 さらに進むと今度は鳥居。神仏習合っぽさがムンムン。

銅鳥居

しかし、この神仏(というか、修験道との習合)との混淆のせいで吉野は廃仏毀釈による大ダメージを近代に受けている。

とは言え、この銅鳥居は中世期(室町時代)の貴重なものである(重要文化財指定)。廃仏毀釈を乗り越えて残してあるのがすごい。ここから先は吉野の聖域たるというべきか。

鳥居の扁額

しかし、国宝の仁王門は修理中!

修理中の仁王門

だが、このおかげ(?)で私たちはある恩恵を受けている。それについてはまた後で。

なぜか吉野駅の方からやってくると、国宝・仁王門と背中合わせに吉野の中心・金峯山寺の本堂(蔵王堂)が建つ格好となっている不思議な構造。

必然的に私たちは金峯山寺の横から(裏から?)境内に入る形となる。

菅公を祀る威徳天満宮。ここも非常に歴史が深い。

威徳天満宮の社殿

梅が綺麗。さすが天神様。

威徳天満宮

 そしてこちらが威容を誇る吉野・金峯山寺の本堂である。

蔵王堂

 天正年間頃、豊臣秀吉による寄進・造営になるものである。もちろん国宝。

内部には3体の蔵王権現の立像が安置されている。中尊の像高は728cmもあり、巨大な厨子に安置されている。

本来、秘仏なのだが、国宝・仁王門の勧進に合わせて近年はたびたび公開されており、ずっと前からこの像を拝みたかったのだ。かなり昔から。

だから仁王門の修理は残念な一方、この勧進をやっている間は蔵王権現が拝めるというメリットもある。だから恩恵と言ったのだ。

しかし、この蔵王権現の像容はめちゃめちゃJRとかのポスターにもなっているし、お寺のホームページでも見られるしで、もうあんまり秘仏的要素はないのかも…

だが、写真で見るのと実際に見るのとではやはり違う。

この像は実際にそのお膝元で仰いで拝みたいものだ。今回、その念願が叶ってよかった。

拝観料が高いが、個室(衝立で仕切られた小スペース)に案内されて、満足するまで見ることができるから、普通のお寺の堂内で慌ただしく見るのと違って、じっくり見ることができてよい。
そんなわけで大満足な金峯山寺の蔵王堂。やはりここも生涯で一度は訪れるべき場所であろう。

続くて吉水神社。「南朝本拠 四帝御所」と門に書いてある。

吉水神社の門

南朝が吉野にいた頃の後醍醐天皇の行宮が置かれた場所であるという。まあ、金峯山寺からはこんなに近いからね。もともとは金峯山寺の僧坊であり、神社になったのは明治期である(南朝顕彰のため)。

吉水神社の境内から蔵王堂を望む

先の天武天皇(大海人皇子)もそうだが、吉野に逃れた人びとというのは他に源義経や静御前などもいる。義経や静御前もここ吉水院に隠れていたんだとか。

吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき…
しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな

なるほど、静御前の歌にも出てくるわ。

こちらは北闕門。

北闕門

後醍醐天皇と言えば、崩御の直前「玉骨はたとえ南山(=吉野)の苔に埋ずむるとも 魂魄は常に北闕(京都)の天を望まんと思ふ」のセリフでおなじみ。

めちゃめちゃかっこいいよね、これ。

そこから谷を一つ越え、だいぶ歩きに歩いて如意輪寺へ。

如意輪寺の門

楠木正行の辞世の句で有名な場所。

えらじと かねて思へば梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる

これもかっこよすぎる。

♪あーおーばしげれる、さくらいのぉー…

桜井の別れの像

思わず歌いだしてしまうね。

♪今も雲居に声するはー、四条畷のホトトギス…

最後は後醍醐天皇の塔尾陵をお参り。

念願の塔尾の陵を参拝す

桜にはちょっと早かったけど、吉野を満喫。

やはり歴史、特に中世史を勉強する以上、ここには来ないとダメだね。

しかし、権力闘争からいったん体勢を立て直そうとする者たちがなぜ吉野を指向するのか、吉野とはいったい何であるのかはもう少し掘り下げないと理解できない。

殊に南北朝の動乱にあっては、理解しなければならないことはたくさんある。吉野は明治期以降、いわば「聖地」と化す。それは明治政府が北朝よりもむしろ南朝を正統と考え、時の明治天皇もそれを支持したことにある。

天皇自身は北朝の系統を引く天皇であるのにだ。

武家の力を借りて、即位したり、自らの勢力を維持した天皇や朝廷は他にもいっぱいあるのだが、近代のこの段階で北朝のそのようなあり方は「偽物」扱いしなければならない事情はもっとよく考えてみる必要がある。

吉野はその謎を解き明かす一端として、魅力的な場所であろう。

(終わり)

▼関連(覚え書)
なぜ室町幕府が南朝を滅ぼさなかったについては、森茂暁氏が『南朝全史-大覚寺統から後南朝へー』(講談社学術文庫、2020年)の中でこのように述べている。

…(前略)…その機はあったのに室町幕府が南朝の息の根を止めなかったのも、足利義満が明徳三年(一三九二)にあえて合体のセレモニーにこだわったのも、理由はともに南朝を平和裡に北朝と合体させ、皇統の一体化による「両統不可断絶」を達成しようと考えたからであろう。なぜ幕府はこれほど「両統不可断絶」に固執したのだろうか。この問題は広い見地から総合的に検討されねばならないが、基本的には、武家政権の側に、幕府存立の理論的根拠を与えているのは天皇家だという考え方があり、その天皇家が分裂したままであったり、ましてや一方が断絶するようなことがあっては理論的根拠を与える母体に瑕疵が生じ、当の理論そのものの十全さを損なうという思考からいまだ解放されなかったためではないだろうか。

森茂暁『南朝全史-大覚寺統から後南朝へー』(講談社学術文庫、2020年、P.148) 


 


 

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