忍性の足跡を訪ねて【前編】(常陸小田城跡・つくば市)
鎌倉時代後期に活躍した律宗の僧侶で、忍性という人物がいる。法然や親鸞、一遍、道元、栄西、日蓮ら所謂「鎌倉新仏教」の祖師たちが活躍した鎌倉時代の仏教界において、彼は教科書的には社会福祉や慈善活動によって、「旧仏教」サイドの対抗革命をしたイメージが強い。そのイメージは「非人救済」の慈悲深い僧として知られる反面、小説などでは時として日蓮のライバルとして描かれ、特に体制側の悪玉的な役を演じることもある。
ところが忍性の生涯において重要であったのは、母への愛、戒律の復興、そして文殊菩薩への信仰であった。
忍性菩薩の足跡を辿ってみたいと思ったのは、去年のことであった。
忍性の活動地域は前半生は故郷の大和(奈良県)や京などであり、示寂までの後半生は鎌倉である。
鎌倉の極楽寺が忍性ら関東における律宗の拠点となっていたことは知っていた。
ところがその鎌倉に入る直前、忍性は関東布教の足掛かりとして、建長4年(1252)から足かけ9年ほどを常陸国小田の地で過ごしていたということを偶然知った。
その地は現在の茨城県つくば市小田にあたるところで、当地には忍性の活動の遺構とされるものが残存しているという。
その名は三村山極楽寺跡。
時は春まだ遠い二月のある平日。
ようやく得ることができた束の間の余暇を利用して、私は忍性菩薩の足跡を追いかける旅の始めた。
◆PART1 タンクローリー
平日の首都高速は、休日よりもむしろ混んでいる。
世の中の人々が何かしら仕事で走る道路を、余暇を持て余す私の車が走るのはどこか申し訳ない気がする。
が…中央環状線を三郷JCT方面へ走っていくと…
こんな鏡面ピカピカのタンクローリー発見
渋滞で車間がつまった時を狙ってパチリ
走行中の自分の車を正面から見る、というのはどこか新鮮。
スカイツリーも見えました。
この後、三郷JCTから常磐道へ移る。
◆PART2 6連勤
その後は常磐道を走り、途中守谷SAで休憩。
守谷も結構規模が大きなサービスエリアである。
近年改装されたとみえ、非常に綺麗。
内部はフードコートになっており、いろいろな食事が楽しめそう。
時刻は11時頃。昼食にはまだ早く、あまりお腹も減っていなかったが、あまりにもいろいろなお店があり、美味しそうなのでここで昼食タイム。
普段、あんまりカレーとか食べないのだが、ラーメンとか定食とかと散々迷った末の選択。おしかった。ごちそうさまでした。
サービスエリアのフードコートでおいしいものを食べ、お土産を買い、スターバックスのコーヒーを飲む…
大変ささやかではあるが、こんな贅沢、していいものなのだろうか?
実はこの日まで私は6連勤であった。このうち2日間は休日出勤である。実によく働いたものだ。
だが、これを聞いて「6連勤くらいで何を…もっと大変な人はたくさんいるよ…」と思う人もいるかもしれない。
私だって仕事は仕事。そこは割り切ってやろうと思っている。
ただ、釈然としないのは、ひとえに不公平に対するものなのだ。
というのも、ここ数日の仕事には「早く帰っていい人」と「最後まで残らなければならない人」がいた。私は常に後者だった…
勤務時間を超えて仕事をしても、手当は出ない。そうなれば、後者の立場の人間は、損をすることになる…
休日出勤もしかりだ。手当の出ない休日出勤に、「出勤をお願いする人」と出勤しなくて良い人がいる。
私はいつも「お願いされる」側だ…
妥当な額の手当さえ出してくれれば、休日出勤も小遣い稼ぎくらいには考えられる。
だが、雀の涙ほどの手当での休日出勤や、残業を甘受するほど、私はお人好しではない…
だが、現実は「〇〇さん、今日も明日も出勤なのー?大変ねー」
そんな同僚の声に、曖昧な笑顔でごまかす。
だけど、心の中ではこう言っている。
同情はいらない。むしろ、ムカツク。
だから、せめて休みの日くらい自分を慰めるための浪費くらいして置かないと、精神的に不安定になる。
高速道路のサービスエリアは、そんな私の心の支えなのだ。
◆PART3 小田城跡
その後も常磐道をひた走る。
土浦北ICで退出。
国道125号線でつくば・下妻方面へ走りやってきたのは…
常陸小田城跡
最近、整備されたものとみえ、真新しい駐車場と案内所があった。
◆PART4 『神皇正統記』が筆の跡
常陸の小田城は、鎌倉時代の御家人八田知家が文治元年(1185)に常陸守護となって当地に入ったことに始まる。
知家の子孫は小田氏となり、鎌倉幕府が滅びた後、南北朝期に小田治久が南朝方になって以降は、北畠親房が入城するなど、関東における南朝の拠点となった。
後、治久は北朝・幕府軍の攻撃を受け降伏したため、親房も吉野へと帰ったが、この間に書いたのが『神皇正統記』である。
このため、現在、「神皇正統記起稿之地」の碑がある。
北畠親房が関東に入ったのは延元3年(建武5年/暦応元年・1338)。
この時、すでに楠木正成、新田義貞、そして息子の北畠顕家ら南朝方の主力諸将はなく、彼は起死回生をはかるため、結城宗広とともに後醍醐天皇の二人の息子、義良親王と宗良親王を連れて、伊勢から船で東国へ乗り出した。
しかし、船は暴風にあって散り散りになり、それぞれ別の場所に漂着した。津に漂着した結城宗広はまもなく病死し、地獄に堕ちてその責め苦に苛まれている頃」、親房は常陸に単独で上陸した。
小田治久を頼り、神宮寺城、そして阿波崎城と移るが、両城は佐竹氏の攻撃にあい、入ったのが小田氏の本拠地である小田城であった。
親房が吉野に帰るまでの5年の間に『神皇正統記』は書かれた。
『神皇正統記』は、一般には「南朝の正当性を述べたもの」とされるが、その内実はむしろ中世人である親房が、中世と言う時代をどのように見ていたか、というものの方が興味深い。
私たちのように現代に生きる私たちが、あずかり知らぬ過去を見ようとするとき、そこにはいくつものバイアスがかかる。
北畠親房の治承・寿永の乱や承久の乱など鎌倉時代に対する見方は、そういったバイアスを取り除いてくれるようにも思える。
だが、一方で知らず知らずのうちに、私たちの方がむしろ『神皇正統記』から影響を受けて、日本の歴史を見ているような気もする。
すなわち親房が逆にバイアスを与えているとも言えるのだ。
◆PART5 広大な城址
小田城の跡は、戦国時代まで小田氏の居城となり、大きな戦国大名が育ちにくい北関東に特徴的な小大名の分立の中にあった幾多もの合戦の舞台となった。
しかし、天正元年(1573)以降、佐竹氏に城を奪われ、佐竹氏が関ヶ原後に秋田へ移封された際に廃城となった。
小田城は国の史跡に指定され、つくば市を主体に長期にわたって発掘調査が行われていた。
近年、その調査の終了に伴い、一体が「小田城跡歴史ひろば」として歴史公園が整備されたのである。
それにしても復元された城跡を見ると、中世の平城にしては非常に広大なエリアを持っていることに、正直驚いた。
こういうのは実際に来てみないとわからないものだ、としみじみ思った。
この城の重要性がこの規模から推し量ることができるからである。
小田城跡から見る筑波山。
至近にある小田保育所。歴史的な地名が、こんな感じで残っていると何だか嬉しい。
◆PART6 小田の町並み
この後、小田の集落を少し歩いてみた。
歩いてすぐに気付いたのは、小田の集落には立派な瓦屋根を持つ重厚な日本家屋が非常に多いということだった。
多くは普通の民家ゆえ、あまりカメラを向けるわけには行かなかったが、この景観は、あまりにも意外な出会いであった。
立派な板塀、漆喰を持つ塀を持つお屋敷も多い。
こんな半鐘のある火の見やぐらも趣がある。
歴史を大切に雰囲気にも溢れており、思いがけず出会った独特の町並みであった。
惜しいかな、しかし、それらの民家は朽ち始めているものが多い。廃屋もあるようだ。
やがて、この光景はなくなっていくのであろう。
何とかこの景観を維持できないものか…
そう思いながらも、この失われていく古いものたちもまた、私に何か特別な感情を湧きあがらせるのであった。
『神皇正統記』の碑が見たいだけで立ち寄った小田城跡と小田の町並み。
思わぬ収穫だらけの旅であった。
機会があればまた来たい。そんな町であった。
(つづく)
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