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映画レビュー 幕末太陽傳

ずっと食わず嫌いできたこの映画。
ほかに観たい作品はやまほどあるし、もう生涯観ることないんじゃないかと思っていたのが、観る気になったのは、かの談志師匠が絶賛していたからで。
加えて、このところ落語で品川心中ばかり聞いていたことも関係している。あまた師匠の品川心中を聞きながら、品川の海ってどんなだろうかいな?などとつらつら思っていたこともあり、先だって天王洲アイルまで行ってみた。けれど、あれは埋め立てられた海なので、微塵も品川心中っぽさを感じることはできぬまま。なんとか品川の海を感じる手段はないかいな、と思っている矢先、談志師匠が誉めていたこの映画を思い出したと言う次第。

いやあ、満足満足。数日経つというのに、熱量が下がらない。
左平次ロス!
昨日なんて、思い余って映画の舞台となった土蔵旅籠屋跡まで行ってしまった。無論、もう建物はなく、今はローソンとなっていた。
土蔵旅籠屋跡まで来てみたところで、映画に出てきたような海は、とうの昔に埋め立てられていることは先刻承知の助であったのだけれど、大通りから細い道に入り、件のローソンがある通り、商店街となっている通りに入った途端、鼻腔に潮の香りが。

嗚呼、埋め立てられても、ここはかつて海だったのだねえ。
などと、ひとりごちたものの、振り返って見れば角に老舗の魚屋があるではないかいな。潮の香りと思ったのは、単に魚の匂いであったという、さして面白くもないオチであった。
通りに潮の香りなんてただよっているわけもなく、目指すローソンまでわずかな距離を歩き、店の横に立っている跡地説明札を一読。品川心中の舞台となったのは、このあたりなんだと思いを馳せつつ、つっきり船宿まで歩いてみる。川には、鯉だかフナだか、たくさんの魚が泳いでいた。

散策は、これにて終了。
本当は、品川歴史博物館に旅籠屋のレプリカがあるのでそれをみたかったのだけれど、跡地から遠すぎたので断念。この日断念したことで、博物館にはおそらく、生涯、行くことはないであろうと思うけれども、そうしたもんだ、人生というのは。

そうして、件の映画である。
想定外に面白かった。そうして、良い小説を読んだ後のように、いまだわたしの心に、フランキー境の佐平次が居座り続けておるのである。

なぜなのか?

思い当たるのは、あの目じゃなかろうか。
佐平次の目だ。左平次は、楽しく愉快軽快な男でありながら、一人になるとふと暗い悲しい目をする。労咳であろう咳をしているから、自分の命が短く終わることになるかもしれんことを知っている男の目である。

そうして、幻のラストの存在。これも大きい。
現行の映画では、ひとり東海道をかけていく佐平次の背中で映画は終わるのだが、当初は、駆けていく佐平次が現代の(当時の)品川の街を歩いていくシーンで終わる予定であったという。石原裕次郎演じる高杉晋作の懐中時計は、そのためのフックになっているのである。
どう考えても、現行のラストより、そちらの方が良い気がするが、残念なことに実現しなかった。あまりに突飛であろうと、キャスト全員が反対したというのだ。フランキー境は、後年のインタビューであのとき反対しなければ良かったという旨の発言を残している。
だがしかし、である。キャストの大反対を受け、監督はラストを変更したおかげで、まことしやかに幻のラストが語り継がれることになったわけで。なるべくしてなったというか、それはそれでドラマチックではあるまいか。





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