憚られる女性器

12歳から下ネタ大好きなことを公言して生きてきた。口を開けば「ちんこ」と「おっぱい」と「うんこ」。ウキウキしながらキャッキャウフフと声に出していた宝物のような言葉たち。

しかしこんな私でも20歳を超えるまで口に出すことを憚られてきた言葉がある。

そう、「まんこ」だ。

「ちんこ」と対になる言葉であると感じながら、「ちんこ」と同列に扱うことを無意識に恐れ、忌避していた。

なぜだろう。そしていつからだろう、「まんこ」と口に出すことが怖くなくなったのは。 

「おっぱい」は口に出すことを恐れる必要のある言葉ではなかった。むしろ親友だ。親しみすぎている。円周率の授業は楽しかった。πは勝手に全部おっぱいに変換された。英語をならい始めると、真っ先に英語のおっぱいを調べた。いかにやわらかそうに「おっぱい」とひらがなで書けるか練習した。

「おっぱい」は親友なのに、「まんこ」は何故なかなか友達にさえなれなかったのだろうか。

思うに、「おっぱい」と「まんこ」の違いは目に映る頻度でしかないとは思う。

「おっぱい」は見ようとしなくても風呂に入れば勝手に目に入る。しかし「まんこ」は無理矢理のぞき込まないと見えないのだ。だから怖かったのだと思う。

初めてまじまじと自分の女性器を見つめてみたあの日、恐ろしくて震えた。「ええ、私の体になんちゅー恐ろしい見た目のものついとるんじゃい」とショックを受けた。ホントに化け物に見えた。食べられるんちゃうか??と恐れた。見ようとしなければ見えない恐ろしい部分が自分の身体にあるという事実を意識するのが怖かった。だから「まんこ」と簡単には口に出せなかった。

「ちんこ」は女である自分には「まんこ」と同様にそんなに簡単には見えるものではない。しかし「ちんこ」は他人だから口に出したところで他人事なのだ。怖くない。でも「まんこ」は否応なしに自分の身体についてまわるのだ。だから怖かった気がする。見えないしよく分からない、でも身近にあるから怖い。

「まんこ」と口に出すことが怖くなくなった時は、いつ何がきっかけだったかすらわからないが、「あぁ、大人になってもうた」としみじみと感じたことは覚えている。

余談だが、4歳ぐらいまでの幼い頃、私の父は夜更かしする私を叱る時に「早く寝ないとペペロンチーノがくるぞ!ペペロンチーノ近くに住んどるからすぐ来るぞ!!!」とよく言った(当時ペペロンチーノがまさかスパゲッティだとは思わなかった)。ペペロンチーノというお化けがいるものだと思っていた。数年後、私の頭の中で幾度となく想像されてきた恐ろしいはずの「ペペロンチーノ」がニンニク味のスパゲッティだと知った時(お父さんがファミレスで「ペペロンチーノ下さい〜」と平気で言った時)も同じように「あぁ、ちょっと大人になったなぁ」と思った。

まんこもペペロンチーノも身近にありながら、見えないし分からないから怖かった。



土曜の夜にこんなことを真面目に考えていると、アホくさくて死にそうになる。

おとなになった今、「まんこ」をまじまじ見る機会がそれほど増えた訳では無いが、自分が女性であることを意識し始め、自分の体を知ろうとしはじめたとき、「まんこ」はとりあえずは友達ぐらいにはなった。




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