オリンピックとパラリンピック

※注釈
本来、生きているうちに母国でオリンピックが一度でも開催されれば良い中、まだ人生いかようにでもなる30歳のタイミングで東京オリンピック観れたことに関係者各位に一方的に感謝の言葉を伝えたい+(世界ではアフガンの情勢等もある中)今の自分の境遇に改めて感謝の念が絶えません🙏

※本題
今回オリンピックとパラリンピックを見ている中で色々感じたことがあり、備忘録的に記載。

オリンピックを観ていた自分は、日本の実力があるアスリートが期待通りメダルを取れるか、日本が世界と比べていくつメダルを取れるか、どんな記録(世界新)が出るかをワクワク+検証も含めながら見ていました。

しかし、オリンピックを観終わって強く感じたのは、モダンスポーツ(スケボーやBMX)と過去の競技の違いでした。

モダンスポーツは、(スケボーは評価自体7試技中得点の高い4試技を評価)失敗ありきでのチャレンジを重視するかつ、各参加者が国籍関係なく、メダルの色よりも自分のベストを出すことを重視している事が印象的でした。

対照的に野球やサッカーは古くからあるメジャースポーツのため、各国が国の威信をかけて戦っており、参加者も国の代表としての意識があるかつ、その重圧を感じつつそれを代表選手が誉れと思っている気がしたのが印象的でした(負けた時の国民の反応もとても厳しい)。
※また、新体操等はミスしたらその時点でメダルが途絶える(チャレンジより完成度)。

どちらが良いかの良し悪しを言いたいのではなく、それぞれのスポーツをオリンピックを通じ、各スポーツの違いを感じられる事が、本当に貴重なんだなと思った次第です。

しかし、今パラリンピックを観ていて感じてるのは、オリンピックで自分が気づいた気付きすら、如何にそれが本質とは少し離れ、無意識的に自分が持っていた強者の論理かつ偏った見方だったかということでした。

パラリンピックの参加者のインタビューを通じ感じたのは、彼らは自分は(オリンピアンと違い!?)人として優れている自意識や傲慢さは微塵もなく、(誰かのサポートなしには日常生活すら送りにくい中で)周りの人のサポートや支援があって今の自分がある(人は人の助けなしには生きられない)という、当たり前の前提を1mmの疑問を思わないレベルで理解しており、それがゆえにパラリンピアンの言葉や行動からはそれが強く感じられると同時に、自分の傲慢さや自分の世の中を見ている姿勢を深く反省しました。

また、オリンピアンは一つのIdeal(演繹的な理想)を追求しているのに対し、パラリンピアンは障害の種類が違う(競泳が顕著で、腕はあるが足はない、足はあるが腕はない人)が同じ競技で競う中、自分が持っているもの・残っているものをベースに各々のベスト+メダル・記録の結果を目指す(帰納的に自分の特徴を活かす)考えに、ハッとさせられました。

普段仕事をしている中、僕はオリンピアン的な思考回路になっています。でも、本来は他人と比較する必要はなく、自分の(長所・短所含めた)特徴を生かす方向で考えるべきなんだな、それで良いんだなと、変な焦りを持っているがゆえに僕は悩んでいるんだなぁと気付きました。

まっ!長々とオリンピックやパラリンピックから考えられる点を真面目に書きましたが、オリンピックやパラリンピックはスポーツの祭典で、(政治等も含め)小難しいことは考えず、ただシンプルに代表選手が真摯にスポーツと向き合い、だからこそ感じられるスポーツの奥深さや面白さを(頭ではなく)心で楽しむ、それが唯一無二のポイントなんだと、改めて思いました。笑

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