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ハナミズキの実を探す


 朝というものは、何かの始まりの象徴だが、時に終わりの幕引きでもある。

 ベッドの上で薄い掛布にくるまり、鳥の歌を聞きながら翔子はそんなことを思う。
 水蒸気の飛沫が弾ける音に乗り、コーヒーの香りが漂ってくる。翔子を呼ぶようにトースターが鳴った。
 諦めたように翔子は体を起こし、ベッドから足を降ろす。ダイニングに入るとレイモンドが淹れたてのコーヒーを2つのマグカップに注ぐところだった。
「モーニン」
 カップをテーブルに置くと、レイモンドは翔子を抱き寄せて軽く頬にキスをする。
 翔子はレイモンドを見上げる。長身のレイモンドの腕の中には、165センチの翔子がすっぽりと小さな少女のように収まる。
「大きいから、君を抱えられる」
 悪戯を思いついた子供のようにレイモンドは、不意に翔子の体をふわりと抱き上げる。翔子は声を出して笑った。
「後悔してる?」
「どうして?」
「君は仕事もやめて家族とも離れて、僕の国に来るだろう?」
「未練がないと言えば嘘になるわ」
 カップの中に浮かぶ自分の顔から翔子は目を逸らす。
「天秤があなたとの生活に傾いたの。あなたが気にすることじゃない。私が決めたことだから」
 微笑んで翔子は、残ったコーヒーを飲み干した。


   *


 天秤にかけられた価値比べに常に勝ち続けるから大切なのか、大切なモノだから、他を捨てる時に免罪符になり得るのか。

 通い慣れた道を、翔子はヒールで確認するように歩いた。駅から続く遊歩道にはハナミズキが植えられている。翔子は足を止め、初めてこの道を歩いた五年前には花の季節だったと思い出した。目の前の木の枝からは、花の代わりに赤く染まった葉が揺れる。ざわめく葉にまぎれ、小さな赤い実が見えた。

「おはようございます」
 突然かけられた声に、翔子は振り向いた。
「随分熱心に見て、何かありましたか」
 高嶺がやわらかな微笑を浮かべている。
「いえ、懐かしんでいただけです」
 ふたりで並んで会社へと歩き始める。
「ハナミズキ、好きなんですか」
「会社に入った時は花の季節だったなと」
「今は実りの季節ですね。いい時期だ」
「小さな実がついていましたね」
「赤くてよく見ないと葉と紛れてしまいそうな実ですよね」
「部長、詳しいんですね」
「目立たないけれど光るものを見つけるのは、得意なんですよ、僕」
 高嶺はそう言って笑う。
「知ってます」
 翔子は高嶺との出会いを思い出す。
「目立たない私を出向先から、引き抜いてもらいました」
「五年ですか。……今日までですね」
「はい」
「最後一日よろしくお願いします」
「……はい」
「どうかしましたか。寿退社にアメリカ移住。幸せでしょう」
「どうでしょう」
 翔子は曖昧に微笑んだ。


   *


「聞いてもいいかい」
 レイモンドは紙コップのコーヒーに砂糖を注ぎながら、スタンドでコーヒーをかき回している高嶺に声をかけた。
「翔子は、幸せなんだろうか」
「本人に聞くべきじゃないですか、それは」
「聞いてもきっと答えない」
「それなら『言わない』が彼女の正解なんでしょう」
 高嶺のそっけない返答にレイモンドはため息をつく。
「なあ、日本人はどうして本当のことを言わないんだ」
 レイモンドの嘆きは高嶺には少し不思議だった。言葉にしないだけで、彼女の全身から、彼女の本心は滲んでいる。少しその鈍感さに高嶺はうんざりとした。
「言葉でなくても、わかるでしょう。彼女を見ているなら」
 少し棘があると、高嶺は自分でも自覚していた。高嶺の言葉に、レイモンドは一瞬あっけにとられる。
「君も、そうか」
 レイモンドは目を逸らし、コーヒーを一口飲んだ。

 窓の外には赤く染まったハナミズキが見える。
「もうすっかり秋だな」
 レイモンドの青い目は、どこか遠くの景色を巻き戻しているようだった。
「翔子に会ったのは花の季節だ。なあ、高嶺」
「……」
「君は、後悔しないのかい」
 高嶺はコーヒーを一口啜る。目を合わせず、しばらくコーヒーの黒い闇に目を落とした。
「気づいていないと、思うのか」
 強い声を遮るように、高嶺は口を開いた。
「引き止めることはない。仕事は、家庭より大事であってはならないでしょう」
「そうじゃない」
「何を心配してるんですか」
 食い下がるレイモンドに高嶺は釘を指す。
「彼女が幸せになるなら、それが一番です」
 一瞬、射抜くような光が高嶺の目に宿り、レイモンドにそれ以上先の言葉は、飲み込ませた。
「私は明日からは友人です。君とも、彼女とも。友人の幸せを願うなんて、ごく普通でしょう」
「そうだな」
 レイモンドは甘いはずのコーヒーを苦く一気に飲み干した。


   *


 花を見つけるか、実を見つけるかで、こうも選ぶ道が変わるのだろうか。
 窓の外にはハナミズキ。小さな赤い実のような人だと高嶺は思った。景色に溶け込んでいるのに、小さなその赤い実は確かに違うのだと、その存在を高嶺に教えてくれた。その実は自分から見つけてほしがったと、高嶺は思っていた。実際はただ、陽の光が時の巡り合わせで教えただけで、赤い実は存在を教えてなどいなかった。
 それでも、彼女は輝いた。それは存分に生きる場を見つけた魚のようで、しなやかに力強く泳いだ。

「後悔は、本当にないんだ」

 デスクで誰にも聞こえない声で、モニターに向かってぽつりと呟いた。

 花を愛でることが愛なら、実を見つけるのは情に近いだろう。この感覚を誰かに伝えるのは難しい。彼女とレイモンドが人生を共に生きると聞いた時は、心から嬉しいと思った。レイモンドがロサンゼルス支社からきたばかりの頃は、そう親しくなるとは思わなかった。けれど、レイモンドのその率直さと誠実さが人を惹きつける様を目の当たりにするうちに、高嶺は、人柄の魅力とは、そうどの国も違いはないのだと知った。翔子もそうだったのだろう。真っ直ぐな彼女は、彼とよく似ていた。

 時計はいつの間には終業時間を指していた。
 帰り支度をする高嶺はもう一度時計を見る。約束した時間まではまだ少しあった。
 翔子は席で他のスタッフと談笑している。
 そっと席を立ち、高嶺はタイムカードを押した。


   *


 ロビーの入り口で、高嶺はビルの外壁に背を預けた。
 暗い空に申し訳程度の星が光っている。街灯が赤い葉を浮かび上がらせた道に、帰り始める人々の後ろが、時折、舞い落ちる赤い葉の中に溶けていった。

 ハナミズキ。

 確かアメリカから来たと聞いた。遠い昔、桜を贈った代わりにと海を越えたその木は、桜と同じように薄紅色で同じように赤い艶やかな実をつける。桜の実は誰もが知るのに、ハナミズキの実は葉に埋もれている。
 どこかで目立たない実を見つけるのは自分だけだと、思い上がっていたのかもしれない。
 まるで故郷に帰るように、今度は赤い実はここから去ってゆく。

「おまたせしました」
 翔子の声に、高嶺は振り向いた。
「彼はまだですか」
「他のスタッフにつかまっているみたいですよ。先に行っててくれって」
 レストルームでの彼を高嶺は思い出した。あんなことを口にしたレイモンドが、翔子を先に送り出すことに、何か意図があるように思えた。
「どうしたんですか?」
 歩き出そうとしない高嶺に翔子は振り向いた。

 遠く日本の土地へ贈られたハナミズキは、何を思ったのだろうか。

「あなたは、ハナミズキのような人ですね」
「え?」

 風がざわざわとハナミズキの枝を揺らす。

「花の意味を、思い出しただけです」
 思わず自分が吐き出した言葉に高嶺は苦笑する。
「花言葉ですか? 意外にロマンティストですね」
「意外ですか」
「そういうものには興味がないと思っていました」
「そうでもありませんよ」
 靴底でシャリと枯れ葉が割れる音がした。

「返礼」
 高嶺は口にする。
「それに耐久力」
 いくつかの言葉から、伝えていい言葉だけを選ぶ。
「あなたはきっと、向こうでもやっていけます」
 高嶺の言葉に、翔子の瞳の奥がかすかに揺れた。
 教えられない花の意味がひとつある。その言葉を飲み込んで、高嶺は翔子の背中を押す。
「あなたは、僕が見つけた赤い実ですから。自信を持っていい」
「部長の保証ですか?」
 心配をはぐらかすように翔子は笑った。


   *


 おそらく日本で最後になる三人の食事は、なぜか翔子には不思議なほど、現実味がなかった。
 きっと高嶺が妙なことを言ったせいだった。そんなに不安な顔をしていただろうかと、翔子は窓ガラスに映る自分の顔を見る。
「不安って顔に出るもの?」
 映った顔をなぞる翔子に、少し頬を赤くしたレイモンドが、何気なく答えた。
「君を見ている人なら気づくんじゃないのかな」
「わかりやすい人というのは存在します」
「高嶺。あなたは前から思っていたけど、読心術でもできるのかい」
 冷静にビールを手酌する高嶺に、レイモンドは大げさに驚いてみせる。
「不安ですか」
「ハナミズキが消してくれました」
 翔子はニッコリと笑う。不安が消えたわけではないけれど、慣れない言葉を並べてまで、後押しをしようとした高嶺の気持ちを素直に受け取りたかった。
「ハナミズキ?」
「ハナミズキみたいな人だって、私のこと」
「日本人はどうも、ホラ。風流? 本心がわからない」
「空気というものの方が、時に言葉より、本心を伝えるんですよ、レイモンド」
 レイモンドのぼやきに、高嶺は穏やかに答える。

「『Am I indifferent to you?』」
 翔子が席を外すと、レイモンドは高嶺に囁いた。
「それが本心?」
「そう思いますよ、心から」
 高嶺は残ったグラスを飲み干した。
 立ち上がるとコートをはおり、レイモンドの目の前に手を差し出す。
「元気で」
「行くのかい」
 手を握り返し、レイモンドが立ち上がる。
「なぜ伝えない?」
「必要がないからです」
 そう答えると高嶺は伝票にお札を挟んだ。

 翔子が席に戻ると、高嶺は扉を開けるところだった。
「帰ったよ」
 追いかけようとする翔子の腕をレイモンドが掴んだ。
「ハナミズキの僕の国の言葉を、君は知ってるかい?」
 レイモンドは迷うように目を泳がせる。それでも一度は伏せた目を起こした。

「君に関心がないと思うかい?」

 レイモンドの顔が複雑な微笑を浮かべる。

「そういう意味だよ」

 すべて聞く前に、翔子は高嶺を追った。

「部長」
 店の外に出たところで、翔子の声に高嶺の足が止まる。
 息を整えながら、高嶺の背中に翔子は一歩ずつ近づく。
「私を、見つけてくれて、ありがとうございました」
 翔子は深々と頭を下げた。

 本当とはどこにあるのか。
 高嶺が自分に関心があったというなら、その本心はなんだろう。
 高嶺だけが高嶺の深淵を知っている。そして自分も。深淵の奥でくすぶっていたものは、自分にしかわからない筈だった。翔子自身、固執したのは仕事なのか、高嶺と仕事をしてきたあの場所なのか、もしくはその両方なのか。それでも高嶺は背中を押した。
「いつか、あなたという実が芽吹くでしょう。僕はそれが楽しみです」
 振り向いた高嶺は穏やかに微笑むと、踵を返して片手を軽く上げた。


   *


 レイモンドがぼんやりと残ったグラスを眺めていた。戻ってきた翔子に、驚いた顔をする。
「なんでそんな顔をしているの」
「高嶺は、いいのか」
 頷いた翔子の頬に、レイモンドはそっと触れる。
「そんなことを心配していたの?」
「後悔は、ないのか?」
「ないわ」
「君たちはいつも嘘ばかりつく」
「嘘の中にも、本当のことはあるの」
 レイモンドにそう答えた自分に、翔子は自分で驚いた。
 後悔がないのは本当だった。しいて言うなら、くすぶった残り火のような、未練に似た名残惜しさなのだろう。選んだかもしれないもうひとつの道は、存在しない道なのだ。
 大きなレイモンドの手が少しこわばっている。翔子はその手に小さな手を、溶かすようにそっと重ねた。


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